2018-05-06

肉化するダコツ⑧ 水底に仰向きしづむおちつばき 彌榮浩樹

肉化するダコツ⑧
水底に仰向きしづむおちつばき

彌榮浩樹



蛇笏の句からしゃぶり取る、俳句の秘密。
それをめぐる極私的考察、その8回目。

今まで<肉化>した句に比べて、描出している内容、描出の仕方ともに、地味で静かな写生的な句であるが、今回の〈肉化〉の眼目は、対象を静かに把握・描出しているその仕方の機微ではなく、下五の「おちつばき」というひらがな書きについて、だ。

いつものように、原句をいくつかいじって(漢字とひらがなのみの改変)みよう。

水底に仰向き沈む落椿       ・・・a
水底に仰向きしづむ落椿      ・・・b
水底に仰向きしづむおちつばき   ・・・c(掲句)
みなぞこにあふむきしづむおちつばき・・・d

どうだろうか。落椿のありようの描出としては、abでよい。むしろabの方が、原句cよりも、椿の花や蘂の色形がくっきり見えてくる気がする。

aとbとをさらに細かく比較対照してみると、aは「沈む」という意味の次元での理解が強く表出されるが、そのぶん、bに比べるとやや表現が性急だ、という印象を受ける。bは、「しづむ」のひらがな表記が、「沈む」という意味の形象化を超えて、落椿が沈んでいる水のありようまで映像イメージとして描出しているようにも感じられる。「水底」「仰向き」「落椿」という漢字表記は、句の内容の映像的な輪郭・表面イメージ造型に寄与しているが、そのぶん(この句においては)a「沈む」の漢字表記はやや情報が濃く出すぎていて、b「しづむ」の方が沈んでいる「落椿」が見えてくる、ようだ。あるいは、aは「沈む」動きを、bは沈んでいる静的な状態を、描出している、とも言えるだろうか(このへんは、まったくの個人的感覚なので「えっ、逆じゃないの?」と思う方もいらっしゃるかもしれないが)。

結局、この句の理想形、いちばんバランスの整った美しいかたちは、bだと僕は思う。

ところが、蛇笏は掲句cのようにあえてひらがなで表記した。それは、いわば、理想形からの逸脱である。

このc「おちつばき」は、ab「落椿」そのものの材質・佇まいの描出ではなく、奥に落椿の存在する水のゆらぎ・濡れ・きらめきをひらがなの浮遊感を用いて精妙に描出した句なのだ、というような穿った評もできなくもない。
しかし、今回、この句に関していちばん大切なことは、そのような「おちつばき」のひらがな表記の効果による浮遊するイメージの立ち現われ、などとは全く別の次元の、ひらがな表記それ自体のインパクト、についてなのだ。
しかも、それが、不格好さ・気色悪さという負の感触を帯びたインパクトなのである。この句の「おちつばき」は理想形から外れた不気味な匂いを放っている。それが、この句を、ありがちな佳句ではなく、(僕にとっての)忘れられない個性的な一句にしているのだ。

ひらがな表記といえば、蛇笏の句では、何といっても、

をりとりてはらりとおもきすすきかな

だ(全句集を読みなおしてみると、蛇笏には<全てひらがな>の句は数十句もある)が、この<全てひらがな>という大仕掛けは、派手なぶん真似しやすくもあるが、あざとさが目立ったりもする。改悪したdなど、意味を汲み取ることさえできない、駄句以前の片言になってしまった。
おそらく、「すすき」の句は、詠まれている物体が「すすき」のみであり、「おもき」というひらがなでは意味の解しにくい言葉も、すぐ上に「はらりと」の擬態語があることですんなり了解できる、という構造になっているのが成功の秘密なのだろう。
対照的にdは、「水底」「落椿」という二つの事象の位置関係のありようが表現されなければならないので、ひらがなだけでは説明未熟の、意味不明なものでしかなくなってしまうのだ。

ちなみに、蛇笏の、オールひらがなの「おちつばき」にはこんな句があるが、「すすき」の句と似た構造のために、(佳句とも言えないが)dほどの駄句ではない。

ひとつづつながれてゐざるおちつばき
あながちにはかなからざるおちつばき

で、掲句cだ。
理想形のbに対して、「おちつばき」がひらがなで表現されているという負の逸脱を犯しているのだが、それによって、一種の違和感、気持ち悪さ、が味わいとして加わっている。それが、読み応えとしての〈苦味〉になっている。
この連載ではこれまで、蛇笏の句に対して〈完璧〉という評言を何度も使ってきた。実際、蛇笏には(僕にとって)圧倒的に〈完璧〉を感じさせる句が多いのだが、この句はそれとはまったく別の系統なのだ。
逸脱、違和感、過剰。
蛇笏の句には、こうした意味で僕を揺さぶり、不安に陥れるものも多い。
掲句も、「おちつばき」では、一瞬、意味が像を結ばず、「あれ?」と考え、ようやく「ああ、落椿か」と理解できる。

ひらがな書きによるこうした効果(一瞬の、意味の無化・脱意味化)を<呪文化>と呼んでおこう。
あえてひらがな表記にする<呪文化>によって、違和感・苦みを添える。
負の逸脱・違和感によって、俳句作品が、その<醍醐味=さまざまな風味の混然となった複雑な味わい>を増すのだ。
蛇笏じしんはそんなことを意図して「おちつばき」と表記したのではないだろうが、僕は、この句をそのように<肉化>する。

ひらがな表記の<呪文化>が(季語ではないが)印象的な蛇笏の句は、他にもいくつかある。

こくげんをたがへず夜々の青葉木菟
霜踏みて碑の寂光をたんのうす

「刻限」→「こくげん」、「堪能」→「たんのう」、たいへん違和感があり、だからこそ忘れがたい二句だ。
この<呪文化>を含む句が、晩年になるほど増えてゆくのが、興味深い。

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