2016-05-22

【句集を読む】 高柳克弘 句集『寒林』を読む  カビキラーとステレオタイプ  山口優夢

【句集を読む】 高柳克弘 句集『寒林』を読む
カビキラーとステレオタイプ 

山口優夢


見る我に気づかぬ彼ら西瓜割  

夏の海辺の、はしゃぎ回る家族連れや、若者のグループ。そこから少し離れて彼は寝そべっている。「こっちこっち」とか「わ、あぶねえよ」とか言って浜辺の西瓜割りで典型的に盛り上がる彼らの様子を、「我」はじっと見続けている。しかし彼らは見つめている私には気が付かない。なぜか。簡単なことだ。彼らは彼らの中で世界が完結できるほど今を楽しんでいるからだ。

そんな彼らをみつめる「我」の視線を対象化することで、この句では何が生まれるのか。そもそも「我」はなぜ彼らを見つめているのか。そこに「我」の孤独感や疎外感を一足飛びに読み取ろうとするのはやや性急に過ぎるだろう。おそらくその視線には特に意味はないように思う。ただただぼーっと眺めている。でも彼らは気づかない。気づかない、ということに気づいたとき、初めてほんの少しだけ、かすかな感情の動きが生まれることは、あるかもしれない。

「見る」ということ、あるいは世界とは切り離された地点に立っていると感じながら、なおかつ世界に視線を向けること。そうしたことを志向する意志こそが、この句集を支えるベースの力になっているのではないか。

雪投げの母子に我は誰でもなし
見てゐたり黴を殺してゐる泡を

だから、上に挙げている句はどちらかというとそういったベースがむき出しになっているという点で、この句集が志向する句そのものとはちょっと異なっているかもしれない。雪投げの句は、西瓜割の句と同様に楽しそうな母子の様子を少し離れて見ている視線がある。そこであえて「我は誰でもなし」と母子との関係性の構築を否定することで距離を置く。

カビキラー(かどうかは知らないが)の句は、そうした自分と関係なく進行していく物事に対する視線を、人間以外のものに敷衍している。黴を殺している泡、というのは、しかしながら、たとえば「鹿を殺してゐる犬を」とか、「鮭を殺してゐる熊を」というのとは違って、本当に殺しているのかどうかは見ていても判別がつくものではない。正確に言えば、「(黴を殺しているはずの)泡を」見ているのだ。

そう考えると、西瓜割だって雪投げだって、彼が見ることができているのはその外観だけで、それがいかに楽しそうであったとしても本当に楽しんでいるのかどうかまでは見えるわけではない。しかしそれらをあえてステレオタイプ化し(つまり、泡が黴を殺しているかどうか確認のしようがなくてもそれを殺しているのだと受け止めるのと同様に、西瓜割や雪投げをしている人たちはそれを楽しんでいるのだと仮定し)それを見つめる自分との距離感を、一句のテーマに据えている。

あえてのステレオタイプ化は、句集の至るところに散見される。

ヘルメット脱ぎし星空霜にほふ
劇団に芽生えし恋や扇風機
顔寄せてミントにほへる浴衣かな

ドラマか小説の一節のような場面の取り方。「霜にほふ」「扇風機」「浴衣」といった季語の現場感を借りて力尽くで一句に仕立てた印象がある。そしてそれは、いとも軽々と、といったふうに見えるほど、確実に成功を収めている。つまり別の季語が入ったとたんに陳腐で切り捨てられるような内容にもかかわらず、具体的な場面設定を過不足なく行い、五感に訴える要素を持ち、かつ小さじ半分程度の裏切りを秘めているという意味で、いずれの句もほぼこれ以外ないような季語が選択されているのだ。

問題は、こうしたドラマの一節みたいな恋愛感情や季節の感じ方を彼はなぜ一句に昇華させる必要があるのか、ということだ。それに対する僕の回答は、この句集で志向されているのが世界の再構成だから、というものだ。

枯蓮や塔いくつ消え人類史
馬と眠る旅をしたしよ沙羅の花
神は死んだプールの底の白い線
冬青空宇宙飛行士みな短髪
空に風海に潮や渡り鳥

「塔いくつ建て」ではなく「塔いくつ消え」であるところに、ペシミスティックな彼の認識を見てとることができるが、それはともかく、「人類史」を記述しようとし、大時代的な「馬と眠る旅」を持ち出し、ニーチェの言葉に卑近なプールの情景を二重写しにし、宇宙飛行士がみな短髪であることと、空や海が風や潮の流れを常に孕んでいるという事実とをいずれも肉体感を持って描出する。自らの経験や写生を前提とした俳句とはかなり異なる地点に立脚した句がここでは志向されている。

世界の本質や今ここにない何かを希求するために彼は俳句形式を選んだのではないか。俳句の言葉は哲学ほど複雑ではないが、常に季語が具体的な情景を保証するため、彼の再構築する世界が肉体から遠く切り離され遊離してしまうことはない。

そうした句群と並び以下のような彼の生活が垣間見えると考えられる句がある。

ぼーつとしてゐる女がブーツ履く間
欠かすなきレモン未婚の卓上に
新娶秋草猛き家なれど

僕は彼のことを個人的に知っているためにこれらの句が彼のプライベートに結びついていることを知ってしまっているせいもあって、どうしてもこれらの句の作中主体を一人の青年と想定して読んでしまうというところもあるのだが、こうした彼自身がモチーフになっていると容易に読むことの出来る作品群さえ、上の「人類史」や「宇宙飛行士」といった句群と合わせて読むことで相対化されていくのを感じる。すなわち、女がブーツを履く間にぼーっとしているのは彼であってもなくてもいいのだ。そういうことが世の中を見つめる彼の目には映っている、それ以上の意味がこの句の上からははぎ取られてゆく。結果として、これらの句も「人類史」の一環として世界の再構築の一部に組み込まれていく。

こうして再構築されている世界の諸相の中で、人間の恋の営みやもろもろの生活のほとんどはステレオタイプに繰り返されていく。彼の句がステレオタイプなのではない。どうあってもステレオタイプでしかないことまで含めて再構成しようとするからこそ、ステレオタイプが混じり込むのだ。

絵の少女生者憎める冬館
よろこびは過ぎ花園に椅子一つ

彼が再構築したこの句集の世界は、やはり全体として暗いトーンに支配されているように思う。もちろんその中には新娶の喜びや「菜の花や早退の子がバス停に」の句に見られるような明るさもある。しかし「塔いくつ消え」に通じる儚さが上の二句にも通底し、この句集の基調をなしていると僕には見える。それには「寒林」というタイトルも一役買っているかもしれない。

原稿は焼けとカフカや青嵐

世界の再構築は、芸術家の一つの夢でもあろう。彼が「カフカ」という芸術家の人名を持ち出し、「青嵐」という季語を用いるとき、僕にはどうしても思い起こされる句がある。

青嵐ピカソを見つけたのは誰 神野紗希

彼がこの句を意識していたかどうかは知らないが(一つ屋根の下に暮らしていて意識していないということはないと思うけど)、芸術家のありようが主題になっている点でも、この二句は明らかに呼応している。

神野の句は、ピカソの価値を発見した誰かに思いをはせることで自らの価値を誰かに見いだしてほしいという希求も言外に含んでいると僕は読む。一方、カフカの句では、「原稿は焼け」と自らを誰かに発見されたり評価されたりといったことをむしろ拒むような文言が並ぶ。

しかしこれを額面通りに受け取るのは皮相の見解というものではないだろうか。カフカが本当にそう言ったのかは僕は知らないが、そういう言葉が残っているのだとすれば、それ自体が焼かれた原稿の不在を証明してしまうという点で、やはり自らの価値を見いだされたいという希求の裏返しであることは疑いようがない。

自分自身の経験をすら自分から切り離し距離を持った地点からながめることで自らの淋しさで満たされた世界を再構築する彼の屈折した志向性に、「原稿は焼け」という言葉は実は限りなく優しく添い遂げようとしているように、僕には感じられた。

作者は高柳克弘。

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