成分表75 花びら餅
上田信治
正月に食べるはなびら餅という和菓子は、とても美味しい。
餅とか白みそ餡の直接的なおいしさに加え、意外すぎる牛蒡の存在が、すこしの別次元を構成している。
その価値は、他文化の菓子との比較において、どれくらいだろう。
自分の舌をまったく棚上げにするのは難しいので、補助線を引く(ここから先は、思考実験というか、いつも以上に与太話になる)。
たとえば、どら焼きやきんつばの、西洋菓子における同格の存在は何かと考えると、カヌレとかデニッシュがそれにあたるだろう。はなびら餅は、どら焼きやきんつばよりもやや格上で、そのポテンシャルは、もっとも高度なカヌレよりも(牛蒡のぶんだけ)高いように思われる。
そのような比較を手掛かりに、世界の菓子のなかでの和菓子を考えると、その繊細さには、ある程度以上の高い価値を、認めうるのではないか。
しかし、和菓子はものすごく素材の幅がせまく、また、ひじょうに限定された工夫でなりたっているので「世界の人がみんな食べたらいいよ」とまでは言えないかもしれない。
(鮨は、世界料理において、魚を生食する文化の代表的料理として受容され、その普遍性を証明した)。
では、俳句は、世界文学においてどれくらいか(与太話ですよ)。
まず手近から同格の存在を探すと、芭蕉は、宗達や北斎と、どう見ても同格だろう。
視覚芸術の価値は、地域性を越えやすい。宗達も北斎も、その価値の普遍性を証明済みと言ってよく、自分には、宗達は作品数は少ないけれどマチスの最良の部分と釣り合い、北斎は質量共にゴッホ以上かもしれないと、思われる。
マチス、ゴッホ、といえば、音楽でいえば、バッハとまではいかなくても、あの人やこの人と同格、文学でいえば、シェークスピアとまではいかなくても……。
つまり、すくなくとも芭蕉において、俳句は、歴然と最高級の芸術であって、サブカルではない。
もちろん、鮨がそのファーストフードとしての形質をしっかり残しているように、俳句も、その下位芸術性、たとえば通りすがりの冗談のような口吻を手放さないのだが、一見何かの冗談か児童画のようなこういった句には、マチスや熊谷守一と共通の価値を見いだしうると思うが、どうか。
揚羽蝶おいらん草にぶら下る 高野素十
桜餅ひとつの次のふたつかな 摂津幸彦
2017-09-24
成分表75 花びら餅 上田信治
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