〔阿部完市追悼〕
爽波と完市
島田牙城
ミスマッチに思へるものの中に、案外その中心を貫く本質が隠されてゐたりもする。
波多野爽波率ゐる「青」の吟行会が近江高島で持たれた一九七七年三月のお彼岸のこと。その句座に四十九歳の阿部完市の姿があつた。
その後、一九七九年の九月、「青」は三〇〇号を迎へ、その記念号で「波多野爽波小論」を特集、阿部さんも論者の一人として「波多野爽波小感」といふ一文を寄せてゐる。
この中で阿部さんは、簡潔端的に俳句についての自らの思ひ一通りを語つてゐる。例へば、
私は「言葉」がその指示機能から私の心の、気分の、感情の機能 ── への移行がはじまり、それが決定するとき一句が成る、と今は思っている……
といふふうに。ただ、近江高島に赴いたころは、まだ「体験的に私に理解し得なかった」時期だつたのだといふ。
阿部さんは、自分の俳句を爽波に見せるために、わざわざ近江まで足を運んだのではなかつた。盟友・飯島晴子から聞かされる爽波の作句現場、「その多作とその速度」に「ひどく心惹かれ、そして高島へ行った」のだと書く。自らの俳句観と爽波の句作りに一脈通づるものを直感し、何らかのヒントをその作句方法から得ようとしたのだといふことだらう。
そして阿部さんの爽波体験は、爽波の作句姿勢と自らの作句姿勢に、俳句生成の本質としての一致点を見出ださしめることとなる。
一句生成は所詮「偶然」がその主役を作す。しかし、この「偶然」は、作者の一念につねに連結している。いなければ「偶然が主役」にはなり得ず、求める一瞬はついに来ない。
大切な単語は二つ。「一念」と「偶然」。先の引用箇所に照らし合はせると、「一念」によつて「移行」が始まり、「偶然」によつて「決定」がなされるのだといふことになる。このことにおいて、阿部さんは爽波の大いなる理解者であつた。
阿部さんは俳句論をよく書いた。また、現代俳句協会青年部のシンポジウムなどにも積極的に顔を出し、若い者たちの発言をじつくりと聞いた後に、会場からの意見を求める段になると必ず手を挙げ、アドバイスを惜しまなかつた。
纏められた俳論のうちの一冊『絶対本質の俳句論』は僕が作つた。大仰な題を考へたのも僕だけれど、しかし僕には、論客・阿部完市といふ厳ついイメージは不思議とない。論理を積み上げる人といふよりも、「一念」のうちに「偶然」言葉の塊として湧いてくる思ひを大切にされる人だといふ印象が強いからだらう。「瓢箪から駒」の図柄を装丁に使つたのも、そんな思ひからである。阿部さんは苦笑ひしながら僕の意匠を受け入れて下さつた。
この本の中で、
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
について何度も繰り返し面白がつてをられる。この句が席題「鶏頭」でつくられた九句中のラストの句であつたことがよほど気に入つたらしい。そしてかう書く。
奇妙な言い方であるが、正岡子規の「鶏頭の十四五本も」一句は、ひょっこり生れ出た一句であると思う。ひょっこりというのは「無意識のうちに、下意識裡に、思いもかけず、意図せずに」という意味合いである。
今また巷には意味による了解を求める俳句が氾濫し始めてゐる。俳句鑑賞も意味一辺倒だ。韻文とは、意味から抜けた心地よさや、意味を殺ぎ落とした戦慄をもたらしてくれるものではなかつたか。意味から飛んだところに生まれる「一念」による「偶然」を、もう一度僕たちは考へたはうがよい。そのきつかけとなる「言葉」の数々を残してくれた阿部完市さん、有難うございました。
はるかへかえる小さい沼をくるくるまわし 完市
阿部完市さんを悼む
水固ければきさらぎにでこぼこを 牙城
こんな句が出来て微苦笑してゐる。阿部さんが作らせてくれたものだらうか。 合掌
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2009-03-08
〔追悼阿部完市〕爽波と完市 島田牙城
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〔追悼阿部完市〕いちにちきれいに白い完市 三宅やよい
〔追悼阿部完市〕
いちにちきれいに白い完市
三宅やよい
亡くなったという報を聞いて少し驚いた。
数か月前明治大学リバティホールで行われた朗読会で俳句を朗読している元気な姿を見たからだ。一時は容体がよくなかったのが回復したのだろう、とばかり思っていた。その日の朗読は淡々としていて俳句は面白かった。
アベカンの俳句は聞くだけでアベカンの俳句とわかる文体と言葉づかいを持っていて独自なのだけど、私はあまり好きになれなかった。なんだか、むかしむかし、ひゅひゅーと、いちにち晴れている、とかひらがなの多い表記の俳句を読むと素手で脳みそをつかまれているようで気色悪いのだ。被膜のようなその世界は眺めるというよりべろんと包まれる感じて足の突っ込みようがなかった。
『國文学』2008年12月号で江里昭彦が「平成俳壇の行方」―「ちょっと加工して発信」の魅力について、という一文を出しているが、その中で平成俳壇の要素の一つとして「俳句ブームの時期に顕著になったのは「ちょっと加工して発信」する魅力が大衆を捉えたことである」と興味ある文章を書いている。
「ちょっと加工して発信」できる魅力に惹かれた人々に支えられることでブームとなり、そうした人々が参入することで、俳句の他の側面・可能性は後退し、「ちょっと加工して発信」の相貌のみが極度に肥大化したのである。刻印されたこの性格を、俳句が今後もひきずることは間違いない。
そうした問題点を指摘したあと結論部分で次のように述べている。
俳句を「ちょっと加工して発信」する詩型と考えない表現者は、どうすればよいのか、である。この少数者が担う役割は、<典型>をつくりだすということである。なぜなら、加工という操作は、加工される対象を必要とする。その対象の大半を占めるのが<典型>だからである
その意味からいえば、アベカンの俳句ももちろん<典型>なのだけど、「ちょっと加工して発信」するには使いづらい代物である。
虚子は「写生」という方法と花鳥諷詠という路線のもとあまねく弟子を集めた。方法論がわかりやすくて初心者から上級者まで誰もが試せること。<典型>のバリエーションが多種多様であること。が、結社最盛の旗印になのかもしれない。その点からいえばアベカンの俳句はあの独特は形容動詞や形容詞や平仮名表記の擬態語などを多発すればだれが見てもアベカン調になってしまい始末に負えない。
アベカンが同人誌時代の「海程」に所属したまま自分の結社はおろか衣鉢を継ぐ弟子も見当たらないのは、独立独歩すぎて模倣しにくいという面もあるのかもしれない。アベカンはかくも偉大である。
葉月をとおるたとえば日本騎兵隊
の句の「たとえば」
少年来る無心に充分に刺すために
の「ために」
すきとおるそこは太鼓をたたいてとおる
の「そこは」
といった言葉づかいや言葉の入れ込みはその後も「ちょっと加工して」の文体に多々採り入れられたかもしれないが、
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど
風をみるきれいな合図ぶらさげて
ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん
豊旗雲の上に出てよりすろうりい
などはこの人にしか作れない説明を拒絶するすきとおった句。この句へ至る手がかりをつかもうと試みても、ぬうっと存在する言葉につるつる滑り徒労に終わってしまう。きっと彼は半端な知識とか知性とかを信じておらず言葉で原初的な感覚をつかむことをいつまでも夢見ていたのかもしれない。そんな世界を作ったアベカンは生前からぬらりひょんのような風貌だったし、今は本物の妖怪になって天国を徘徊しているかもしれない。
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〔追悼阿部完市〕 橋本 直 若き日の阿部完市について
〔追悼阿部完市〕
若き日の阿部完市について
橋本 直
のっけから実証に入って恐縮だが、現代俳句協会のHPにある第9回現代俳句大賞受賞を知らせるページの、故阿部完市氏のプロフィールには不正確な点がある。
「昭和25年より俳句を始め、昭和26年日野草城の「青玄」、同27年、西村白雲郷、 稲葉直の『未完現実』に入会。」
( http://www.gendaihaiku.gr.jp/news.cgi?a=view&id=2009020501より引用)。
この「未完現実」は、根源俳句の提唱者の一人である西村白雲郷の「未完」が、彼の死を以て昭和33年5月1日発行の通巻第101号で終刊し、その後継として稲葉直の手によって起ち上げられたものであり、上記略歴はその経緯について記述が粗い。
さて、その「未完」の終刊号がいま私の手元にあるのだが、シンプルな表紙は、司馬遼太郎「街道をゆく」で旅の同行をし、挿絵を担当したことで知られる須田剋太によるものであり、追悼記事の執筆者を見ると、永田耕衣の弔事をはじめ、その耕衣や、平畑静塔、金子兜太、赤尾兜子、榎本冬一郎、波止影夫、楠本憲吉、東川紀志男、桂信子、田川飛旅子らの追悼文が並び、やはり西の有力俳人であった白雲郷、あるいは稲葉直の交友関係が垣間見えている。
ここで阿部は、追悼文とともに白雲郷研究「『瓦礫』鑑賞」を寄せている。前者は短文だが「いいオヂイサン」白雲郷の印象を語る一見微笑ましげな話題のなか、その印象をもつ我とそれを見据える精神科医の我、結局両方で自己を語らないではいられないようであり面白い。後者では、若き日の、和歌山塩津の診療所にいたまだ俳句をはじめて半年の阿部が、稲葉直から白雲郷の〈霊棚の芋殻の梯子笑うべからず〉を見せられた時の驚きを語っている。
「私にとつてこの一句はまさにおどろきであつた。それはこの一句が何よりも慧智の詩であつたことである。哲学の詩であつたことである。私にとつてこの『笑うべからず』は絶対の境地であつた」(阿部完市「『瓦礫』鑑賞」)
いわゆる虚子派的「花鳥諷詠」の句境を厭う感性をもって俳句に出会いつつ、村の診療医として連日どっぷりと俗な現実に浸っていた阿部にとって、この句は格別の「贈り物」であったようである。
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〔追悼阿部完市〕ほとんど作家本人の言葉からなる、阿部完市小論 上田信治
〔阿部完市追悼〕
ほとんど作家本人の言葉からなる、阿部完市小論
上田信治
阿部完市の俳句の言葉は、双葉が土からあたまをもたげ伸びてゆく映像のような「書かれつつある」または「書かれてゆく」言葉である。
それは、作家自身が克明に書きしるしていることでもある。たとえば以下の文章の「俳句とはそれがそのまま一個の行為」というところ。
このしつように繰り返しつつじりじり進む文章の「行為」「動いて止まぬ」「過程」というのが大事なところで、つまり阿部完市にとって、書き終えたものが止まってしまっては、元も子もないらしい。
一句は、実は全く「言い了える」ことはない。一句は、わが思いの方向、わが思念の志向をのみ提示する。方向のみ、志向のみであるから、わが思いは終わらず、わが思いはより多方向に、つよく広がり止むことがない。鑑賞者は、一句によって ── 作者が決断したその意志による十七音という「短」さそれゆえの示す志向、方向の保証の下により想わされ、直感させられる。
一句言い了えている、と思わせる「完結感」は、俳句には絶対に在らねばならぬものであっても、真実「終り」「言い了える」ということは、俳句という切断、決断の詩に於いては絶対にあってはならぬ。 「完結感」が在らしめられ、そして絶対に「完結」して在ってはならぬのが一句・俳句である。
山本は「詩は聴者の胸に一つの波を立てることが出来れば」(※)と言っているが、私はこの波の「実在感」 ── 一波ありたりという確かな手応え ── を「完結感」と言いたいと思う。(※上田注『純粋俳句』山本健吉 1952 )
「認識の刻印」── 認識と言う、いわば完全に解釈し、自己嚢中のものとするというところまでは欲しない、あるいは欲し得ないが、しかし何かが確かに在る ── 言い得て何か存在せしめたという実感 ── 完結感。その存在を私は「俳句存在」ということと考える。(…)「認識の刻印」という、より理論的、理知的な把握実感よりも「不確実」という確実・実感の方を私はより「俳句」と思う。この確かには何もない、しかし何かは確在すること・実在感の存在を、私はより「現代俳句」の重さと謂う。
(『絶対本質の俳句論』(1997邑書林)「時間論」)
一句が、書き終えてなお、止まらず動いていること。言い了えずに、言い了えること。確かな「不確実」の手応えがあること。
そうでなければ俳句は「一定の作り方、一定の美の言い立て、いつもの感傷」「いつものように、いつもの通りに美しいよ、という種の演歌」(同「定型論」)になる他ない。
一句一句つくって行っていつも同じような感情の色彩、匂いのなかにすとんと落ちてしまうこと ── 感情論理を辿ること、その結末としていつも同じような情緒、情念に一致 ── 悪しき一致 ── してしまうこと。これを私は「俳句」の変化、新しい「俳句」 への、「俳句」の生成への障害と考える。(同・「時間論」)
いったい、これほどの矛盾とケッペキを道連れに、書くとはどういうことか。
それは既知の言葉への固着から、身をよじるようにして逃れることの連続である。身をよじりつつ反らせつつ、いかにしてそのステップを踏みおおせるかという運動、その軌跡「として」書くこと。
それは、言葉による一つの舞踏である。
「風を見る」と書き、次になにを書くか、今、目の前にゆれ動いているものよりも確かなもの、私にとってより私の心のものとしての確定的なもの、を探す。探すために書く、言葉として、私の在り方の隙間から洩れ出てくる言葉を書く、いろいろ書く。風、吹く、見える、風立つ、きれいに吹く、淋しく吹く、林が動く、信州、野分、風が曲る、道を吹く。見る。ふらりと立って見入る。手に持って見る、ぶら下げてみる。風を見る、ぶらさげてみる。「風を見る、ぶらさげて見る」、このとき、ひとつの質感、なにかの影が私に見える。イメージがちらりと形を見せ、残りたい、在りたいと言う。私は、その言葉を信用する。つづいて書く、ぶらさげる、紐、人間の絆、悪心、嘔気など、ぶらさげる、きれいにぶらさげる。もの、命名されることのないなにかが手にある。なにか、風のなにからしい。信号だ、風への知らせだ。風からの知らせだ。風の合図だ、私の合図だ、きれいな合図だ。そして、私が、ここに在るようだ。在ることができる。ふしぎに在る。きれいな、合図をぶらさげて、風を見ている。それが、いま、私が在るということだ。風の中に在る、私、だ。
風を見るきれいな合図ぶらさげて 阿部完市
ここに追体験され記録されているのは、既知のそれを振り落としつつ手探りされてゆく、イメージの生成過程である。
しかし、このなまなましい運動が、目の前の一句に「過程」あるいは「生成」としてあらわれ得ているかというと、どうもそうではない。句はゆるぎなく完成していて、そのイメージは鮮烈だが、作者の句としては、むしろ運動が不足しているような気がする。だいたい自分は、この句を「風鈴」の見立てだと思っていた。
この作家の最も知られたいくつかの句は、句自体が、そのイメージと韻律の生成過程として書かれている。
と書けば、たちまち反問がわきおこる。全ての書かれ終わった句において、イメージと韻律は「すでに」その句そのものである。言葉は書かれて目の前にある。その言葉があらためて「生成」であり「過程」であることが可能だろうか。というか、それは「馬から落ちて落馬」式のナンセンスであり、空論ではないのか。
阿部完市は、それをやってみせた。一句が、自らこわれてみせることによって、それは可能だった。
少年来る無心に充分に刺すために 『絵本は空』
ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん 〃
〈少年来る〉。〈充分に〉の5音によって、言葉が定型からさまよい出そうになる。その「浮遊感」が、ベタですらある内容を、夢幻のように見せている。少年が、なんどもなんどもスローモーションで来そうでこわい。
〈ローソクもつて〉。「……て……て、ゆき」「むほん(3文字)」という言い方が、ひらがな書きの効果とあいまって、ほろほろくづれてゆくようだが、くづれるのは、〈みんな〉か、自分か。
それらがほとんど韻律から与えられる印象であることに、あらためて驚かされる。
栃木にいろいろ雨のたましいもいたり 『にもつは絵馬』
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど 〃
兎がはこぶわが名草の名きれいなり 〃
〈いろいろ〉〈たましい〉〈あざやか〉〈アフリカ〉……阿部完市にあっては、しばしば音数4の語が不穏である。それらの語が入ってはいけないところに入ってしまったことをきっかけに、定型が、はらはらと自己展開してゆく。〈いろいろ〉に押されて〈たましい〉が生じ、下五にはみ出した〈も〉が、そのあとの一音アキを生む。
そして〈兎がはこぶ〉の、語の不確かな連結(連体終止同形の動詞による疑似三段切れ、「わが名草の名」の並列、口語文語のめまぐるしい混用)により生じる、はかなさ。
韻律や、イメージや、語の連結が、読む順に、ゆるんだり、はずれたり、こわれたり、していく。
それは「俳句として予期される様態」からの逸脱である。わずかに「予期」に先行されつつ、読まれてゆく言葉が、継起的に、予期されたラインからずれるという運動である。
ここにあげた5句などは、何度読みかえしても、口が喜ぶ。というか、黙読すると、仮想の発声器官のようなものがキモチイイ、といったほうが正確か。
読者にとって「予期」と「逸脱」は一句上にタイムラグをもって併存するので、句がこわれていく運動は、ダンスのように何度でも再現される。
そのとき、一句は、それがその句になっていく「過程」を演技する。音韻とイメージが相同し相乗する働きもあって、もうその句は、読まれてゆく運動それ自体である。
それは、まったく当たり前の書き方ではない。
さて、生成する韻律やイメージと同時に、全体でひとかたまりの何ものかが立ち上がらなくては俳句ではない ── というのが阿部完市の考えである。
俳句一句は、結局ひとつの塊り ── ひとつのまとまりとして在るもの。私たちの心中に、詩的享受の一定の構え・一定範囲に適合するための一塊・一個である ── 読者への一体・全体、鑑賞者の心為へのゲシュタルトとしてあると考えられてよい。
俳句は一つのゲシュタルト・全として在り、読者にすぐさまにいきなり把握され、直接にその心中に入りこみ、安定し不動となる。そして、それが一種の詩的共感、快感を惹起せしめる。
(同「時間論」)
言い換えれば、俳句は言葉でつくるもの、しかし、俳句の「目ざすもの」は言葉ではないし、イメージでもない(ましてや意味ではない)。
鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
帚木に影といふものありにけり 虚子
鶏 頭の十四五本もあるだろう、程の意味。また、帚木に影というものがある、程の意味であろう。意味としてはいわば当然・当たり前、である。しかし、この二句 からほとんど無限と言ってよい感動の与えられるその理由は、よくよく思わなければならない。鶏頭の句が、私にとって名句であるとするその理由に二つある。 一は、その語調・音韻・音律の一気さであり、二は、五七五一塊の一気に存在するその焦点そのもののごとき有様である ── 一気であり、その一塊・いわば一つのまとまり・総体・ゲシュタルトとしての快感・直感である。この句の意味の当然さ、当たり前を完全にのり超えて、いわば 〈音韻〉そのものだけの意味、〈音律(意味を消去してのちの)のいわば純粋意味〉を示しているからであると私は考えている。(…) 本来意味を生じる「言葉」の音の連なりが、その連なりだけをより浮遊化して、より純粋な音の綴りそのものだけからの直感・共感を実現するということである。
阿部完市の一句一句の「一つのゲシュタルト・全」を受けとった感じをざっくりと言うならば(本来言い換え不能だろうが、あえて「次を附ける」なら)、それは、自分にとって「物語の印象」のようなものだった(同じようなことを感じる人は多い気がする)。もちろん、具体的なものではなく、なんとなく、こわいような、おかしいような「物語の印象」。
その物語は、童話とか民話とか神話とかであって、いわゆる小説ではない(いわゆる小説のような「印象」を与えることを、最高の達成とする俳句の多さよ)。童話・民話・神話は、単純すぎて、けっきょく何を言っているのかよく分からないことが、その特質である。
「知的論理の操作を絶対に拒否しなければ「俳句」は決して出現しない」と書いた作家による、あまりにも論理不在な作品の背景に、読者は「前=論理としての物語」のようなものを、読み取ってしまうのかもしれない。
俳句はその一行に表れている意味を了解して終わるという物ではない。その一句の背後に秘匿されている一つのあるもの(エトワス)を体感し、直感するものである。一句を作り出すときに作者・作る意識者は、まずその俳句の特性であるゲシュタルトにとらわれ、そしてそれに従って作句しはじめ、おわり、「次」の何ものか(エトワス)へという方向、指示を直感し、書く──俳句の志向性。そしてそれからその一句の深奥に浮遊している何ものかを直感し、さらなる次を附けること──これが俳句を作す、読むということである。
言いたいことは言い終わった(引用し終わった)ので、あとは好きな句を、ほんの一部だけ。
姉の小さいぐらいだー飛び有職故実 『春日朝歌』
雨から東へあるいて男きものかな 『純白諸事』
遠方とは馬のすべてでありにけり 『鶏論』
翡翠をあつとこころはこえるなり 『軽のやまめ』
水甕の置かれていつしよけんめいなり
ねぱーるはとても祭りで花筵
昼顔のように品物ありにけり 『その後の・集』
精神はぽつぺんは言うぞぽつぺん 『地動説』
空豆空色負けるということ
山々や三六五日と休日
横顔は小舟をすてるのです
きつねいてきつねこわれていたりけり
世評も高い『絵本の空』(1969)『にもつは絵馬』(1974)につづく、『春日朝歌』(1976)『純白諸事』(1979)には、いくつかの忘れがたい佳句はあるものの、どこか前二句集の達成を追っているようなところがあって、正直、苦しげに見えた。
ところが作者63歳の句集『軽(かる)のやまめ』(1991)は、韻律は以前ほどこわれなくなったし、切れ字も多用しているのに、どこから見ても阿部完市の俳句であるという自由自在ぶりで、〈豊旗雲の上に出てよりすろうりい〉も集中にあり(〈すろうりい〉のこわれっぷり!)、これは名句集といっていいように思う。『地動説』は未読。
最後の4句は、2007-2009版の年鑑の自選5句から。作家晩年の充実がうかがえるこれらの句は2009年2月刊の『水売』(角川書店)に入っているはず。これが遺句集になった。
俳句の「一定の作り方、一定の美の言い立て、いつもの感傷」を拒否して書くということは、俳句を「天才の仕事」として書くことだ。
阿部完市は、最期まで「天才の仕事」をめざすことを諦めなかったし、それを達成したように思われる。(引き合いに出しては悪いが、同じようにこわれた韻律を持つ荻原井泉水の晩年のぐだぐだとはえらい違い)。
その理想の高さ、きびしさは、仰ぎ見て讃えるべきものだった。
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〔阿部完市の一句〕大畑 等
〔阿部完市の一句〕 栃木にいろいろ雨のたましいもいたり
大畑 等
呪詞のようだ。音が先行して触手をのばし、ことばを呼んでいる。
トチギ(イ)ニ(イ)(イ)ロ(イ)ロアメノタマシ(イ)モ(イ)タリ(イ)
「イ」の音でことばがことばを呼んでいる。そして、「たましい」というものは「いたり」するものなのであろうか、いや、そのように表記するものなのであろうか?この曖昧さもまた、この句を面白くしているようだ。近代の言語学が言葉の差別化—分類・構成・限定に向かうのに対して、阿部完市の句は、言葉の溶化を企んでいるようだ。意識で切り刻む以前のことば。これは、ことばの発生の問題でもあるのだが、ことばは、ただ今、まさに、発生しているのだから、発生の問題は現在の問題でもあるのだ。
言葉と言葉の境界が曖昧になると時間もまた溶化する。阿部完市の句に、直線的な時間ではなく円環的な時間を感じるのもそのためであろう。阿倍完市は言葉(日本語)に対してきわめてラジカルなのだ。句そのものがウロボロスの蛇!
掲句は『にもつは絵馬』(1974)所収。
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〔阿部完市の一句〕中村安伸
〔阿部完市の一句〕 にもつは絵馬風の品川すぎている
中村安伸
掲句は句集『にもつは絵馬』(1974)に収められるとともに、そのタイトルともなった句である。実景として読もうとすれば、たとえば絵馬をたくさん積んだトラックが国道を過ぎてゆく、あるいは、東海道を徒歩の旅人が風呂敷に絵馬を包んでゆく、そのようなものとして受け取ることも可能である。
しかし、私はこの「絵馬」を必ずしも現実のものとは受け取っておらず、むしろ内面を直喩的にあらわしたものであると思っている。このように現実と幻想がない交ぜとなり、その境界が明確でないのが阿部完市の俳句の特徴のひとつである。ただし、空想は現実と乖離することなく、むしろ内面の現実を忠実に描くために選択された空想的表現と位置づけるべきなのだと思う。
「風の品川」については、新幹線や東海道線の車窓から、品川駅の、多くの線路が集まりちょっとした平原のようにひろがった空間を見ている感覚を想像する。それが私にとって最も実感のある「品川」でもあり、「風」が呼び起こす景でもあるのだろう。「すぎている」という表現は、上り列車ではなく、東京を遠ざかる下り列車にこそふさわしいだろう。私はこの句に、旅立ちの期待感のようなものを重ねて読む。「絵馬」に描かれている躍動する馬のイメージもその一助となっているだろう。一方で、もっと日常的な光景として受け取る人もいるだろう。それは「品川」という固有の地名に対して読者が抱くイメージが多様だからであり、そのことが句意の多義性をもたらすのである。
阿部完市の句には地名を用いたものが多くあるが、日本国内の地名の場合は、旧国名のようにイメージが比較的固定しているものより、県名など、読者それぞれが実感をもってイメージできるものを積極的に使っているように感じる。例をあげると〈栃木にいろいろ雨のたましいもいたり〉(『にもつは絵馬』)〈みえてきて滋賀県は波ばかりかな〉(『軽のやまめ』)などがあるが、もちろん、読者がどうこうというより、作者自身がその瞬間、実際に感じ取った印象を託すのに適当であるとして選択したものであろう。
やや話はそれるが、海外の地名を表記を使っている句も多く、目立つのはカタカナ表記を平仮名に置き換えて使用しているものである。これは固着したイメージを取り払い、あるいは童話的な印象を与えるためだろう。たとえば〈いたりやのふいれんつえ遠しとんぼつり〉(『阿部完市句集』より「その後の・集」)〈ねぱーるはとても祭で花むしろ〉(『軽のやまめ』)などがある。
表記ということに関して言えば、掲句の「にもつ」が平仮名にされていることは目をひくのだが、同じ句集におさめられた〈いもうとと飛んでいるなり青荷物〉という句の「荷物」が漢字で表記されていることと比較すると、ひとつには仮名と漢字の量的バランスをとったということであろう。「いもうとと」の句の「青荷物」については、造語としてイメージを明確にするため漢字を使っているという側面もあるだろう。
この二句に共通しているのは「にもつ」あるいは「荷物」を軽いものとして描いているところである。「にもつは絵馬」の句では「絵馬」という比較的軽いものを「にもつ」と称しているのだし、平仮名表記もかろやかな印象を与え「荷」という文字のもつ重苦しさを解き放ちもする。「いもうとと」の句に至っては飛行する「青荷物」なのである。
「荷物」という語はどうしても「人生の重荷」というような責任感、プレッシャーなどを象徴的に暗示してしまう。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という徳川家康人生訓を引き合いに出すまでもないだろう。このようなイメージを払拭したい、あるいは自分自身にのしかかる重荷そのものを軽くとらえたいという思いが、両句にあらわれているように感じる。裏返すと、阿部完市自身が、このような重荷を敏感に感じてしまう人であったのかもしれない。
そのようなナイーブさが、痛々しいほど素朴に明確にあらわれてしまっているのが、第一句集『無帽』(1956)である。阿部氏の訃報を聞き、彼の句業を振り返ってみて、今まではあまり意識しなかったこの初期の句業を興味深く感じている。句集のタイトルが「無防備」に通じるというようなことも含めて、検討してみたいところである。
掲句は『にもつは絵馬』(1974)所収。
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〔阿部完市の一句〕五十嵐秀彦
〔阿部完市の一句〕 少年来る無心に充分に刺すために
五十嵐秀彦
俳句を始めたころ、あこがれの作品というものがあった。
いや、あこがれの俳句があったから、自分でも作ってみようと思ったのかもしれない。
いくつか書き出すと次のような作品がそれだ。
目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹 寺山修司
「月光」旅館
開けても開けてもドアがある 高柳重信
夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣
南国に死して御恩のみなみかぜ 攝津幸彦
水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
かもめ来よ天金の書をひらくたび 三橋敏雄
こうして見ると、実にパターンだなぁ、と思う。
とは思うが、この一句一句に「偶然」出会ったという事実が面白い。
初心のころも今も、特に研究したい作家でもなければ、個人句集にはそれほど興味を持っていない。
風の中に吹かれてきたものに偶然触れるような出会いのほうが、俳句らしいと思っている。
だから、基本的にアンソロジーが好きだ。
そしてアンソロジーの中から、「偶然」を装った風が吹きつけてきた。
阿部完市の掲句も、そんな出会いの句だったはずだ。
特に難解な句ではないが、ではどう解釈するかと問われると、答えにくい。
初心の頃に好きになった句の大半がそんな句だった。
今でも私は俳句の意味など、どうでもいいと思っている。
たぶんこれからもそうだろう。
よく分かる俳句を書くぐらいなら、なにも俳句でなくてもよいし、エッセイでも小説でも意味伝達を重視した形式を選べばよい。
阿部完市の句は、意味性を無視しているので、私にはとてもなじみやすかった。
それなりの年数を俳句に親しんでくると、やがて立派なスレッカラシになって、写生句を楽しく読んだり、それっぽい句を作ったりするのだが、大方の意見と異なり写生句にはあまり俳句を感じないのである。
やはりなにごと初心というものが肝心で、それが創作の原郷のようになる。
私にとって阿部完市の存在は、やすらぎでもあった。
ときどきふと心に浮ぶその言葉の響きを楽しんできた。
今後、阿部完市論など書く可能性はかけらもないが、好きな俳人、俳句であることはこれからも変わらないだろう。
有名な掲句も、有名であろうとなかろうと、私の背中を俳句に向って押してくれた恩ある一句である。
ほかに好きな句も多いが、一句挙げろと言われれば、この句を迷わず挙げる。
そこがふるさとだからである。
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〔阿部完市の一句〕冨田拓也
〔阿部完市の一句〕淡路島と色彩学とはるかなり
冨田拓也
掲句は「淡路島」と「色彩学」という2つの単語と、それらが「はるか」であると説明する言葉のみで成立している。遠くにある「淡路島」の緑色の姿が白い雲の下で青い海の上に浮かんでいるイメージと、「色彩学」における寒色から暖色までの様々な色調が思い浮かぶ。
そして「淡路島」の「淡」という文字と「色彩学」という言葉の連繋作用によって1句の世界全体が水彩画のように「淡彩」の茫洋としたイメージで覆い尽くされる。言葉と言葉の関係性から浮かび上がる不確かな幻像。まるで「蜃気楼」のような作品である。
阿部完市の作品から感じられるのは、まさしく「言葉の関係性の面白さ」そのものであろう。齋藤慎爾編「二十世紀名句手帖」を通読していた際、阿部完市の作品に出会う度にそのあまりに際立った異質性から周囲の作風との階梯がまざまざと感得され、一再ならず驚嘆した憶えがあった。それは阿部完市が他に容易に紛れることのない作風、即ち固有の文体の持主であることを周囲の俳句作品との比較作用によってまさしく「痛感」した瞬間であった。
他人と異なる表現を行うのには想像以上の困難を伴う。それは「孤独」という問題に深く関わってくるからである。それでも長い年月にわたり安直な位相にとどまることなく特異な作品行為を継続し、容易に他に紛れてしまうことを潔しとしなかったのは、やはり阿部完市という作者の深奥に自らの作品を希求せんとする強い意志が内在していたためであろう。
しかしながら、自分はこれまでずっとあまり熱心な阿部完市の読者ではなかった。各種のアンソロジーなどでその作品世界の一端には何度か触れてはいたものの、その作品については、句集などで纏めて深く読み込む機会を自らの怠惰のために逸し続けてきてしまったのである。いつかこの特異な作風の所有者の全貌についてしっかりと把握したいという思いとその必要性を強く感じてきたのだが、それが果たせないまま今回の訃報に接することになった。
この作者について今後考察しなければならない点は少なくないはずである。そのいくつかについて思いつくままに挙げてみるならば、「作者としての全体像の把握」、「個々の句集についての評価」、「所謂『海程調』の不毛に陥らなかった理由」、「評論の内実」、「無季作品による成果」、「ひらがな表記による効果」、「リフレインなどによる音楽性」等ということになる。今後この作者の遺した句業についてじっくりと向かい合ってみたいと思う。心よりご冥福をお祈りしたい。
掲句は『春日朝歌』(1976)所収。
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〔阿部完市の一句〕小田信太郎
〔阿部完市の一句〕 少年来る無心に充分に刺すために
小田信太郎
そういえば、少年というのは本来そういうもんであるよなあ、なんて思う。1960年におこった社会党委員長浅沼稲次郎刺殺事件の刺客山口ニ矢(おとや)は当時十七歳だった。玉川学園高等部を中退し、赤尾敏の大日本愛国党に入党した「セブンティーン」は、日比谷公会堂の壇上で、たしかに無心に充分に刺した。
一ヶ月後に東京少年鑑別所で首をくくったときにも、七生報国 天皇陛下万歳 と壁に書いたくらいだから、念が入っている。
もし生きていれば、いま六十六歳であります。
いかなる理由があろうとテロは許されない、と言ってこれを難じることが、もっとも当たり障りのない態度であることはたしかだが、しかし、そんな言説は上っ面のキレイゴトにすぎない。
こんなインチキに対して、「少年来る無心に充分に刺すために」には、ああこれはホンモノだ、たしかにそうだ、という実感がある。むかしもそうだった。いまもそうである。これからだってそうにちがいない。阿部完市は、ここでたしかに人間の核心にふれたとわたしは思う。
この句からうける衝撃のなかには(すくなくともわたし自身は)これをうべなうこころがあり、そしてこの句が通り抜けたあとでは、少年に対する愛惜がわきあがる。誰もみな、少年はもう来ないのだと思っているかもしれない。しかし、少年はかならず来るのである。
その少年が、いとおしく、わたしはかなしい。この句がわたしを通過するたびにかなしいのであります。
掲句は『絵本の空』(1969)収録
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〔阿部完市の一句〕堀本 吟
〔阿部完市の一句〕きのうきようまつかぜごつこはやるなり
堀本 吟
巧いと思うモノは沢山あった、やたら繰り返しが多く何もないのに饒舌であるのもかなりあった。意外にも自分にピッタリくるものが少ない。しかし、きらいではないのである。しだいにそのリズムに引きこまれてきた。そして、多くの句には風、水、なみ(波)、気配など、何もないというありかたで在るものが多いことにも気がついた。この人はそれを書きたかったのではないだろうか。いちばん無意味な世界がえがかれている(らしい)ものを、私は選んだ。
撥音拗音もおなじ大きさに文字、それもひらがなで書かれている。一音一音が、音符のようにながれている。句の中身はものの距離が大きく空間的でかつ透明。さらにそれらはひらがなのたわむれであることがおおい。この文字の流れの眺めに浮かんでくるのは、全て虚でありながら、風の音や動きを感じ取っている人のこころのながれかた。
この句に敢えて意味を問うならば、下のようなことになるだろう。
a 昨日今日松風ごっこ流行るなり (評者無断書き換え)
b 昨日今日松風ごっこ逸るなり (同)
c 昨日今日待つ風ごっこ流行るなり (同)
d 昨日今日待つ風ごっこ逸るなり (同)
e 昨日今日待つ風邪ごっこ流行るなり (同)
f 昨日今日待つ風邪ごっこ逸るなり (同)
「松風ごっこ」か「待つ風ごっこ」か「風ごっこ」か「風邪ごっこ」か、「逸る」か「流行る」か?けっきょく〈a〉 を常識のセンと考える。
でも、「松風ごっこ」とはなにか?それ自体の意味についての関心をそそるとともに、それはひらがな世界の「まつかぜごつこ」とはちがうのだろうか?という疑念もわいてくる。
例えば、〈快速はあわれなりけり蕎麦の花〉・・ 快速電車にのっている時窓外があっというまに移って行くあの快感とあっけなさを「あわれ」と言いとめる、めすらしく日常感が覗いているが、この感受性も「あわれ」のことばの範疇に生きている。「まつかぜごつこ」は、これと表裏一体である。音とその気配への感受性。実在そのものが消えかかっている時空のしかも時間の経過である。「まつかぜ」が病むことはないはずなのに。
また、「まつかぜごつこ」は、つぎのような句とともに、音符のようなひらがな表記やリフレインのおもしろさが堪能できる。
ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん『絵本の空』
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど『にもつは絵馬』
たとえば一位の木のいちいとは風に揺られる『春日朝歌』
きつねこころをまつさかさまにしてうらら 『同』
迷子ながれてこの江のなみとなりにけり 『軽のやまめ』
ほんとうにやまめかるくてかくれてくに 『同』
でてくる実体の重量が軽い。それは句が軽佻浮薄であることとはちがう、むしろ、虚の或いは気配というもののたしかな存在感に実在の纏麺をあつけてしまった。これらの句とともに、「まつかぜごつこ」は速度と音のあそぶすがたなのだ、ともいえる。
感覚が、現実をはなれてゆくことについて、当時の「前衛」俳人は危惧を感じたであろうが、言葉というものはつねに実感を裏切るもの。経験の隘路を抜けだそうとするのである。さて、私たちには向後、きのうきようではなく、みらいえいごうどんな経験とどんな無心な遊びが約束されているのだろうか?(2009年 3月 5日 )
掲句は『春日朝歌』(1978)収録『阿部完市句集』(平成15年。文學の森刊)には厳選三百句の内。
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〔阿部完市の一句〕小野裕三
〔阿部完市の一句〕どこにいても陸橋にいても難解
小野裕三
初めてお会いした時に、「ああこの人が○○さんか……」という感慨を抱いた俳人は何人かいる。阿部完市さんは僕にとってそのような俳人の一人だった。正直に告白すると、初対面で一番「ときめいた」のは阿部さんだったかも知れない。ときめいたというとなんだか妙な風に聞こえるかもしれないが、僕が俳句を始めた時、その作風がもっとも魅力的に見えた同時代を生きる俳人が彼だった。
阿部さんのような俳句が世の中に存在することすらも知らずに俳句を始めた僕は、やがていろんな句集などを手にするうちに阿部さんの句に出会った。こんな俳句があるのか、というのが当時の僕には新鮮な衝撃だったのだ。
初めて阿部さんご本人にお会いしたのはおそらく八年ほど前。僕の所属する「海程」の全国大会が東京で開催され、その際に現れた一人の落ち着いた紳士が阿部さんだった。大した会話ができた記憶もない。こちらも緊張していた。その後も残念ながらあまりお話する機会もなかった。機会をいただいて、『現代の俳人101』(新書館)という本の中で阿部完市さんについての解説を担当したこともある。それをご本人がどう思われたのか気になっていたのだが、ついにその感想を聞くことはできなかった。結局のところ、一種の片思いみたいなものだったのかも知れない。
『海程』誌では「共鳴二十句」というコーナーがあって、阿部さんもその選者を務められていたが、僕の句がそこに取り上げられることもなかった。ただ、一度だけ、僕の句が載っていたことがある。
バス降りて簡単な滝ありにけり 小野裕三
正統派の句と言える。有季定型で客観写生でもある。だが、この句を阿部さんが取ってくれたことは僕にとってどこか納得のできることだった。客観写生の向こうに何か不思議な世界が見えてくるような、前衛だとか伝統だとかそんな垣根が意味をなくしてしまうような、そんな句を作りたいと思い始めた僕にとって、この句はまさにそんな方向の取っ掛かりであった。そして、その句を阿部さんが取ってくれたことは嬉しかった。片思いも、ほんの少しだが脈が通じたのかも知れない。
当然ながら阿部さんの句には、好きな句が多い。それを挙げだすときりがないので、ここでは『海程』誌で発表された最近の句から引く。
どこにいても陸橋にいても難解 阿部完市
阿部さんの俳句は、最後までこの調子だった。難解の場所から一歩も動かず、難解の場所を追究し続けた。俳人によっては、生涯の中で作風を変える人もいる。どちらがいいとか悪いとかいう話でもない。ただ、阿部さんはいつまで経ってもやっぱり阿部さんだった。その一貫性を、なぜか嬉しく思う。
いずれにせよ、自分の憧れた偉大な先輩がまた一人逝ってしまった。心よりご冥福をお祈りしたい。
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〔阿部完市の一句〕関 悦史
〔阿部完市の一句〕 うすみどりの手足の大工の名 言え
関 悦史
『阿部完市俳句集成』を出鱈目に開いたらたまたまこの句が出てきたのでこれを読む。
手足だけがうすみどりになっている大工というこの奇怪な人物は宇宙生物であるわけではなく、また己が扱う木材・木との相互浸透の結果こうなったのでもなく、そういう由来や原因といったものが持ち込む物語性とは無縁にただ単にそういう存在であって、このうすみどりというのが絵の具のような不透明な厚みを持ったそれではなく、物質としてどれだけ確たる存在なのか怪しい、向こうが透けて見えるような半透明の頼りないうすみどりのようにも思われるのは、阿部完市を特徴づける色といえば何よりもまず、事象と情動との有機的連関を経たれ、非物質的な放散性を持ちながらも聖性とは何ら関わることのない解離としての「白」だからであって、この場合の「うすみどり」もそれにかなり近く、「人生が薔薇色」になったり「この世が真っ暗」に見えたりするならばともかく「人生がうすみどりになった」などと言われた場合どう応接してよいのか判断に苦しむことにもなって、そうした情調の定位や世界解釈・世界への意味づけといったベクトルをおよそ拒否したものと見え、このような頼りない存在感しか持たない四肢を持った大工が普通に直立できるようには到底思えず、この妙に希薄な手足を曖昧に空間にふやけさせたまま寝転んでいるのか、あるいは重力を無視してふわふわと移動できたりもするのかもしれないのだが、この奇妙な身体的特徴と職業名という属性のみによって提示された大工の名を言うという行為がいかなることであるのか、名を言い当てられたら死ぬ怪物というのもどこかにいたような気がするがそういう類とは見えないし、平安時代頃の習俗のように本名を知ることによって呪詛の対象にできたり、あるいは家族なり恋人なりといった関係を取り結べるといったことでもなさそうで、別にそんな関係にはなりたくもないのだが、「言え」という命令形によって否応なしにわれわれはこの句の中にに巻き込まれてしまい、小説を例にとればその多くは一人称かまたは三人称の安定性の中で語られるものなのだがあえて二人称や無人称を用いて特有の浮遊感を読み手に味わわせる作品もあり、前者ではビュトールの『心変わり』や多和田葉子の『アメリカ—非道の大陸』、後者では古井由吉の『山躁賦』、田久保英夫の『海図』といった実例があって、これらは皆私の偏愛するところなのだが、それらにも似た軽い酩酊感を来たしつつ、強いてこの大工の名を口にするならば、考えられる答えの一つは「これは大工ではない」という名であると思われ、というのはマグリットが例の名高い『これはパイプではない』というタブローにおいて、曖昧に宙に浮いたパイプ以外の何ものにも見えないイメージと同一の画面内に「これはパイプではない」という文字列を描き込んでしまい、云われてみればこれは確かに画餅ならぬ絵に描いたパイプなのだからパイプではないことには間違いはないのだが、イメージを提示することがそのまま「これはパイプである」という擬似自同律的な言説として機能してしまうことを改めて意識させながらも、その画面内にはやはりどう見てもパイプとしか見えぬものが描かれているという循環と似たような効果をイメージと文字との並列・役割分担においてではなく、言葉同士の組織の仕方だけで成就させているのが阿部完市の俳句だからで、具体的には木にのぼった程度のことであざやかに見えてしまう「アフリカ」とか、全天が窓になっている「さんくとぺてるぶるぐ」などといったものが「パイプ」にあたり、ありえない状況・関係に投げ込まれてしまうことでこの「アフリカ」や「さんくとぺてるぶるぐ」が現実の世界に指向対象を持つものではなくなってしまい、さらにその奇怪なありかたは何らかの真意や解釈といったものを裏に秘めた象徴や隠喩といった詩的権能からもかぎりなく遠ざけられているので、ここまでくると阿部完市の句の奇怪なイメージは、シュルレアリスティックなイメージを提示すること自体が目的というよりも、言葉から現実の指向対象や詩的意味作用をぞっくりと引き算することによって、言葉それ自体にひとつの現実と云えるような別種の強度を担わせることが本意なのではないかと思え、この巨大な引き算によって句は現実世界の持続性から身を離し、永遠性、それはこの場合不可視の言語体系たるラングとほぼ同義となるものなのかもしれないのだが、その誰にも到達できないがゆえに誰にとっても限りなく懐かしい永遠性への架橋を果たしてしまっており、幼いころの記憶などの中には、自分が本当に身をもって見聞きしたものなのか、それとも人から何度も話を聞きながら想像しているうちにそのイメージが固着し、“記憶”と成り果ててしまったものかしかとは定めがたいイメージの一つや二つは誰でも持っているものだろうが、阿部完市の句は通常の意味作用を脱落させることによってそうした領域にいかにも親密にそっと忍び入ってくるので、かくして今、阿部完市の句をめぐって如上の想念をめぐらせながら数十分の時を過ごすという経験を経た私にとり、「うすみどりの手足の大工」は懐かしさ以外の何ものでももはやない。
掲句は『春日朝歌』(1976)収録
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