自由律俳句を読む 151
「中塚一碧楼」を読む〔3〕
畠 働猫
だいぶ間隔が空いてしまったが、前回に続き中塚一碧楼の句を鑑賞する。
今回は第三句集以降より句をとる。
▽句集『朝』(大正13年)より【大正9年~13年】
無産階級の山茶花べたべた咲くに任す 中塚一碧楼
『第二句集』でも見られた、貧しい者への視線である。
その視線は同情や、ましてや軽蔑ではない。
ただそこに在るものを、在るものとして見つめる眼差しである。
マザーテレサは、「愛の反対は無関心」と言った。
ならばこの眼差しこそ愛ではないのかと思う。
爐話の嘘をゆるす赤い馬車も出て来い 同
ほら話に花が咲いている様子であろうか。赤い馬車は、夢見ても叶わない高貴さの象徴か、それともおとぎ話か。
貧しく悲しく明るい句である。
夜が明けた帆ばしらのもとにねてゐるこども 同
船旅の途上、のどかな景ととろうか。
それとも、叱られて締め出された漁師の子供の姿ととろうか。
いずれにせよ、そこに注がれる詠者の優しい視線が感じられるようだ。
▽句集『多摩川』(昭和3年)より【大正13年~昭和2年】
となり住むひとびとや夕べの星ひかり 同
「ここ玉島の寓居は天満町といへるくるわまちの中ほどにして」と前書きがある。
大正12年の関東大震災に罹災した一碧楼は、故郷である岡山県玉島に帰り、以後3年を過ごす。この句はその時期の句である。
これもまた先の「無産階級」の句同様、廓に住む人々への愛情が表現された句であろう。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(マルコによる福音書12:31)
一碧楼が若くして傾倒したキリスト教の教えである。また最後までイエスに付き従ったマグダラのマリアは娼婦であったとも言われる。
理不尽な災害、そしてそれに伴う帰郷。そうした巡り合わせが、信仰の炎を再び燃え上がらせたものであったろうか。人間一碧楼の姿が垣間見られる句である。
よもすがら水鷄の鳴けば夜のあけし 同
寒き日の蓑をつけしがなつかしく 同
うごいてゐる空いつたいの冬の雲 同
ここにいても荒海のひびき葱畠 同
山のべの鳥はをりをりにさけび冬の雲 同
句集『多摩川』には、ここに挙げたように定型、あるいは定型からの逸脱を含む句が多く収録されている。
(先に挙げた「となり住む~」の句も、5・9・5のほぼ定型の句である。)
これは、『はかぐら』に葬り去ったはずの旧来の俳句への回帰であろうか。
否、そうではあるまい。
これもまた自由の希求、試行錯誤の一段階であったのだろう。
事実、この後の句集ではほとんど定型句は見えなくなってゆく。
▽句集『芝生』(昭和8年)より【昭和3年~7年】
草青々牛は去り 同
女人女体八つ手花咲く 同
山一つ山二つ三つ夏空 同
とつとう鳥とつとうなく青くて低いやま青くて高いやま 同
句集『芝生』では、こうした繰り返しによるリズムを生かした句が多く見られる。
なかでも「女人女体八つ手花咲く」は一碧楼らしい(一般的なイメージに沿った)句と言えるのではないか。
また「山一つ山二つ三つ夏空」は岡山県円通寺の句碑に刻まれている。
冬の日河原の水が見えて幾らからくな風景 同
先に挙げた4句同様、この句も旅の途上で詠まれたものかと思う。
一碧楼は精力的に各地へ趣き俳三昧(句会)を催している。
「らくな風景」が面白い。景色によって疲弊した身体が楽になるものではない。
しかし私たちはだれもがこうした経験を知っているものだ。
いわゆる「あるあるネタ」ではなく、句が共感を掘り起こしている例である。
▽句集『杜』(昭和10年)より【昭和7年~10年】
炎天巌かげに跼(せくぐ)むいづこよりか逃れ来しごとし 同
「房州白浜にて」と前書きがある。
これもまた旅の途上であろう。
炎天を避けたのであるから、「いづこよりか」は、直接的には「炎天下から」である。しかしそれでは句にする意味がない。
この「いづこ」とは、ここではないどこかであり、そこを追われた罪ある者として自分を見ているのである。
後に挙げる句から連想されるのは、罪ある者ジャンバルジャンへの自らの仮託。あるいはこの罪は人類が負う原罪であり、「いづこ」とはエデンそのものであったものか。炎天はソドムとゴモラを焼いた神の火。その前に「人」は跼(せくぐ)むことしかできないのである。
葡萄を食ふ明るき窓を持つそれほどのしあはせに男 同
村上春樹が小さく確実な幸せを「小確幸」と呼び、ほんの少し流行ったことがあったが(流行ってないかもしれない。知らない)、これはまさにそうした、足ることを知る幸福であるように思う。
橋をよろこんで渡つてしまふ秋の日 同
気持ちのよい秋晴れの旅なのであろう。微笑ましく思う。
前の句もそうであるが、作者は明るく機嫌のいい好漢であったのだろうと思わせる。
桃の葉の茂り人はこちらにみな坐りて話す 同
陽射しを避け、葉影に自然と人が集まっている様子であろう。
「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」ということか。
けふあす何事もないやうに白く咲いた茶の花 同
昭和6年の満州事変から日中戦争に至る時期に詠まれた句である。
不穏な世相の中、白く咲く可憐な花は日本という国、あるいはほかの愛するものの象徴であったものか。
垣越えて来しよ枯草をしばらく歩いたでもあらう 同
「どろ坊来る」と前書きがある。
盗難にあったのであろうか。
しかしこの句からは怒りや憎しみは感じられない。
むしろ、やむにやまれず罪を犯した者への憐憫が感じられる。
その逃げ去った足を思いやる惻隠は、レ・ミゼラブルにおけるミリエル司教の心に通ずるものである。
* * *
それぞれに好みはあるかと思うが、私は今回取り上げた『朝』以降の句に、第二句集における輝きをあまり感じることができなかった。
『第二句集』は、『はかぐら』に葬った旧来の俳句への絶縁宣言であった。
だからこそ、そこには再生の息吹ともいうべき輝きが溢れていたように思う。
句集『多摩川』辺りでは定型句への回帰も見られる。
無論、私が考える「自由律」とは定型をも含むものであるため、それを否定するわけではない。自由を模索し、新しい表現を追究している一碧楼がそこに回帰したことに面白みを感じるのだ。鑑賞の部分でも述べたが、これは試行錯誤の一段階であったのだろう。
「自由」とはあらゆる可能性を排除しないことである。
したがって「自由律」は定型を否定するものではない。
自らの心情を最もよく表現できる詩形を試行錯誤するうちにそれが575や57577の定型になることはしばしばあるものである。
これは自由律俳句を詠む者であれば誰もが経験することであると思う。
拙句に「父という自死の先達ある強み」があるが、これは575の定型である。いくつかの場所に投句した句であるが、かつて定型を避けて「父という自死の先達がある強み」としたこともあった。
今思えば実にくだらない、無駄なことをしたものである。
自らの内奥から湧き出る感情をよりよいリズムに乗せることこそが第一義であり、それが定型であるかないかにそれほど意味などない。
しかし定型とは非常に強いリズムであり、強い求心力を持つ詩形である。
よりよい形を追究し、そこに至ってしまった場合、そこから抜け出すことは非常に難しい。その求心力ゆえに、そこに容易に引き込まれてしまう。
だからこそ、自由律俳句を詠む者は、検討を、推敲をやめてはいけない。
それが本当に最高のリズムなのか。
それが最も美しい詩形なのか。
その形が最も自分を表現するのか。
でき上がった美しさへの懐疑を持ち続けること、崩壊を怖れないこと。
それが修羅たる表現者に求められる覚悟であろう。
一碧楼は間違いなくその道を行った先達である。
次回は、「中塚一碧楼」を読む〔4〕。
※句の表記については『鑑賞現代俳句全集 第三巻 自由律俳句の世界(立風書房,1980)』によった。
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