BLな俳句 第13回
関 悦史
関 悦史
『ふらんす堂通信』第148号より転載
精ありて吾を呼ぶ岩夜の秋 佐藤鬼房『瀬頭』
佐藤鬼房といえば出自こそ新興俳句系とはいえ、ある時期にみずから、自分の中にはもはや新興俳句は残っていないと宣言したごとく、暮らしに根差した厳しいリアリズムの作家という印象が強いのだが、こうしたファンタジー的な句もときどきあらわれる。
この岩の精がどのような意図で語り手を呼び寄せたのかは不明だが、季語が「夜の秋」という夏の終わりをあらわす比較的しずかで穏やかなものであることを思えば、邪悪な意図が含まれているとも思えない。「夜の秋」はそうした一句の情調を決め、さらに出会いの状況を大雑把に読者に見せると同時に、ひとけのない「夜」が密会めいた二人きりの対面を思わせ、さらにはまだ暑さと湿度の残る「夜の秋」であるがゆえに岩も生きものじみた生気を帯びやすく、語り手の側も軽装で気軽にそれに応じやすいと、いろいろなことをわからせる役割を果たしている。炎暑の岩や厳冬の岩にもそれなりの存在感や霊気はあろうが、それはこの句に見られるような親密なものにはならないはずである。もう一つ「夜の秋」で重要なのは、これが夏と秋のいずれとも決めがたいような(季語の分類としてはもちろん「夏」なのだが)変わり目にかかわる季語であるということである。天気雨のことを「狐雨」や「狐の嫁入り」と呼んだりもするが、こうした境目の混乱は霊異を呼び込みやすいのである。
しちくどく説明すればそのような舞台の設えによって、この岩の精は顕現するにいたっているのだが、ここまでの説明でもあきらかなように、これはもう初めから二人きりの世界であって、余人が介入する余地はない。岩とはいえ、その精霊となれば身軽そうでもあり、「呼」ばれたことで初手から受け身にまわってしまった「吾」は、相手が何をいおうが意のままに翻弄されるしかなさそうである。
あえてリアリズム寄りの見方に引き戻せば、一句は夜の秋の岩の存在感に魅入られたということの寓意的表現にしか過ぎないのかもしれず、実際「夜の秋」の付き方の過不足のなさが、かえって霊感的なものでというよりも、理知で作っている手触りを起こさせたりもするのだが。
薩埵(サッタ)王子を泣くほど思ふ星月夜 佐藤鬼房『瀬頭』
「薩埵王子」はシャカの前世を描いた『ジャータカ』の、捨身飼虎のエピソードに出てくる人物で、飢えた虎の親子を救うべく、餌として自分の身を投げ与えたことで知られている。究極の利他行であり、「星月夜」に「泣くほど思」われるのに、これほどふさわしい人物もない。
この捨身飼虎の話は日本では法隆寺の国宝、玉虫厨子にも図として描かれているのだが、その図版を見ると、王子はまず崖の上で衣服を脱ぎ、そしてまっさかさまに身を投じ、虎の親子に自分の体をむさぼり食われている。その一連の動きを表すため、王子のしなやかな身は画面の三ヶ所に同時にそれぞれの姿態で描き込まれ、これが劇的な効果をもたらしている。
高貴の身である「王子」は商業BLでも定番のひとつだが、このエピソードの「王子」にはそれに伴ってついてくる財産や安楽な暮らしといった要素は無縁であって、属性として持っているのは高位、若い身体、そして魂の美しさと、決断の透徹した激しさだけである。BLに感情移入は欠かせないが、この句の語り手は、できるものならば、それこそ自分が成り代わってでも薩埵王子を助けたいという激情に駆られているようだ。実際にはもちろん不可能である。その絶対的な隔たりと、それゆえにかえって募る身を噛むような慕情を「星月夜」が埋める。ここにあるのは激しい精神の感応だけであって、捨身飼虎の話が虚構であるか実話であるかはもはやどうでもよい。
振袖の劫火を纏ひたき夜なり 佐藤鬼房『枯峠』
振袖を纏いたいというのではなく、纏いたいのは「振袖の劫火」である。生身のスケールに収まる話ではない。
作者が七十代後半に達してからの句であることを思えば、晩年の大野一雄の女装しての舞踏のような、もはや年齢も性別も超えて人間離れした位格に至った存在の、この世のものとも思えぬ華やぎを持った芸の世界といった趣きもある。
振袖火事こと明暦の大火の発生原因については諸説あるようだが、「振袖火事」と呼ばれるようになったのは、墓参帰りに美少年に一目惚れした娘が、少年の着ていた着物と同じ柄の振袖を作らせ、それをかき抱きつつ恋焦がれて病死。その後その振袖の持ち主となった娘たちも続けて病死したので本郷の本妙寺で焚き上げようとしたところ、その火が広がって大火となったという伝承かららしい。
つまりこの「劫火」は満たされない、そしてそれゆえに命を落とすほどの恋情を共示していて、「纏ひたき夜なり」と収められれば、恋に恋するといったレベルの話に見えもするのだが、それにしては大都市の江戸に壊滅的打撃を与えるほどの大火というのは勢いが激しい。ここは、伝承の娘と同じように恋焦がれる相手は確かにいる、しかしそれがどこの誰かはわからないと取りたい。どのみち人のスケールを超えた話であるから、娘の生まれ変わりである語り手が激しい恋情を体感としてのみ引き継ぎ、相手はどこの誰かがわからないどころではなく、現世ではまだ一度も会ったことすらないといった想像も可能である。
そして伝承にならうならば、この恋焦がれる相手は美少年なのだ。こういう句を男の、それも高齢の作者がものしたというところに味わい深いものがある。
松の蜜舐め光体の少年なり 佐藤鬼房『枯峠』
「松の蜜」がよくわからないのでグーグル検索してみたら、松につくアリマキが分泌する甘い液がトルコなどで松の蜜として売られているという説もあったのだが、ほかに松脂の出る傷口のそばにハチミツのような甘い液も出ていて、子供の頃に舐めたという体験談をブログに上げている人がいた。
この句の場合は後者と見ていいのだろう。輸入品の蜜を瓶から舐めていたのではさまにならない。「光体の少年」になるからには野外で松の木そのものに触れているべきであろうし、「光体」として重力を離れるからには、その身は軽々と木に登るくらいのことはできていてほしい。
いずれにせよ自然との交歓で精霊的な存在に昇華した少年の図ということになるが、一句の肝は「舐め」るという動作にある。精霊的なものへの昇華が、ほとんど性的な前戯そのもののような直接の接触によって果たされているところが面白い。逆から見れば聖性が介入するゆえのエロスということになる。「光体」という捉え方も独創的で、説明ではなく、主観性は強烈なものの、隠喩を用いた写生的表現であるといいはれるぎりぎりのところにある。
ところでこの句にもし作者が感情移入するとしたら、その比重はどちらにかかるのだろうか。かつて自身もそうしたであろうところから、松の蜜を舐める少年の側にも郷愁を通じてつながっているのかもしれないが、「光体」と化した少年に通常の人格がどれだけ残っているかはいささか怪しい。案外、少年に舐められる無骨そのものの質感の松の方が感情移入しやすいのかもしれない。いや、どちらにというよりも両者の境界が揺り動かされるのがこうした直接的接触の妙味なのであろうし、語り手自身はといえば、松と少年の接触を見る三人称的な視点の位置にとどまっているのである。感興を催しながらも自身は目に徹している辺りは、いってみれば腐女子的であり、その意味からこそこの句はBL的なのだともいえるだろう。
君となら裸になれる鍾乳窟 佐藤鬼房『枯峠』
これはいかなる状況であろうか。
一読、洞窟内に青年同士が閉じ込められる(しかも一方は同性愛者で、もう一方に思いを寄せている)江戸川乱歩の名品『孤島の鬼』を連想してしまい、この「君」も男性にしか見えなくなってしまったので、一度そういう連想をまっさらにし、「君」を女性として読む余地がどの程度あるだろうかと考えてみたのだが、デートで「鍾乳窟」に入ることはあり得ないとはいえないものの、相手がつきあっている異性であれば「裸になれる」のは当たり前であっていかにも場所の設定が奇妙であり、また「君となら」という特定、固着ぶりにも単なる性愛だけではない、身を投げ出すような全幅の信頼関係という要素が含まれている。一対一で相手への信頼を告げるというのはプロポーズの一種と思えないこともないから、女性とする余地がないわけではないが、それならば昼の光のなかで、普通の屋内で告白すればよい。人目のない地底の闇のなかという、社会性を排除し、一対一の関係を強調する密室的な状況はやはり少々異様である。
問題は「裸になれる」のなまなましさなのだ。これがただの喩えであれば、自分を取り繕うことなくともにいられる異性を見つけたというだけの意味にも取れるのだが、ただの喩えとしては「君となら裸になれる」というフレーズと「鍾乳窟」なる即物性の組み合わせは肉感性が強過ぎるのである。
それにしても「君となら裸になれる」というフレーズは一見ナイーブなようでいて、結構押しが強そうでもある。相手も押し切られ、受け止めざるを得なくなってしまうのではないか。
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関悦史 桜餅
花吹雪過ぎて見知らぬ男の前
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PC=ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)
犯されぬく王子の肢体月白は
「貌形(かほかたち)は清(きよ)気(げ)にて、美男(びなん)なりけれ共、堅固(けんご)の田舎人(ゐなかびと)にて、浅(あさ)猿(まし)く頑(かたくな)にをかしかりけり」『源平盛衰記』木曾義仲の描写
義仲は総受けと思へ芭蕉の忌
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