【週俳6月の俳句を読む】
心に留める
鈴木総史
俳句を“詠む”というのは、自分が見たもの・感じたことを心に留めることなのではないかと思う。俳句を“読む”時も心に留めることを意識したい。
まずは、浅川芳直 「捩花」より。
ひと雨の予感に栃の花が降る 浅川芳直
栃の花といえば、小さくて派手さのない花である。ひと雨の予感というあいまいな響きが非常に良い。サッと降ってサッと上がる雨なのだろう。その前に降ってしまう栃の花は妙に心に残る。
死の話少しだけして冷素麺 浅川芳直
葬式の話なのか、病気の話なのか、死にまつわる話というと様々あるように思う。季語の冷素麺が効いている。日常生活にふと現れる死という現実、それが冷素麺を食べている時だったのだろう。
捩花やバスが来ぬなら歩きだす 浅川芳直
季語の必要性を実感した一句である。上五に捩花を持ってくることで、中七以降に強い説得力が生まれる。捩花が咲くような場所は、都会ではない。田畑や山があるような静かな田舎だろう。田舎のバスが良く表現されている。待たずに歩きだすのも、一種の捩れなのだろう。
続いて、丸田洋渡 「夜を濡らす」より。
朧夜を港のように明滅せよ 丸田洋渡
「明滅せよ」。これは誰に向けられているのだろうか。安易に人間だと捉えるのはもったいないような気がする。港のあの淡い明滅のように、朧夜の中のものすべてに呼びかけている。信号も蝶も桜も、もちろん人間も。「明滅せよ」、朧夜に存在するすべてのものへ。
展翅うつくし蝶を永らえさせる針 丸田洋渡
標本と言わずして詠みきった一句。ただの蝶の標本といえばそれまでだが、表現が素晴らしい。あの針を、永らえさせる針だと言った。死んだ蝶であっても、美しくなれるというなんとも不思議な感覚を覚えた。
太陽は水没しない螢籠 丸田洋渡
このなんとも傲慢な主観。水平線に沈んでいく太陽を見れば、ほとんどの人が水没したと思うだろう。しかし、彼は違うようだ。そこに取り合わせてきたのは、蛍籠。この季語がどこまで効いているかというと難しいが、どちらも水没しないものなのではないかと思う。太陽の光も、蛍の光も。彼の感覚が良く活かされている一句であった。
最後に、小山玄黙 「倫敦は雨後」より。
彼とは、普段から句座を共にしている。彼のすごいところは、句をメモしないのである。吟行では、単語だけを句帳に記し、いざ短冊に書く時に俳句に変わる。まさに、「心に留める」ことにおけるプロフェッショナルではないか。
鳥けもの出払つてをり葭屛風 小山玄黙
屏風といえば、鳥やけものが飛び交う豪華なものをイメージする人が多いのではないだろうか。葭屏風に対して「出払っている」と捉えた捻り方が素晴らしい。葭屛風がなんだか素晴らしいものであったかのような言い方。実際は簡単なものではあるのだが。
髪に似て喪服褪せゆく水中花 小山玄黙
喪服の褪せ方を「髪に似て」と捉えた。同じ黒いが特徴的なものではあるが、褪せ方に注目したところが一歩抜き出るポイントであろう。季語の水中花もよく効いている一句であった。
月涼し切符と切手すこし違ふ 小山玄黙
「切」という文字を含む二つの単語。切符も切手も「倫敦」と通ずるものではないだろうか。少しだけ違うという把握が面白い。用途は全く違うものの、何か旅情を感じさせるものであったり、「切」られるものであったり、そういった部分に何らかの共通点を見出した後の感覚だろう。そうでなければ、「すこし違ふ」という把握には至らないだろう。
「心に留める」と題して書き始めた作品評であるが、どれも心に留まってくれる作品たちであった。私自身も、これらの作品に負けないよう、誰かの心に留まってくれる作品を作り続けていきたい。
2018-07-29
【週俳6月の俳句を読む】心に留める 鈴木総史
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