成分表67
加藤茶
上田信治
「里」2012年9月号より改稿転載
日々、けっこうな時間を、自分の本棚を眺めることに費やしていた時期があった。
ナルシストが鏡を見て飽きない、という状態を想像してもらえればいい。いつでも気が向くと、椅子の背を回して、自室の壁一面の本棚を鑑賞し、玩味する。そこに見えるものは全体として、自分の似姿、あるいは理想像であるように思えた。
三十歳手前のころだったか、いつものように、楽しく自分の本棚を眺めているとき、ある理解がやってきた。
自分は、この何百冊かの本の大半を、頭の体操か見栄か暇つぶしのために、所有しているに過ぎない。
それらの中で自分にとって本当に意味があるのは、数冊の、ごく他愛ない笑える本だけだった。その数冊が体現する美しさだけは、自分にとって疑うことができない。つまり、それがほぼ自分の「本性」であると言っていい。
そういったことが、分かってしまった。
自分の本質と思えるものが世界の卑小な一部分でしかないことには、強い現実感があり、自分はそのことに深く得心した。
そのとき本棚にあった本は、ほとんど捨ててしまって手元にない。
最近、ある人に、笑いというのはすり減りやすいもので、例えば加藤茶のストリップは、昔は本当に面白いと思ったが、今見たらとても笑えないだろう、というようなことを言われた。
自分は、いや、笑いの中には詩があって、笑いを生む力がすり減ったとしても、その詩の部分は失われないのではないでしょうか、と反論を試みたけれど、自分が以前は大切にしていた笑える本も捨ててしまったことを思うと、その詩の部分こそ、失われやすいものなのかもしれない。
いや、たぶん、それはそうではない。表現の価値、あるいは世界の価値は、それを歓びとして受けとる人の関与によって生まれるのだから、変わってしまうのは、いつも自分たちのほうだ。
とつぜん照明が変わり、テナーサックスのムード音楽が流れると、ハゲ親父に扮した彼の内部に別人格が目覚め、ストリップティーズの典型的な演技がはじまる。「あんたも好きねえ」「ちょっとだけよ」。記憶の中の彼は、じゅうぶんに美しい。
失われていくものを思う心が、それを記憶の中で美しくするのだとも言えるけれど、そうではなくて、それは、一度は本当に美しかったのだ。
蟷螂の風を踊りてゐたりけり 平井照敏
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