【俳誌を読む】
『俳句』2008年7月号を読む……猫髭
先ず、巻末の新刊サロン。句集案内は代表作が一句は載っているから、その一句で買いかどうかを見切る。今月号の絶対買い!は、木田千女句集『お閻魔』。
次の世は蝿かもしれぬ蝿を打つ 木田千女
「喜寿のこととんと忘れて毛皮買ふ」という句も見えるから、とてもハイカラな人だと思う。ハイカラさんには目が無いので、これは即買い。
小谷ゆきをの『海鼠』も面白そう。
古事記以来怠け続けて海鼠たり 小谷ゆきを
第一句集が『麦藁蛸』、第二句集が『尾花蛸』というから、単に言葉遊びではない不思議な味わいの作品に出会えそう。
秋山巳之流『花西行』(ふらんす堂)。これは既に買って読んでいた。茨木和生の名句集『椣原』(文學の森社)の序と後書で、二人の古風な友情に惹かれ、時雨舎も早くから宣伝していたので、近所の本屋に頼んでいたのだ。無口だが言うべきことは聞こえてくる渋い句集だった。
秋時雨楽しきときも希にあり 秋山巳之流
遺稿集の挙句としては、苦みばしった遺影がちょっと微笑んだような句である。
はてな?と思ったのは、伊藤通明『荒神』。代表句が、
白桃を啜るによよといふ容 伊藤通明
伊藤通明は「白桃」の主宰だが、
白桃をよよとすゝれば山青き 富安風生
への挨拶句なのだろうか、これは。
今月の「合評鼎談」でも触れられている、
雨止んで鶯餅は売り切れに 伊藤伊那男
は、明らかに富安風生の、
街の雨鶯餅がもう出たか 富安風生
への対句的な挨拶句だと即座にわかるが、これは奥さんを亡くした作者の、
妻と会ふためのまなぶた日向ぼこ 伊藤伊那男
からの暗から明への意図的な転調として許容できる。対して、伊藤通明の一句は、代表作として宣伝の冒頭に置くのにはふさわしくない気がした。オリジナリティが問われないからである。
もうひとつ?と思ったのは、吉年虹二句集『狐火』。この句集名は、
狐火を信じ唯物論信じ 吉年虹二(平18作)
から来ている。これは明らかに、
狐火を信じ男を信ぜざる 富安風生
を本歌取りしている。
期せずして富安風生を想起する句が並んだが、吉年虹二も「分身の酸素ボンベと薔薇に立つ」(平19作)という近作を入れているので、死に接すると富安風生の句を俳人たちは思い浮かべるのかもしれないとはいえ、やはり句集は自分のオリジナリティを掲出句として揚げるのが筋ではないかと思われる。
風生と死の話して涼しさよ 高濱虚子
という有名な句があるから、死に触れると風生の作品に遊びたくなる気持はわからんでもないが。
「俳壇ニュース」に立ち寄る。ここのカットは毎回楽しみ。猫の写真が載るのである。今月はMATSUKO(3歳)、美女である。このコーナーには最後に類想類句の取り消し記事があるが、今月は最優秀賞に入選した一句、
ひぐらしの声のなかなる光堂
が取り消されている。久保しづくの先行句、
蜩のこゑの中なる光堂 久保しづく
があったためである。正岡子規の『松蘿玉液』には、暗合剽窃、不明瞭なる記憶、類似について古句を引いて論じていて面白いのだが、上の事例はその表記の偶然とは言えない置き換えから見て、剽窃に近い。
詩や絵画や音楽や映画では、昔からパスティーシュ(著者註1)やコラージュ(著者註2)やパロディ(著者註3)の技法は広く使われており、特に先人へのオマージュ(敬意)溢れた作品は、鑑賞する際の楽しみですらあるので、俳壇が世間知らずなだけなのかも知らないが、俳句は自分の体を通した今を詠む「当意即妙」の芸であるという自覚が足りないだけとも言える。
谷宗牧が『当風連歌秘事』で述べた、「発句はその場の景色の選び様、座中の体、庭前の有様、色々様々の景気があるので、前もって作り置くものではない。ただ当意即妙を本とすべきではないか」という言葉は、俳句にも生きていると思われる。
さて、巻頭に戻る。
「結社歳時記」は「湾」特集。ここでも、
何故なぜのきりもなき子や雲の峰 米原淑子
という句を見て、
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや 中村汀女
をすぐ思い出した。この「ホトトギス」巻頭を飾った有名な句の眼目は「きりもなや」である。主宰たるもの、この汀女の句を示して、「きりもなき子や」と「きりもなや」との切れの違いを説いて、弟子のもっとその人らしい句に差し替えるのが主宰の見識だと思う。
目玉の「女性が担う俳句の未来」のコーナー。
宇多喜代子が校長先生、西村和子が教頭先生、津川絵里子が学年主任、高柳克弘が研修生といった感じ。
自分の年齢を三で割ると人生時間になるのだが、高柳克弘は28歳なので、まだ朝の9時台、サラリーマンだったら会社始まったばっか。片や人生時間は0時を過ぎてシンデレラにはもう戻れない、酸いも甘いも噛み分けた小手先の技など歯牙にもかけないスピリチュアルなベテランを筆頭に貫禄十分だから、まだテクニックに走りたがる青年が技術論並べても歯が立つわけはない。
いつの間にがらりと涼しチョコレート 星野立子
この素晴らしい御馳走句を前にして、高柳は「究極の技巧家」という観点から、分析的に読み解き、温度に敏感なチョコレートの本意と、作者の涼しいと感じた実感とが、構造的に下五に「チョコレート」がぽんと置かれた事で、はからいのない日常性を感じさせてくれる、といった調子で読み進める。ああ、鬱陶しい。
津川絵里子のように、「いつも九月になったらその句を思い出すのです。本当にチョコレートが食べたくなる季節だな」と、どうして句をおいしくいただけないのだろう。ゴタク並べてないで食えよ、高柳君。
星野立子と高野素十の二人は、希に見る天性の俳人なのかもしれない。
(著者註1)パスティーシュ [(フランス) pastiche]
音楽・美術・文学で、先行作品の主題やスタイルを模倣・剽窃・混成などの手法によって改変してできた作品。
(著者註2)コラージュ [(フランス) collage]
〔糊(のり)付けの意〕新聞・布片・針金など絵の具以外のものを様々に組み合わせて画面に貼りつけ、特殊な効果を出す現代絵画の一技法。写真に応用したものはフォト-コラージュという。
(著者註3)パロディー [parody]
既成の著名な作品また他人の文体・韻律などの特色を一見してわかるように残したまま、全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように作り変えた文学作品。日本の本歌取り・狂歌・替え歌などもその例。演劇・音楽・美術にも同様のことが見られる。
※『俳句』2008年7月号は、こちらでお買い求めいただけます。 →仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
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次の世は蝿かもしれぬ蝿を打つ 木田千女
「喜寿のこととんと忘れて毛皮買ふ」という句も見えるから、とてもハイカラな人だと思う。ハイカラさんには目が無いので、これは即買い。
小谷ゆきをの『海鼠』も面白そう。
古事記以来怠け続けて海鼠たり 小谷ゆきを
第一句集が『麦藁蛸』、第二句集が『尾花蛸』というから、単に言葉遊びではない不思議な味わいの作品に出会えそう。
秋山巳之流『花西行』(ふらんす堂)。これは既に買って読んでいた。茨木和生の名句集『椣原』(文學の森社)の序と後書で、二人の古風な友情に惹かれ、時雨舎も早くから宣伝していたので、近所の本屋に頼んでいたのだ。無口だが言うべきことは聞こえてくる渋い句集だった。
秋時雨楽しきときも希にあり 秋山巳之流
遺稿集の挙句としては、苦みばしった遺影がちょっと微笑んだような句である。
はてな?と思ったのは、伊藤通明『荒神』。代表句が、
白桃を啜るによよといふ容 伊藤通明
伊藤通明は「白桃」の主宰だが、
白桃をよよとすゝれば山青き 富安風生
への挨拶句なのだろうか、これは。
今月の「合評鼎談」でも触れられている、
雨止んで鶯餅は売り切れに 伊藤伊那男
は、明らかに富安風生の、
街の雨鶯餅がもう出たか 富安風生
への対句的な挨拶句だと即座にわかるが、これは奥さんを亡くした作者の、
妻と会ふためのまなぶた日向ぼこ 伊藤伊那男
からの暗から明への意図的な転調として許容できる。対して、伊藤通明の一句は、代表作として宣伝の冒頭に置くのにはふさわしくない気がした。オリジナリティが問われないからである。
もうひとつ?と思ったのは、吉年虹二句集『狐火』。この句集名は、
狐火を信じ唯物論信じ 吉年虹二(平18作)
から来ている。これは明らかに、
狐火を信じ男を信ぜざる 富安風生
を本歌取りしている。
期せずして富安風生を想起する句が並んだが、吉年虹二も「分身の酸素ボンベと薔薇に立つ」(平19作)という近作を入れているので、死に接すると富安風生の句を俳人たちは思い浮かべるのかもしれないとはいえ、やはり句集は自分のオリジナリティを掲出句として揚げるのが筋ではないかと思われる。
風生と死の話して涼しさよ 高濱虚子
という有名な句があるから、死に触れると風生の作品に遊びたくなる気持はわからんでもないが。
「俳壇ニュース」に立ち寄る。ここのカットは毎回楽しみ。猫の写真が載るのである。今月はMATSUKO(3歳)、美女である。このコーナーには最後に類想類句の取り消し記事があるが、今月は最優秀賞に入選した一句、
ひぐらしの声のなかなる光堂
が取り消されている。久保しづくの先行句、
蜩のこゑの中なる光堂 久保しづく
があったためである。正岡子規の『松蘿玉液』には、暗合剽窃、不明瞭なる記憶、類似について古句を引いて論じていて面白いのだが、上の事例はその表記の偶然とは言えない置き換えから見て、剽窃に近い。
詩や絵画や音楽や映画では、昔からパスティーシュ(著者註1)やコラージュ(著者註2)やパロディ(著者註3)の技法は広く使われており、特に先人へのオマージュ(敬意)溢れた作品は、鑑賞する際の楽しみですらあるので、俳壇が世間知らずなだけなのかも知らないが、俳句は自分の体を通した今を詠む「当意即妙」の芸であるという自覚が足りないだけとも言える。
谷宗牧が『当風連歌秘事』で述べた、「発句はその場の景色の選び様、座中の体、庭前の有様、色々様々の景気があるので、前もって作り置くものではない。ただ当意即妙を本とすべきではないか」という言葉は、俳句にも生きていると思われる。
さて、巻頭に戻る。
「結社歳時記」は「湾」特集。ここでも、
何故なぜのきりもなき子や雲の峰 米原淑子
という句を見て、
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや 中村汀女
をすぐ思い出した。この「ホトトギス」巻頭を飾った有名な句の眼目は「きりもなや」である。主宰たるもの、この汀女の句を示して、「きりもなき子や」と「きりもなや」との切れの違いを説いて、弟子のもっとその人らしい句に差し替えるのが主宰の見識だと思う。
目玉の「女性が担う俳句の未来」のコーナー。
宇多喜代子が校長先生、西村和子が教頭先生、津川絵里子が学年主任、高柳克弘が研修生といった感じ。
自分の年齢を三で割ると人生時間になるのだが、高柳克弘は28歳なので、まだ朝の9時台、サラリーマンだったら会社始まったばっか。片や人生時間は0時を過ぎてシンデレラにはもう戻れない、酸いも甘いも噛み分けた小手先の技など歯牙にもかけないスピリチュアルなベテランを筆頭に貫禄十分だから、まだテクニックに走りたがる青年が技術論並べても歯が立つわけはない。
いつの間にがらりと涼しチョコレート 星野立子
この素晴らしい御馳走句を前にして、高柳は「究極の技巧家」という観点から、分析的に読み解き、温度に敏感なチョコレートの本意と、作者の涼しいと感じた実感とが、構造的に下五に「チョコレート」がぽんと置かれた事で、はからいのない日常性を感じさせてくれる、といった調子で読み進める。ああ、鬱陶しい。
津川絵里子のように、「いつも九月になったらその句を思い出すのです。本当にチョコレートが食べたくなる季節だな」と、どうして句をおいしくいただけないのだろう。ゴタク並べてないで食えよ、高柳君。
星野立子と高野素十の二人は、希に見る天性の俳人なのかもしれない。
(著者註1)パスティーシュ [(フランス) pastiche]
音楽・美術・文学で、先行作品の主題やスタイルを模倣・剽窃・混成などの手法によって改変してできた作品。
(著者註2)コラージュ [(フランス) collage]
〔糊(のり)付けの意〕新聞・布片・針金など絵の具以外のものを様々に組み合わせて画面に貼りつけ、特殊な効果を出す現代絵画の一技法。写真に応用したものはフォト-コラージュという。
(著者註3)パロディー [parody]
既成の著名な作品また他人の文体・韻律などの特色を一見してわかるように残したまま、全く違った内容を表現して、風刺・滑稽を感じさせるように作り変えた文学作品。日本の本歌取り・狂歌・替え歌などもその例。演劇・音楽・美術にも同様のことが見られる。
※『俳句』2008年7月号は、こちらでお買い求めいただけます。 →仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
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4 comments:
>高柳克弘は28歳なので、まだ朝の9時台
実年齢が、この種のことに、何か関係するとでも?
詳しくはブログ記事にしました。
http://tenki00.exblog.jp/8227273/
依頼主である編集者が真っ先に執筆者に文句をつけることに違和感を持ちました。こういうことは掲載する前に編集者が執筆者に問いただすべきことかと思います。いちど掲載されたら、編集者は執筆者の立場を擁護するものではないのでしょうか。
議論の是非はともかく、天気さんの発言に疑問を感じます。特に「何か関係するとでも?」という切り口上の言い方に。こういう発言は掲載前に執筆者と個人的に取り交わすのが普通では?眠草
眠草さん、こんばんは。
おっしゃるとおりかもしれませんね。
原稿依頼した私と、記事に異論を唱える私とは、それぞれ別、と考えているのですが、それはあまり通用しないかもしれません。
自重いたします。
●
ただ、自分と見方や意見が異なる原稿があったとして、掲載前に執筆者とそのことについて言葉をかわすことはありません。ひとつの見解として貴重な記事となります。掲載させていただき、そのあと、私個人として異論を唱えることはあります。今回の場合、(上にも書いた)ブログ「俳句的日常」に載せた「実年齢って問題になるんでしょうか? こういう場合」という記事が、それにあたります。
それで、なんですが、この私の異論に、さっそく猫髭さんが反応してくれました。異論への反論、といったところでしょうか。「あかるい俳句」(7月8日号)に掲載します。あと1時間半ほどでしょうか、24時を過ぎた頃、リリースです。
「あかるい俳句」は「週刊俳句」のトップページ右のバー「equipments」にもリンクがあります。URLは http://hw02.blogspot.com/ です。
こちらも是非お読みください。
天気さん、懇切なコメントをどうもありがとうございました。いろいろ納得できました。
ところで、口を開いてしまったついでに、げすの勘繰りと言われてしまいそうですが、もう一つ思ったことを吐露します。
『俳句』7月号の例の企画の顔ぶれを見たとき、即座に嫌悪感をおぼえました。『俳句』の編集部に対して。中高年の女性3名と若いイケメンの取合せ。それだけで、もう読者が喜ぶだろうと高をくくった低俗な企画の意図がみえみえで、読者を見くびっているなあと感じたのです。高柳さんをはじめ、参加者の皆さんはそれぞれに意義ある発言をしていました。でも、私が編集者なら、こんな恥ずかしい企画はしないで、4人とも女性にしただろうと思います。
ホストクラブのホストを囲む中高年のおばさんたち、という図式をいやおうなく連想させるこの企画は、読者よりもむしろ、企画の参加者である宇多さん、西村さん、津川さん、高柳さんに対して、非常に非礼なものだと思いました。眠草
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