2015-09-20

BLな俳句 第9回 関悦史

BLな俳句 第9回

関悦史


『ふらんす堂通信』第144号より転載

友の寐にみどりしたたる夏暁かな  飯田龍太『百戸の谿』

夏の朝、まだ目覚めずにいる友が、清冽で緑豊かな大気のうるおいに包まれている。

泊りがけで遊びに来た翌朝のことだろう。彼はもちろん見られていることに気づいていない。

それを眺める語り手の思いは何も書かれていないが、「みどりしたたる夏暁」に囲まれた友は若々しく、自然美と一体になっており、あたかもラファエル前派の絵に描かれる自然のなかの美女のような扱いである。あくまでも好ましく、悪感情があろうとは到底思えない。

語り手はすぐに彼を起こしたりすることもなく、その寝姿を見やり、彼をおしつつむ爽快な空気と光を意識し、やがて昼へとうつろってしまう夏の朝を「かな」と詠嘆する。彼の外見のきれいさを示す語はひとつもないが、周囲の風光の好ましさが彼一点を核にして集中しているようである。

すぐに騒々しく起こさないだけではなく、彼が目覚めた後も、語り手が彼を見ていたことを告げることはないだろう。思いは全て沈黙のなかにある。

作者の飯田龍太はよく知られるとおり、若くして故郷の境川村に引き、そこで生涯を過ごすことになった。同じ第一句集『百戸の谿』には《露の村恋ふても友のすくなしや》という句もあり、作者その人のさびしさ、人懐かしさが窺われる。


蛍火や少年の肌湯の中に  飯田龍太『百戸の谿』

やがて《一月の川一月の谷の中》を作ることとなり、高柳重信とも親炙することとなる龍太の句は、その生活風土からすると不思議に思えるくらいに泥臭さが欠落している。しかしそれは句に身体的な実感がともなわないという意味ではない。抽象化への傾きを秘めているかのように見えながら、むしろそれゆえに句は清潔な官能性を帯びるのである。

この句も肌というフェティッシュな要素を打ち出しながら「少年の肌」自体に執した即物的な描写へは向かっていない。「湯の中に」という他の要素とのふれあいや位置関係、「蛍火」との照応がそのまま一句に定着されているだけである。いわば、句の背後に、客観的でありながら、その客観性自体が、禁欲や諦観と通底しているような、ものいわぬ主体がひそんでいることが感じ取れ、その永遠の「お預け」状態を受け容れることが、俳句形式を通じてエロスに転換されているといえる。

作者自身の生活風土に引き寄せてしまえば、この句も山国の子供が風呂に入っているだけの句になってもおかしくないのだが、そう受け取るには「蛍火」と「湯の中」の「少年の肌」という言葉の選択が、あまりにきれいすぎる。ことに「蛍火」など、使い方を誤れば容易にただの符丁と化し、空疎な美化に終わりかねない言葉である。それを避けえているのは、状況や位置関係の説明しかしていない「少年の肌湯の中に」に対し、「蛍火」が外から添加した美化ではなく、存在の儚さを内側からつかむような機能を果たしているからだろう。そうした作り方もありがちといえばありがちではあるはずなのだが、ここでは魅惑されている自分への内省が、簡素で客観的な言葉の配列の向こうに蠢いており、その関係全体が澄んだ湯のような「自然」として観じられているようである。

同じく少年の肌を詠んだ句に《泳ぎ子の五月の膚近く過ぐ》(『百戸の谿』)がある。こちらでは「泳ぎ子」の膚と、語り手自身の肉体のすれ違いがとらえられている。泳ぐにしても五月ではまだ寒そうな気もするが、句から感じられるのは泳ぎ終えた子の体の、気持ちの良い疲労感を帯びた熱気の放散といったものだ。そして、いずれの句にしても相手は全く無心のようで、湯との接触や、語り手とのすれ違いを意識しているのは語り手の側だけである。

少々飛躍が過ぎると承知してはいるものの、ここからはロブ=グリエの小説『嫉妬』を連想してしまう。これは執拗にして何の意味があるのかわからない客観描写が、じつは妻の不貞を疑う夫の視点からなされているとわかった途端に、全てが狂的な情念と化してしまうというヌーヴォーロマンの代表作だが、そうした一方的に見る側の狂的な情念をきれいに蒸留しきったのが龍太の少年句と見ることもできそうである。龍太の類型表現(例えば「〜の中」といった下五の止め方)の多さを筑紫磐井が『飯田龍太の彼方へ』『戦後俳句の探求』で指摘しているが、その根底にあるのは、こうした浄化の欲求なのかもしれない。


花栗に男もすなる洗髪
  飯田龍太『百戸の谿』

『土佐日記』の「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」は、紀貫之が女になったつもりで書いているという体裁で、この句の「男もすなる」も女性ではなく男性なのだろう。「男もするという洗髪を女もしている」と取れないことはないが、一句を読みくだして立ち上がるイメージは髪を洗う男のそれである。とりあわせられるのが「花栗」であればなおのことだ。

男であるには違いないのだが、性別がぶれさせられ、不安定化した格好である。髪を洗うときの姿勢がそもそも不安定感をそそるものだ。後ろに誰かがいても見えず、何かされても咄嗟に反撃もできない無防備な姿勢である。男の性的アイデンティティを揺るがせる句の背後には、そうした体験的実感もひそんでいるのではあろうが、しかし句のなかの男は性的揺らぎを不安がっている風情もなく、むしろそうした奇妙な含意を担わされた身体を無心に堂々とさらしているようだ。ここで描かれているのは、男から女への変容というよりは、男が男のままで性的視線の対象とされることを引き受けるという変容を担った身体の充実と見た方が実情に近そうである。龍太の句において水と接近させられた男はみな、多かれ少なかれ、そうしたしなやかな水妖(あるいは水の精)のようなものへの変容を迫られるようだ。《入学児脱ぎちらしたる汗稚く》《思春期の汗あふれ出づ麦畑》(『百戸の谿』)のような、ごく日常的な場面の「汗」ですらも、どこか子供をこの世のほかから来た者と捉える意識がかすかに混じっている気がする。「弟帰省」の前書を持つ《春月に髪も腕も滴らす》(『童眸』)をここに加えてもよいだろう。

この句の場合は、髪を洗っている男と語り手が別人なのか、同一人なのかはっきりと区別はされていないが、「花栗」が外側からの視線の存在を暗示している。


秋めきて中年の美や喫煙室  飯田龍太『百戸の谿』

BL用語でいえば「オヤジ受け」に相当する句だろう。

「少年」の句と違い、そのままでは美を伝えることが難しいためか、はっきり「中年の美」といってしまっている。「秋めきて」だから、中年といってもようやく差し掛かったあたりの年代か。

この句も語り手自身のことではなく、他人の心身のことをいっているとひとまず取れそうだが、こうした主客の区別が文法・内容的にはっきりしていない龍太句の場合、自他の区別とは別次元の、ある状況や位格にある男の美しさを抽出しているものと取った方がよさそうである。他者を描いても自画像的な要素は必ず入るものだろうが、理想の我を描いているという方が適切であろう。

喫煙は今でこそ肩身の狭い行為となったが、昔は大人になれば煙草をのむのは当たり前のことであった。映画やドラマでも、小道具としての煙草が消えたら成り立たない場面というものが相当にあるはずである。

この句の場合は、苛立たしさを紛らわすための喫煙ではなく、喫煙室に場を定めていることからも、静かな、落ち着いた所作による喫煙の景と思われる。

端然たる所作による中年の美といえば思い出すのが、古井由吉のエッセイ『人生の色気』である。ここで色気として意識されるのはことさら性的な事柄ばかりではなく、例えば葬儀の際の焼香など、型にはまることが求められる局面での腰の浮つかなさとでもいったもので、たしかにそうしたものから醸し出される成熟感から来る色気は、年々目にする機会が少なくなっている。私などの世代は、大半の者が生涯身につけられずに終わりそうだ。
そのあたりのことを意識すると、オヤジ趣味の特にない読者にも、この「美」の一端が感じ取れることと思う。直接には全く描かれていないが、手つきの端正さが思い浮かぶ。中年の美とは、静止も含めた挙措動作の美ではないか。


肉鍋に男の指も器用な夏  飯田龍太『童眸』

こちらははっきり男の動作を描いた句である。

「肉鍋」とはいっても野菜類も当然入っているはずだが、肉を扱う男の指というのがまず生々しい。その生々しさが「器用」の一語で一段上の次元に抽象化される。

この句は語順が重要で、男の指も器用であるというのが句の結論にはなっていない。

「肉鍋」を作る「男の指」からまず動きの「器用」さが抽出され、結論はそれら全ての要素(「男の指」を見ている語り手自身をも含む)を容れた「夏」なのだ。

「男の指」への集中ではなく、それを核にした「夏」という時空への拡散と包摂。

肉鍋が済んだ後も、男の指は器用に動くだろう。その器用な動きが何に向けられるかは、この「夏」をともにしている語り手がやがて知ることになる。


男獲るための秋雲暮れてくる
  飯田龍太『童眸』

「秋雲」がいわば攻めキャラとなっている。

「男獲るため」と目的まで明示されていながら、この「秋雲」が擬人化されきった妖怪変化とどこか違うのは「暮れてくる」のためだろう。擬人化などという人間規模へのダウンサイジングを受けつけない、理解を絶した霊異としての自然が、天の運行ともども男をどこかにさらっていこうとする、それが「暮れてくる」なのである。

スタニスワフ・レムのSF長篇『ソラリスの陽のもとに』には、知性を持っていると思しい海が登場する。これが登場人物たちに幻覚を見せる(らしい)のだが、海が何を考えているのかはついにわからない。それまでのSFであれば異星生物とは敵対するにせよ友好関係を結ぶにせよ、相手が何を考えているかはわかるのが当たり前だったので、このディスコミュニケーションぶりは衝撃的だった。「秋雲」もそれに近い隔絶した存在のように思えるが、これが龍太のいう、自然に魅惑されることの恐ろしさと通じあっているのかどうかはわからない。


 *

関悦史 春の水

男(を)の子らきらきら回り春野へ倒れあひ

春をしづかに男子の髪に天使の輪

男子校月曜日春兆すなり 

春意ふとボクサーブリーフ引つ張りぬ

痴漢の手に俺がよごされゐて春光

語りゐて目の合ふ男春の月

目覚めゐる青年の身も春の水

 バイの少年曰く
女NTR(ねとり)捨て彼の泣顔愛でたき春

教はりつつ褌(ふどし)しめ汝(な)も薄く汗

もの盗りてシャワー光(びか)りをリオの美童

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