2017-03-19

【「俳苑叢刊」を読む】 第8回 池内友次郎『結婚まで』 友次郎成長す 外山一機

「俳苑叢刊」を読む
8回 池内友次郎結婚まで
友次郎成長す

外山一機


『結婚まで』は大正一五年から昭和一三年までの句を収めた、池内友次郎の第一句集である。友次郎は明治三九年に虚子の次男として生れた(池内を名のっているのは虚子の生家である池内姓を継いだため)。本文は制作年順に編まれ、それぞれの句に詠んだ月と場所を付しているため、全体として日記のような趣である。その冒頭、大正一五年の項は次のように始まる。
 大正一五年
  四月一日鎌倉の大仏の裏山へ行つて始めて俳句を作る。「麦畑にわが来し道の白きかな」といふのである。その後ときどき作る。

  二十歳記念、満月なり
月君臨すわが誕生の大空に
一〇月二一日 東京 青山墓地
ここにも記されているように、友次郎が俳句を作るようになったのは大正一五年のこと。晩年に友次郎が自らと虚子について回想した『父・高浜虚子 わが半生記』(永田書房、平成元)によれば、開成中学時代から音楽に関心を持ち始め、慶応大学に入学するもその関心はいよいよ高くなり、大正一五年、ついに友次郎はフランスへの遊学の志を虚子に打ち明けたのであった。
 二日後に返事があった。それは、よいだろう。学校をすぐ止め、音楽に専心しろ、というものであった。すばらしいほどの迅速な決断に感銘した。それで私の運命の岐路が敷かれたのであった。(略)
 このような経緯があってから私は公然と毎日を音楽とだけで過した。犬を連れて由比ヶ浜を散歩するほか、そして、一日おきぐらいにフランス人の牧師さんにフランス語を習うために外出するほか、いつもピアノに向かっていた。ただ、俳句には関心を抱きはじめた。それは、父が、音楽を専門にするのなら俳句を作ってみたらどうか、と言ってくれたのがきっかけであった。俳句には特に才能があったらしく、作って見せるたびに父はいつも褒めてくれた。
全体として自己肯定的な記述の多い回想録にあって、この最後の一文もやはり、いかにも友次郎らしいものだ。初めて作ったという「麦畑にわが来し道の白きかな」にも虚子の温かな讃辞があったのだろうか。

ところで虚子は、友次郎の渡欧について『ホトトギス』の消息欄(昭和二・三)で次のように記している。
 私は十九歳にして郷里を出で友次郎は二十二歳にして志を抱いて渡仏の途に上る。之を埠頭に見送りたる私は多少の感慨無きに非ず。十九歳より今日まで地球は已に幾十回転かせり、而かも私を中心として之を見る時は世の中は漸く一回転せるが如き観あり。私を中心としての舞台は消え去るといふには非ざれど、長男年尾及友次郎の舞台は漸く明に現れ来らんとす。
ここには友次郎の姿をかつての自分のそれと重ね合わせて語る虚子がいる。息子が自らの道を進もうとし始めたことに対し不安と安堵とがないまぜになった父としての虚子である。「すばらしいほどの迅速な決断」を下すまでの二日間、虚子の胸の内に去来したものは、あるいは、このようなかつての自分の姿であったかもしれない。

さて、「月君臨すわが誕生の大空に」については『父・高浜虚子』(前掲書)に「やがてこれからパリへ行って音楽を勉強する、といった昂った心情で浮かれていて、完全な大円の姿で上りつつある月を仰いで、幸福感に浸っていたのであった」とも記されている。句は雑な感じもするけれど、それが若者ふうの不遜さを引き出していて、かえって小気味良い。友次郎は以後昭和五年四月に一時帰国するまでの約三年間、海外で断続的に句作を行っている。
昭和二年
船の波月のせてゆくいつまでも
二月一六日 新嘉坡へ渡航中
眼を閉ぢて月の砂漠に暫し立つ
三月七日 スエズより自動車でカイロへ行く
日焼けして神のをとめの腕あらは
八月 巴里 マドレーヌ寺院
昭和三年
すねてゆくをとめや東風の湖ほとり
五月一日 ヴェジネ イビス池園
草いきれさめゆく園の夕かな
八月 ヂュネーヴ レーマン湖畔
まのあたり闇へ落ちゆく木の葉かな
一一月 ヴェジネ イビス池園
昭和四年
蝙蝠の灯しを蹶つて谷へ落つ
九月 ピレネ コトレ
月君臨すわが誕生の大空に」の延長線上にあるような空想的な句が目立つ。ドラマチックに句を脚色しようとする狙いが透けていて、若書きとしての面白さはあるが上出来とは思えない。ところが、興味深いのは、友次郎のこうした句風は必ずしも否定されるものではなく、当時の『ホトトギス』では、結社内部の文脈とあいまって、その評価に揺らぎがあったということである。たとえば、友次郎が一時帰国中につくり雑詠欄に掲載された「よりそへばほころびそめぬ月見草」「ほころびて蕊うすみどり月見草」「月見草かよはき影を落しけり」をめぐって、次のような議論が交わされたことがあった。
水竹居 友次郎さんの月見草の句が三句並んで出ていますが、本当の写生句のような気持で拝見しました。殊にこのよりそえばの句はその中でも最も良いように思います。月見草は開く時にポツリポツリと開きそめる而もそれが朝顔が朝早く朝露に開くように月見草は夕方になって、咲きそめる。而もあの大きな花弁がよりをもどしてほころびそめるところに面白い風情がある。この句は月見草のこの光景を写生されたものと思う。(略)
秋桜子 この「よりそへば」は今赤星さんが御説明になった写実的の意味でなくって、心持の方が余計に含まれているんじゃないかと思う。三年目に日本の土を踏まれた作者のセンチメンタルな心持なのです。だから僕はこの句を見ると赤星さんと反対に作者が若くなられたように思う。而してそれは大に賛成でもある。(「雑詠句評会」昭和五・九)
どちらの読みが誤っているとも言いがたいが、この後の虚子の発言を読むと、虚子は水竹居に賛同していたようである。
虚子 (略)友次郎が句作する様子を見ると、写生ということは殆どやらないで、瞑想して、句作する傾向であることがわかった。私は友次郎に写生をすゝめた。友次郎は所謂写生の句には詩が無いと思うと言った。私は兎も角も写生をして見よとすゝめた。一夕不在であったので、どうしたのかと思って居たら、滑川のあたりをさまよって来たのであった。写生句が出来たと言って私に示した。それが此の三句であった。
虚子がここで語っているのは、写生を軽んずる友次郎を自分が諌めたということと、先の三句を友次郎が「写生句」としてつくったというエピソードにすぎない。しかしこれは読みようによっては秋桜子を牽制しているようにも見える。というのも、虚子がこの二年前、「秋桜子と素十」(『ホトトギス』昭和三・一一)において「秋桜子君には或る理想があつて其の理想に満足するものでなければ材料としない」と述べる一方、「素十君の心は唯無我で自然に対する」とし、「厳密なる意味に於ける写生と云ふ言葉はこの素十君の句の如きに当て嵌まるべきと思ふ」「即ち真実性が強い」と素十の「写生」を高く評価していたのである。その後、秋桜子は「自然の真と文芸上の真」を発表し『ホトトギス』を脱退するが、「写生」を身につけるなかで友次郎はホトトギスの有力作家として歩みを進めていくことになる。

先の月見草の三句を詠んだ年(昭和五年)の七月、友次郎は虚子に連れられて京都の貴船で吟行を行っている。友次郎にとってはこれが初めての句会でもあった。その折のことを友次郎は次のように書いている。
パリでもときおり句を作り、ホトトギスの雑詠での作者としてかなりな成績を挙げていたのだが、幽邃な貴船の山や川を眺めていても句はなかなか出来なかった。父が寄ってきて、出来るか、と心配そうに問いかけてくるので、いくつか見せたら、いつまでもとまらぬ蝶や貴船川、というのを褒めてくれ、その上、俳句はそれでいいんだよ、と言ってもくれた。(『父・高浜虚子』前掲書)
実際、年を経るにつれ、友次郎の句に見られた過剰気味の演出は抑えられるようになっていく。
昭和六年
桃色の舌を出しけり大根馬
六月二五日 巴里 ロージエ街寓居
昭和八年
枯蔓に巻きつき垂るる氷柱かな
一月二七日 鎌倉 鎌倉俳句会 たかし庵
しづもりて又匂ひ来る沈丁花
三月 鎌倉 原の台自宅
昭和一〇年
水ととと枯木の影を流れをり
二月一七日 巴里 セーヌ川
人なくて舗道の落葉追ふひと葉
一二月一一日 倫敦 テームズ河岸
昭和一一年
春の雲牧牛跳ねてとぶもあり
四月一八日 巴里よりブリュッセルへ行く汽車中
いそぎ来て拝みてあはれ除夜の人
一二月三一日 東京浅草観音寺
昭和一二年
春潮を引きよせ山は峙てり
四月二三日 葉山 鎌倉俳句会 赤星水竹居別邸
ところで、少しだけ視野を広げてみると、友次郎が気鋭の作家として注目され始めた昭和一〇年前後は、新興俳句運動が隆盛を見た時期でもあった。句集には収録されていないが「東京駅大時計に似た月が出た」(昭和八年)などは、素材のモダンさといい措辞といい、新興俳句系の諸雑誌にあってもよさそうな句である。もちろん、これは友次郎が新興俳句運動に影響を受けたというわけではなく、それだけ『ホトトギス』が多様性を許容していたということであろう。実際虚子は、先の「秋桜子と素十」でおいて「理想画、空想画といふやうな趣」よりも「現実の世界に存在してゐる景色であるといふ事を強く認めしめる力」を有する句を高く評価していたにもかかわらず、その一方で、「理想画」と「写生句」のあわいにあるような友次郎の句風に理解を示してもいたのである。
口あけて向き合ふ烏雲の峯 虚子 屋根の上ということは言ってないが、「口あけて向き合ふ烏」ということが、恰も屋の棟にある鴟尾か何かのように、位置がはっきり叙されてある為に、是非共屋根の上で無ければならぬように受取れる。理想画のようであって実際にもありそうな景色である。写生句であってまた理想画のようでもある。兎に角、はっきり作者の斯く感じ斯く見たところのものが、極めて明瞭に出ておる。(「雑詠句評会」昭和九・一)
 友次郎の佳作は「月君臨すわが誕生の大空に」に始まるリリシズムが独自の空間把握へと昇華された句にあると思うが、それはこうした虚子の鷹揚な姿勢のもとにあってのびやかに育まれたものであったろう。
昭和八年
星つつと枯枝つたへり木戸を入る
一二月 鎌倉 原之台自宅
昭和九年
東京が好き句が好きで花淋し
四月八日 ワ(゛)ンクーバー 別天女に会ふ
昭和一一年
春の絵の枠とも野行く汽車の窓
四月一八日 巴里よりブリュッセルへ行く汽車中
秋水の早く流れて岩が好き
一〇月一八日 名古屋 牡丹会俳句大会 木曽川下り
昭和一二年
初鏡眉目よく生れここちよし
一月一四日 東京 七寶会 近藤いぬゐ邸
萩咲いて雨は蛇の目の紺へ降る
一〇月一日 東京 家庭会 日比谷公園
酒場の灯赤青おでん屋では灯は黄
一二月一〇日 東京 草樹会 丸ビル集会室
昭和一三年
水澄んで鯉の行列美事派手
九月八日 東京 七寶会田村久吉邸
白壁爽か大時計の秒針が赤
九月一三日 東京 銀座探勝会 松屋裏観音堂
友次郎がホトトギスの有力作家として育っていった時代は、ちょうど星野立子が『玉藻』を主宰・創刊した時期と重なる。三つ違いの二人がそれぞれ書き手として自立していくさまは虚子にとってまことに喜ばしいことであったにちがいない。


※付記
引用文について、旧字体は新字体に改めた。また、踊り字(くの字点)は元の文字に直した。「雑詠句評会」の引用文は『ホトトギス雑詠句評会抄』(稲畑汀子監修、小学館、平成四)によった。

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