2016-05-22

俳枕 22 箕面と後藤夜半 広渡敬雄

俳枕 22
箕面と後藤夜半

広渡敬雄

箕面市は大阪の北西部。東は茨木市、西は池田市、南は豊中市、北は豊能町に境を接する。箕面山を中心に箕面川、勝尾寺川流域一帯は明治の森国定公園の指定地域で、古くから修験道の霊場の瀧安寺や西国三十三箇所の勝尾寺で知られる。東京の高尾山と共に明治四年に国の公園地の指定を受けた。東海自然歩道の終着地で、有名な大滝には、古来より西行、定家、鴨長明、頼山陽らが訪れ、殊に紅葉の頃は多くの府民で賑わう。

滝の上に水現れて落ちにけり   後藤夜半
紅葉焚けば煙這ひゆく水の上   細見綾子
くるま駆る勝尾寺までの山紅葉  高浜年尾
瀧の面をわが魂の駆け上る    後藤比奈夫
瀧落ちて樹々も大地も眠らせず  西宮 舞

〈滝の上〉の句は昭和四(一九二九)年作で、第一句集『翠黛』に収録されている。高浜虚子選の「日本新名勝俳句」(昭和五年)の最優秀二十句(金賞)となり、「ホトトギス」の昭和六年九月号巻頭の夜半の代表句。大滝の前に句碑がある。

「滝口に現れ落ちる水を、高速度撮影で捉えたかのように活写し、滝の実相を描出。写生はこうありたい」(鷹羽狩行)。 「力強い滝が簡潔に描かれ、これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句は他にない」(清水哲男)。 「滝が滝である状態の一切がここには描かれ、それ以外にはなにもない。句そのものの姿が一筋の滝のごとく潔く自立している」(西村和子)などの鑑賞があるが、 「さして感動もしなければ、夜半の俳人としての真骨頂が窺える句でもなく、虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見える句」(高橋治)との評もある。

後藤夜半は明治二十八(一八九五)年、大阪市北区曽根崎新地に生まれ、本名潤。私塾泊園書院で漢籍を学び、北浜の証券業長門商店に約三十年勤務した。父眞平(俳号古拙)の影響で、明治四十年頃から俳句を始めた。次弟實は、喜多六平太の養子となって喜多流宗家を継ぎ、長弟得三も喜多流能楽師となった。大正十二(一九二三)年より、「ホトトギス」に投句し、虚子に師事。昭和四年、同誌課題句選者となる。「滝」の句で巻頭となった年に、「蘆火」を創刊(同九年病で廃刊)、同七年には「ホトトギス」同人に推挙された。

昭和十五(一九四〇)年、『翠黛』を上梓、戦後は俳句専業となる。同二十三年に「花鳥集」を創刊主宰し、同二十八年に「諷詠」と改めた。同三十七年、第二句集『青き獅子』、同四十三年に第三句集『彩色』を上梓する。同五十一年(一九七六)年八月二十九日、逝去。享年八十一歳。同五十三年、遺句集『底紅』が上梓された。俳話集『入門花鳥諷詠』がある。  

長男は「諷詠」の名誉主宰後藤比奈夫、嫡孫は現主宰後藤立夫。立夫の息女和田華凛も同人である俳句一家である。

「根っからの市井の人で、人の思惑に拘らぬ自在な町人の生き方を貫いた。高悟帰俗と言う言葉を借りれば、高悟のところは、他人の目に曝さないで、俗に帰したところを明るみに出して置く。そういう市井の人の根性を根底に宿している俳人。いわゆる夜半境涯の句も『物の姿』に己が姿を写し、『物の心』を借りて己が心を叙べるのが原点である」(後藤比奈夫)。「夜半の作品にほのめくものは、『色っぽさ』であって『エロチシズム』ではない。都会の人でなく、町の人である」(日野草城)。

「大阪商人としての懐深さと町人文化と称される恐るべき教養を身につけており、表面はごくつましく見せながら、奥の豊かさに恐しさを秘めた、関西の町人たちの実力の程を見せられる感がする。並々ならぬ捨象が夜半俳句の真髄である」(高橋治)。

「自然に対しても、人間に対しても夜半の対象への優しい視線を感じる。人間を、自然を好きだからだろう」(西村麒麟)等の評がある。

宝恵駕の髷がつくりと下り立ちぬ
傘さして都をどりの篝守
花冷や夜はことさらに花白く
風過ぐるまで初蝶の草にあり
国栖人の面をこがす夜振かな
金魚玉天神祭映りそむ
てのひらにのせてくださる柏餅
射干の花大阪は祭月
涼しやとおもひ涼しとおもひけり
端居して遠きところに心置く
今日の月すこしく欠けてありと思ふ
山上憶良を鹿の顔の見き
遠鹿にさらに遠くに鹿のをり
底紅の咲く隣にもまなむすめ
松手入して松風も村雨も
大阪はこのへん柳散るところ
狐火に河内の国のくらさかな
探梅のこころもとなき人数かな
春待つといふ大いなる言葉あり
煤笹の横たへありし神事かな
日短き少彦名(すくなひこな)の祭かな
心消し心灯して冬籠
着ぶくれしわが生涯に到り着く

「名利を求めず、終生人のなさけの機微をうたい、自然への参入に心を澄ました俳壇の聖者」と言われたが、蓋し至言であろう。生涯俳壇上の受賞が全くない俳人であった。

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