【俳誌を読む】
『俳句界』2015年12月号を読む
西原天気
特集が2本。まず「現代俳句の挑戦者たち」(p56-)に、金原まさ子、大牧広、井上泰至、堀本裕樹、青木亮人、髙柳克弘の6氏。年齢、流派の幅広さに加えて、評論の仕事に注目して2氏(井上泰至、青木亮人)を紹介した点が新鮮。
「近年の自選三句」より。
見てゐたり黴を殺してゐる泡を 髙柳克弘
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もうひとつの特集は「総合誌の未来、結社の未来」(p125-)。
俳句総合誌、結社、それぞれの「未来」について語られることは多く、これまで繰り返し各所で特集が組まれてきたが、俳句総合誌と結社がセットになっている点がユニーク。
結社が俳句総合誌へのコンテンツ供給先となり、結社を基準とした俳句世間の秩序を俳句総合誌が(広い意味で)広報する(ことで醸成し定着させる)という大雑把な図式が続いているわけで、その意味でも、この2つはセットにして論じられるべきもの、とも言えそうです。
大井恒行「総合誌・結社誌の不思議」で「総合誌と結社誌」の関係を(もっぱら総合誌の経済的な側面から捉えます。
(…)今後においても総合誌と結社誌は、自費出版物を含めて、共存共栄への道を探るほかないのではないか。だが、これらの事態は、少々深刻で、誌上においては率直な俳句批評衰弱させ、いきおい社交的言辞の評のみが尊重されてくるという不思議な事態を俳人たちに招き寄せることになる。(大井恒行・p137)
今泉康弘「仁義なき戦い 俳句結社篇」は、結社の「功罪」について、複数の発言者(仮名)の言を借りて(引用して)整理し、上記・記事と同じく「批評の不在」へと結論します。
(…)このような結社と凭れ合いの関係にあるのが俳句総合誌である。総合誌にとって結社は「お客様」であるから、結社及び主宰を優遇することになる。(…中略…)文太さんはこう言う……「今の総合誌と結社誌に批評が育つ可能性は無い。極端に言えば、結社は俳人の批評能力の欠如によって成り立っている集団だ」(p141)
一方、土屋義方「俳壇を質す」(p142-)「は、「総合誌と結社誌」のテーマ設定をさらに「俳壇」にまで広げるが、無理筋ではありません。当該記事においては「総合誌と結社誌」=「俳壇」という図式になっているわけです。
記事冒頭の小見出しが「難解な俳句が及ぼす害毒」と、かなり「攻め」の姿勢。続いて、総合誌への「注文」のような意見が並ぶ。「新作・何十句」は多すぎる、掲載された句への反応がない、論争を仕掛けよ、十代よりも五十代以上を狙え(ここはいわゆる逆張りっぽくもある)等々。言いたいことが多すぎて、論じるまでは行かず、羅列になった感は否めませんが、こうした不満や意見、提案は、俳句世間においてかなり分厚く存在するのでしょう。サンプルとして興味深い記事になっています。
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さて、土屋義方氏が「多すぎる」と指摘する(以下引用:どんなに優れた俳人でもそんなに沢山、俳句が生まれる筈が無い。多忙な日々の中で無理に数を揃えただけの句までも読まされるのは堪らない。)箇所に目を移しましょう。本号冒頭は、鷹羽狩行の特別作品50句「水鳥」です。
締めに《書かねばと日々おもふのみ年賀状》《通夜ひとつ済ませ来たりて年忘》《忘年や遅参の罰に隠し芸》の3句が並びます。どうでもいいような、あくびの出るような句、と思う人もいれば、こういう力の抜け方こそが俳句の醍醐味、と思う人もいるでしょう。
私自身は、こんなふうに平和な雰囲気で、俳句世間が老い、死んでいく感じは、けっしてきらいではありません。
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