【週俳3月の俳句を読む】
太田うさぎ
奇妙な装置
東風吹かば紙箱入りのティーバッグ 上田信治
作者が注目しているのはティーバッグそのものというより、それが紙箱に入っていることだ。種類別に個別包装のうえ木箱に納まっているようなのではなく、お徳用のイメージの付き纏う紙箱入り。ぺらぺらの箱を開けると紙と名もない紅茶の入り混じった匂いがふおん、と立ちのぼる。まだまだ寒いなかに春の到来を告げる風と、高級でも特別でもないティーバッグのカップリングには、「ふだん」の何気なくちょっといい感じ、がある。「ふだんがいい」なんて、散文で言ってしまえば思い切りベタなところを俳句は上手くすり抜けたりする。俳句ってまったく奇妙な装置。
目つむるといふ待ちやうも梅の花 佐藤文香
梅の咲くころになると空気が光りだす-そのことに気づいたのは俳句を始めてからで、毎年この季節に外を歩くたび、俳句に係わって良かった!と誰にとも何にともなく感謝めいた気分になる。目をつむっても目裏に宿る春の光。目を開けているときよりも梅の香は馥郁と作者を包むことだろう。待つという行為はこんなにも豊かだったのか。濁音や破裂音を用いず悠揚迫らぬ詠みぶりも巧み。
鳥雲に晩年の飯炊き上る 大牧広
晩ご飯ではなく、晩年の飯である。晩年といえばその次に来ることを連想するところに持って来て「鳥雲に」だからかなり遣る瀬無いのだが、ふっくら炊き上がったご飯が「今ここに在ること」を確かでゆるぎないものにしている。炊飯の湯気は高みを帰っていく鳥への何かの合図なのかもしれない。
たよられていまがいちばん葱坊主 横須賀洋子
頼られて晴れがましいのか、ちょっとしんどいのか、分からない。「たよられて/いまがいちばん葱坊主」と読んだのだが、「たよられていまがいちばん/葱坊主」なのかも?頼りない読みで申し訳ないけれど、こういう句は余り意味を追わずに葱坊主のユーモアを楽しめればそれでいいのかと納得している。それに、ここ数日ふと気づくと「たよられて・・・」と頭の中で呟いているし。
若草や壷割るやうに名を告げし 中村安伸
「お前は”竹を割ったような”じゃなくて、”竹を割るような”性格だな。」と言われた昔を思い出してつい笑ってしまった。こなれた人づきあいが得意でなく、名前ひとつ名のるにも大上段に構えた刀を一気に振り下ろすような様に違いない。「壷割るように」とは良く思いついたものだ。名を告げた人、告げられた人双方の表情が目に浮かぶ。若草が光景を微笑ましいものに仕立て上げている。枯草だったら決闘シーンになってしまうものね。
二三人跨ぎし線路かぎろへる 陽美保子
レールというものはどうしてあんなに陽炎が立つのだろう。線路は光りつつぶれ出し、歩行者の姿はゆらゆらとくっついたり離れたりして人数も覚束ない。縦横どちらのベクトルもゆらいで幻のような景色が出現する。シンプルな仕立てでもって陽炎をリアルに捉えているところに感心した。
蝶の口しづかに午後を吸ひにけり 山根真矢
美しい句だ。じっと息をひそめて見つめていないとこういう俳句は出来ないと思う。か細い足を花にかけ一心に蜜を吸う蝶とほとんど一体化するほどになって始めて「午後を吸う」というレトリックが生まれたのではないかと想像する。何も言っていないのに明るい光が見えてくるのは何故なんだろう。
椅子持つて紋白蝶についてゆく 小倉喜郎
蝶という言葉がそもそも光のイメージを内包しているのだろうか。この句からも麗らかな日差しを感じる。「椅子持って」のさり気なさが良い。持ち重りしない折り畳み椅子なんぞを提げて歩く作者の少し先を無頓着に飛んでいる紋白蝶。読み返すうちに紋白蝶が気まぐれなガールフレンドのようにも思えてくる。軽やかで楽しい気分が乗り移って、散歩心を誘う句。
■ハイクマ歳時記 佐藤文香・上田信治 →読む■大牧 広 「鳥 雲 に」10句 →読む■横須賀洋子「佐保姫」10句 →読む■中村安伸 「ふらここは」10句 →読む■陽 美保子 「谷地坊主」10句 →読む■山根真矢 「ぱ」10句 →読む■小倉喜郎 「図書館へ」10句 →読む
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