【俳誌を読む】
『俳句αあるふぁ』創刊100記念特別号を読む
猫髭
この秋に近所の本屋さんが主の病で店を閉めるまで、五年間総合俳句誌を購読していた。『俳句』『俳句研究』『俳句αあるふぁ』が定期で、『NHK俳句』『俳壇』『俳句界』『俳句朝日』『俳句四季』などを折りに触れて。
大きな本屋へ行っても置いてある数が少ないので、定期購読していない限り、これらの俳句総合誌を見つけて買い続けるのは難しく、出版社まで電話してバックナンバーを揃えるのは億劫なので、今は『俳句αあるふぁ』だけを買っている。
俳句を始めるに際して、信頼に足る目を持つ人物と言うと、わたくしは横山きっこさんしか知らなかったから、彼女が『俳句αあるふぁ』が初心者向きでいいんじゃないかしらと薦めてくれたので、2004年の2・3月号を先ず買った。「山頭火の転機」という特集号だったが、詩人として敬愛していた加藤郁乎も特集されていて、俳人としても有名な事を知り、そう言えば「雨季来たりなむ斧一振りの再会」とか「冬の波冬の波止場に来て返す」とか「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」とかいくつか暗誦していたものは詩ではなく俳句だったかと気づく奥手で、次号から「知られざる俳人ノオト」を連載するというので、欣喜雀躍として本屋へ走り、愛読して今日に至っている。
雑誌もまた顔を持っており、企画はまさしくその目玉であり、雑誌の特色を際立たせる絵であるとすれば、その絵を浮き立たせるものは背景としての連載である。『俳句αあるふぁ』には加藤郁乎の「知られざる俳人ノオト」、巻頭の「カラー歳時記」(一日一句毎年「動物」「気象」「食」「ふるさと」「山河」と変わるが、選句が抜群なうえに写真もカラフルで楽しい)、吉行和子のエッセイ「最初はグー」、著名俳人が選ぶ「我が愛する俳句50句」など、毎号楽しみに読む連載が多かった。企画も一人の俳人を集中特集し、「芝不器男処女句集完全収録」などはこんな天才俳人がいたのかと目から鱗だった。
『俳句αあるふぁ』だけでなく、『俳句』には宇多喜代子の「古季語と遊ぶ」、復本一郎「俳句を変えた男 日野草城」、田辺聖子「残花亭日暦」、池田澄子「あさがや草紙」、『俳句研究』には出久根達郎「一句萬象」、小林恭二「恭二歳時記」、本宮哲郎「田んぼの一年」、『俳句界』には坂口昌弘「ライバル俳句史」、『俳句朝日』には日下徳一「子規もう一つの顔」、『NHK俳句』には茨木和生「暮らしと季語」など、毎号続きを読むのが楽しみになる、身銭を切っただけの報酬を得たような連載があった。
あったと過去形にせざるを得ないのは、ほとんどが連載を終えるか、雑誌が終刊したことによって打ち切られてしまったからである。多くは本になるか、多分なるだろうと思われる魅力的な連載だったが、本宮哲郎の「田んぼの一年」だけは地味なので一本になるかどうか、歳時記は農暦の影響が大きいが、この「田んぼの一年」こそ稲にまつわる農作業を通した得難い現代の農暦で、少なくともこの連載を全うしてから潰れて欲しかったと思う(季刊になって復刊した「俳句研究」には無かったので落胆した)。
さて、『俳句αあるふぁ』創刊100号記念特別号だが、大特集が48ページにわたる「松尾芭蕉の全貌」である。
芭蕉蕪村一茶子規虚子もういいよ 猫髭
無季ですけど、つい中村十朗調で詠んでしまいました。
怖い人みんな逝きたる年忘 亀田虎童子
という句もある。もう死体はいい。生きてる奴の話をしようではないか皆の衆、お通夜じゃねえんだから。
今は平成二十年だ。十年一昔として二昔も平成に入ってから経っている。何でいまさら三百年以上前に戻るのよ。しかも、芭蕉は俳句ではなく俳諧だよ。いつから『俳諧αあるふぁ』になったんだ。俳諧やるんだったら平成俳諧特集とか、いまでもそこら中で俳諧巻いてる俳人は、「紫薇」の澁谷道はじめ、「週俳」のさいばら天気まで一杯いるんだから、「現代歌仙の面白さ」といった特集組めばいいじゃねえか。『ユリイカ』は詩が専門の癖に、一時期、安東次男・石川淳・大岡信・丸谷才一といった面子で歌仙の特集号を自筆入りで毎年出していた遊び心があった。しかし、これは旦那芸で、渋過ぎる。もっとライト・ヴァースな感覚の現代的歌仙が出てもいいと思うのだ。四童さんのやったビートルズ歌仙なんて面白かった。
ほんとに売る気があんのかよという怠惰な編集ぶりであるよ。「いま歌仙が面白い」って特集組んで、現代的に式目の縛りを緩くして遊べば、あれは酒呑みながら物食いながらわいわいがやがややる楽しみがあるんだから、炬燵囲んで蜜柑の一箱でも置いて、ちまちまやるのが時節柄適している室内遊びの極致でもある。
いまどきの若いもんは、コンビニでそれぞれ買ってきたものをダチの家でだらだら駄弁るのが流行りってもんじゃねえか。そこへ、膝送りの歌仙巻くのなんぞ、なかなかオツなもんでございますよ。ケイタイ歌仙なんてのもイケルかも、
くれえのことやれよ。
啖呵切るのはこれくらいにして。
芭蕉が死んだのは元禄七年の十月十二日だから、新暦だと立冬を過ぎると盛大に時雨忌が詠まれるが、さて、それらの俳人が、せめて『芭蕉俳句集』『芭蕉七部集』『芭蕉紀行文集』『おくのほそ道』の岩波文庫だけでも読んで、自分なりの芭蕉像を結んで時雨忌を偲んで詠んでいるかというと、わたくしは居ないと思う。ここに挙げた本を全部読んだ本人が言っているのだから間違いない。文庫は安いけど逐語訳が付いていないから背景もわからないし、ほとんど判じ文の世界だったからである。しょうが無いから、岩波書店や小学館や新潮社の古典文学大系や露伴先生や安次さんや角川書店の『校本芭蕉全集』を古本屋で集めて読んで、やっと何言ってるのかわかったほどだ。
芭蕉を読まずとも時雨忌は詠めるというほど俳句は甘いものではないから、こういう「松尾芭蕉四季・季語別全句集」付の特集があってもいいと思うが、古句になじみのない読者にただ全句羅列しても馬耳東風であり、こんな仕分けして、人の仕事を切り貼りしただけのやっつけ仕事を「松尾芭蕉の全貌」と大見得を切るのは、恥を知らないとも思う。
全句を理解するには、袖珍版の堀信夫の『芭蕉全句』(小学館)が安くて手軽で分かりやすくて一番のお勧め。紀行文は、角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシック『おくのほそみち』がとてもわかりやすい。蕉門を知りたければ、岩波文庫の柴田宵曲の名著『蕉門の人々』を読んで、興味のある人は『蕉門名家句選』(上下二巻だが、全句解説付)を読み、古句にもっと親しみたい人は宵曲の『古句を観る』(岩波文庫ワイド版)をお薦めする。元禄時代の無名俳人を網羅した俳諧随筆で、古句の楽しみを一冊で味わえる名著である。
芭蕉の俳論に興味ある人は、小学館の日本古典文学全集88の『俳論集・連歌論集・能楽論集』が全編その道の髄を集めた論集で、注釈や訳文も素晴らしい。俳論は「去来抄」と「三冊子」を収めるが、けだし俳諧のバイブルだろう。
さて、特集はもうひとつあり、100号記念座談会「歳時記の季語は、これからどうなっていくのか?」というもので、有島朗人・稲畑汀子・金子兜太という俳壇のゴールド・シート、枯淡の境地にはほど遠いエネルギッシュな重鎮による鼎談で、司会が石寒太だから、足すと三百歳を優に越すカルテットである。以前、歳は関係ない、要は中身だという話で天気さんと論争したが、今回の面子で論争はさすがに腰が引けるので、無難な所でまとめておくと、結論は「いい作品が詠めればあとは(有季・無季、文語・口語、新旧仮名遣いなど)自然に任せる」で、それを延々16ページにまたがって駄弁っている。
なお、石寒太はこの鼎談で「戦後生まれの若い人たちを中心に、これからの俳壇をリードする百人のリストを選び、今後この百人の作品を中心に特集していく」と述べている。で、「このような若手に、ぜひメッセージを送ってほしい」と各重鎮がどうでもいい訓示を垂れていくわけだが、戦後って昭和二十年(1945年)からだから63歳以下の人たちってことになるが、まあ、戦中派の重鎮は及びでないと目の前で言うのは凄いとしても、戦後生まれが若手と呼ばれる俳壇というのは、十代の新人が跋扈する他の文藝と違い、やはり特異だと思った。
※『俳句αあるふぁ』創刊100号記念特別号は、こちらでお買い求めいただけます。
→仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
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大きな本屋へ行っても置いてある数が少ないので、定期購読していない限り、これらの俳句総合誌を見つけて買い続けるのは難しく、出版社まで電話してバックナンバーを揃えるのは億劫なので、今は『俳句αあるふぁ』だけを買っている。
俳句を始めるに際して、信頼に足る目を持つ人物と言うと、わたくしは横山きっこさんしか知らなかったから、彼女が『俳句αあるふぁ』が初心者向きでいいんじゃないかしらと薦めてくれたので、2004年の2・3月号を先ず買った。「山頭火の転機」という特集号だったが、詩人として敬愛していた加藤郁乎も特集されていて、俳人としても有名な事を知り、そう言えば「雨季来たりなむ斧一振りの再会」とか「冬の波冬の波止場に来て返す」とか「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」とかいくつか暗誦していたものは詩ではなく俳句だったかと気づく奥手で、次号から「知られざる俳人ノオト」を連載するというので、欣喜雀躍として本屋へ走り、愛読して今日に至っている。
雑誌もまた顔を持っており、企画はまさしくその目玉であり、雑誌の特色を際立たせる絵であるとすれば、その絵を浮き立たせるものは背景としての連載である。『俳句αあるふぁ』には加藤郁乎の「知られざる俳人ノオト」、巻頭の「カラー歳時記」(一日一句毎年「動物」「気象」「食」「ふるさと」「山河」と変わるが、選句が抜群なうえに写真もカラフルで楽しい)、吉行和子のエッセイ「最初はグー」、著名俳人が選ぶ「我が愛する俳句50句」など、毎号楽しみに読む連載が多かった。企画も一人の俳人を集中特集し、「芝不器男処女句集完全収録」などはこんな天才俳人がいたのかと目から鱗だった。
『俳句αあるふぁ』だけでなく、『俳句』には宇多喜代子の「古季語と遊ぶ」、復本一郎「俳句を変えた男 日野草城」、田辺聖子「残花亭日暦」、池田澄子「あさがや草紙」、『俳句研究』には出久根達郎「一句萬象」、小林恭二「恭二歳時記」、本宮哲郎「田んぼの一年」、『俳句界』には坂口昌弘「ライバル俳句史」、『俳句朝日』には日下徳一「子規もう一つの顔」、『NHK俳句』には茨木和生「暮らしと季語」など、毎号続きを読むのが楽しみになる、身銭を切っただけの報酬を得たような連載があった。
あったと過去形にせざるを得ないのは、ほとんどが連載を終えるか、雑誌が終刊したことによって打ち切られてしまったからである。多くは本になるか、多分なるだろうと思われる魅力的な連載だったが、本宮哲郎の「田んぼの一年」だけは地味なので一本になるかどうか、歳時記は農暦の影響が大きいが、この「田んぼの一年」こそ稲にまつわる農作業を通した得難い現代の農暦で、少なくともこの連載を全うしてから潰れて欲しかったと思う(季刊になって復刊した「俳句研究」には無かったので落胆した)。
さて、『俳句αあるふぁ』創刊100号記念特別号だが、大特集が48ページにわたる「松尾芭蕉の全貌」である。
芭蕉蕪村一茶子規虚子もういいよ 猫髭
無季ですけど、つい中村十朗調で詠んでしまいました。
怖い人みんな逝きたる年忘 亀田虎童子
という句もある。もう死体はいい。生きてる奴の話をしようではないか皆の衆、お通夜じゃねえんだから。
今は平成二十年だ。十年一昔として二昔も平成に入ってから経っている。何でいまさら三百年以上前に戻るのよ。しかも、芭蕉は俳句ではなく俳諧だよ。いつから『俳諧αあるふぁ』になったんだ。俳諧やるんだったら平成俳諧特集とか、いまでもそこら中で俳諧巻いてる俳人は、「紫薇」の澁谷道はじめ、「週俳」のさいばら天気まで一杯いるんだから、「現代歌仙の面白さ」といった特集組めばいいじゃねえか。『ユリイカ』は詩が専門の癖に、一時期、安東次男・石川淳・大岡信・丸谷才一といった面子で歌仙の特集号を自筆入りで毎年出していた遊び心があった。しかし、これは旦那芸で、渋過ぎる。もっとライト・ヴァースな感覚の現代的歌仙が出てもいいと思うのだ。四童さんのやったビートルズ歌仙なんて面白かった。
ほんとに売る気があんのかよという怠惰な編集ぶりであるよ。「いま歌仙が面白い」って特集組んで、現代的に式目の縛りを緩くして遊べば、あれは酒呑みながら物食いながらわいわいがやがややる楽しみがあるんだから、炬燵囲んで蜜柑の一箱でも置いて、ちまちまやるのが時節柄適している室内遊びの極致でもある。
いまどきの若いもんは、コンビニでそれぞれ買ってきたものをダチの家でだらだら駄弁るのが流行りってもんじゃねえか。そこへ、膝送りの歌仙巻くのなんぞ、なかなかオツなもんでございますよ。ケイタイ歌仙なんてのもイケルかも、
くれえのことやれよ。
啖呵切るのはこれくらいにして。
芭蕉が死んだのは元禄七年の十月十二日だから、新暦だと立冬を過ぎると盛大に時雨忌が詠まれるが、さて、それらの俳人が、せめて『芭蕉俳句集』『芭蕉七部集』『芭蕉紀行文集』『おくのほそ道』の岩波文庫だけでも読んで、自分なりの芭蕉像を結んで時雨忌を偲んで詠んでいるかというと、わたくしは居ないと思う。ここに挙げた本を全部読んだ本人が言っているのだから間違いない。文庫は安いけど逐語訳が付いていないから背景もわからないし、ほとんど判じ文の世界だったからである。しょうが無いから、岩波書店や小学館や新潮社の古典文学大系や露伴先生や安次さんや角川書店の『校本芭蕉全集』を古本屋で集めて読んで、やっと何言ってるのかわかったほどだ。
芭蕉を読まずとも時雨忌は詠めるというほど俳句は甘いものではないから、こういう「松尾芭蕉四季・季語別全句集」付の特集があってもいいと思うが、古句になじみのない読者にただ全句羅列しても馬耳東風であり、こんな仕分けして、人の仕事を切り貼りしただけのやっつけ仕事を「松尾芭蕉の全貌」と大見得を切るのは、恥を知らないとも思う。
全句を理解するには、袖珍版の堀信夫の『芭蕉全句』(小学館)が安くて手軽で分かりやすくて一番のお勧め。紀行文は、角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシック『おくのほそみち』がとてもわかりやすい。蕉門を知りたければ、岩波文庫の柴田宵曲の名著『蕉門の人々』を読んで、興味のある人は『蕉門名家句選』(上下二巻だが、全句解説付)を読み、古句にもっと親しみたい人は宵曲の『古句を観る』(岩波文庫ワイド版)をお薦めする。元禄時代の無名俳人を網羅した俳諧随筆で、古句の楽しみを一冊で味わえる名著である。
芭蕉の俳論に興味ある人は、小学館の日本古典文学全集88の『俳論集・連歌論集・能楽論集』が全編その道の髄を集めた論集で、注釈や訳文も素晴らしい。俳論は「去来抄」と「三冊子」を収めるが、けだし俳諧のバイブルだろう。
さて、特集はもうひとつあり、100号記念座談会「歳時記の季語は、これからどうなっていくのか?」というもので、有島朗人・稲畑汀子・金子兜太という俳壇のゴールド・シート、枯淡の境地にはほど遠いエネルギッシュな重鎮による鼎談で、司会が石寒太だから、足すと三百歳を優に越すカルテットである。以前、歳は関係ない、要は中身だという話で天気さんと論争したが、今回の面子で論争はさすがに腰が引けるので、無難な所でまとめておくと、結論は「いい作品が詠めればあとは(有季・無季、文語・口語、新旧仮名遣いなど)自然に任せる」で、それを延々16ページにまたがって駄弁っている。
なお、石寒太はこの鼎談で「戦後生まれの若い人たちを中心に、これからの俳壇をリードする百人のリストを選び、今後この百人の作品を中心に特集していく」と述べている。で、「このような若手に、ぜひメッセージを送ってほしい」と各重鎮がどうでもいい訓示を垂れていくわけだが、戦後って昭和二十年(1945年)からだから63歳以下の人たちってことになるが、まあ、戦中派の重鎮は及びでないと目の前で言うのは凄いとしても、戦後生まれが若手と呼ばれる俳壇というのは、十代の新人が跋扈する他の文藝と違い、やはり特異だと思った。
※『俳句αあるふぁ』創刊100号記念特別号は、こちらでお買い求めいただけます。
→仮想書店 http://astore.amazon.co.jp/comerainorc0f-22
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3 comments:
猫髭殿
「ライバル俳句史」へのコメントありがとうございます。今まで、挙げ足を取られてばかりでしたので、猫髭さんのように、きちんと読んでいただいてありがたいです。猫髭さんのWeblogは大変面白いです。 坂口
猫髭さんへ
「俳句あるふぁ」の一日一句は創刊からの企画ですよね。
坂口さん、
「ライバル俳句史」とてもスリリングで面白うございました。来春本になるとのこと、楽しみです。
岩淵さん、
調べたら創刊号から「カラー歳時記」連載してますね。あれは石寒太さんが選句してるのかなあ。とても目配りの効いた素晴らしい選句眼です。そうそう、来年の4.5月号は岩淵さんの「俳句の生れる現場」だそうで、楽しみです。平林寺は武蔵野という感じが一番しますね。
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