2009-05-10

10俳句における一物仕立ての定義

いつき組俳句部
俳句における一物仕立ての定義
(3回シリーズ)




その1 問題提起編(2008年5月号より)



結局この俳句は
一物仕立て?
取り合わせ?




 くろがねの秋の風鈴鳴りにけり   飯田蛇笏

この句は「一物仕立て」のお手本として取り上げられることが多い。では、どうしてこの句が「一物仕立て」の代表的な句なのか。その根拠を論理的に納得のゆく形で論じている文献はあまりない。

ならばと2007年6月、いつき組の中で最も俳句に対してストイックな部活、「俳句部」が立ち上がった。
 (まさか一年にも及ぶ!)一大プロジェクトが始まった。

文・いつき組俳句部 部長 津田美音
          &いつき組俳句部


プロローグ

俳句集団いつき組において全うな部であると思われ、敬遠されがちな俳句部。いつもは文法(歴史的仮名遣いの正しい表記)やら俳句の選をするときの基準やら、新しい俳句教材の開発やらと2ヶ月に一回の部活を行ってきた。

そんな2007年の6月、組長から俳句部に提案があった。「これは個人的に以前から気になっていたこと」と前置きをしながら、配られたプリントには「一物仕立ての定義」とある。

「俳句の構造を大きく二つに分けると、『一物仕立て』と『取り合わせ』に分けられる。その違いを、いろいろな方がさまざま場所で論評しているけど、それぞれ違った解釈をしていて、どうもハッキリしない。私自身も、『この句は一物だろうか、それとも取り合わせか』と悩む俳句もある。そこで、いつき組俳句部で一物仕立ての研究をし、普遍的な『俳句における一物仕立ての定義』を作ってみたい」と組長。その言葉に、不安と好奇心の入り交じる部員達。

私が真っ先に思う「一物仕立て」の句に

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 蛇笏

がある。

この句は「一物仕立て」のお手本として取り上げられることが多い。事実、私自身も「一物仕立て」の例題句として子どもの俳句教室でよく使い、なんら疑問をもっていなかった。

しかし、この句が「一物仕立て」であるという根拠を探ると、納得のゆく文献はそうない。また、大手の俳句雑誌でも「取り合わせ」と「一物仕立て」の特集が組まれていたが、総論はともかく、結論は曖昧なまま読者に任された状態であった。だから、この句も「一物仕立て」と私たちが思い込んでいるだけで、論理的に分析をすればまた違った結果が出てくるかもしれない。なら、その分析と結果をこの世にどーんと発表してやろうではないか。


『一物仕立て』と
『取り合わせ』の基本


漠然と分かっているような、分かっていないような「一物仕立て」と「取り合わせ」。部員達が困惑の表情をしている中、「北斎の『富嶽三十六景』を使って考えると分かりやすい」と編集長。


北斎で分かる  
「一物仕立て」と「取り合わせ」
……キム・チャンヒ

「一物仕立て」と「取り合わせ」の俳句の違いを大きく捉えると、「一物仕立て」は「ある一つの事柄のみを詠みこんだ」俳句で、取り合わせは「複数の要素の組み合わせによって作り上げた」俳句と言える。

意外に思われるかも知れないが、「一物仕立て」と「取り合わせ」の概念は、俳句に限らず、あらゆる芸術に於いても当てはまる。その分かりやすい例として、葛飾北斎の「富嶽三十六景」を紹介する。

北斎の代表作、「富嶽三十六景」は富士山を主題とする風景版画。続編を合わせて、全46図からなる作品集である。

この「富嶽三十六景」の面白さは、北斎がどのように主題である富士山を捉えたかということ。その一つ一つの作品を、「一物仕立て」と「取り合わせ」という概念で鑑賞すると、非常に分かりやすい。

まずは「一物仕立て」の代表例、「凱風快晴(赤富士)」。

朝焼けの中に悠然と立つ赤い富士山。この絵は、主題である富士山以外の要素はほとんど無い。背景の鰯雲も、この印象的な赤富士を際だたせるための、補足の役割でしかない。つまり、この絵は、「富士山の一物仕立て」の絵と言える。

実はこの絵は、北斎がどの場所から見た富士山なのか、記録がないものの一つ。それはもしかしたら、北斎が風景としての富士山ではなく、「富士山そのもの」を描こうとしたからかも知れない。

また余談だが、一物仕立てが成功するためには、この絵のように、「誰も見たことのない主題の姿」を、作品に表現しなければならない。仮にこの絵が構図はそのままに、昼間の富士山を描いた物だったら、評価が違っていたに違いない。

次に「取り合わせ」の例、「神奈川沖浪裏」。

画面の全面を覆い尽くすような荒波。この荒波に飲み込まれそうな小舟と舟にしがみつく人達。そして彼らを見守るように、画面の奥に立つ富士山。

この絵と先ほどの「凱風快晴(赤富士)」との違いは、一目瞭然。この絵は、人間を襲う巨大な波と小さな富士山の「取り合わせ」の絵といえる。

次の「江戸本所割下水」も同様、山のような形をした橋と富士山の「取り合わせ」。大胆に描かれた橋の形が面白い。

取り合わせの例として出した、「神奈川沖浪裏」と「江戸本所割下水」は、富士山の姿が描かれていなくても、一枚の絵として成立はする。しかし、その奥に描かれた富士山の姿によって、鑑賞する者は、手前の人々の営みをより深く味わうことが出来る。それは富士山が、「日本で一番高い山」というだけではなく、人間の力の及ぶことのない巨大な自然や神秘、時間を表すシンボル(共通認識)として、しっかりと機能をしているからだ。言い換えると、「富嶽三十六景」における富士山の役割は、俳句における「季語」の役割をしているとも言える。それは、「一物仕立て」の例として挙げた「凱風快晴」も同じ。もしこの山が、名もない山であったなら、鑑賞の仕方も変わってしまうに違いない。

北斎の「富嶽三十六景」に限らず、他の芸術作品においても、主題に対して「一物仕立て」と「取り合わせ」の視点を持って作品の制作・鑑賞をすることは、その作品がどういう仕組みで感動を生んでいるのかを知る手がかりとして、非常に有効である。


『一物仕立ての定義』を
作るとは?


「『一物仕立ての俳句の定義』とは、俳句を『一物仕立て』とそれ以外に分類する仕組みとも言える。ちゃんと定義付けが出来れば、この世の中にある全ての俳句を論理的に『これは一物仕立ての俳句』『これは取り合わせ』という風に、分類する事が出来るはず。逆に定義付けが出来てないと、その句が『一物仕立て』なのか『取り合わせ』なのか分からなくなる」

組長は、そう言いながら先ほど配ったプリントを手にした。プリントには、ずらっと俳句が並んでいる。

「研究のとっかかりの資料として、私が気になる俳句を挙げてみたの」

そこで、部員全員でプリントされた俳句を一句ずつ「取り合わせ」か「一物仕立て」かを検証してゆくことにした。


一物仕立ては
『一句一章』? 『写生句』??


まずは、最初の二句。

しら藤や奈良は久しき宮造り 召波
白藤や揺りやみしかばうすみどり 不器男

早くも異議が飛び交う。

「『一物仕立て』は『一句一章』でないと。これは『白藤や』で切れがあるから『二句一章』のかたち。だから、どちらも『取り合わせ』でしょ」と部員。それに対し
はっきりと反論できない部長の私。

でも、芝不器男のこの句は「藤」のことだけしかいってない「写生句」なんだから「一物仕立て」なんじゃないの?とも。あららそうだよね?。

そこで、組長の救いのお言葉。

「句を検証する際、俳句の形で判断してはダメ! 『一句一章』や『二句一章』は句切れの問題。形は切れていても、内容は繋がっている場合もある。まずは『詠まれる素材』に注目して内容で判断してほしいの。それと、『写生句』は句の構造ではなく、作り方の方法のひとつであるから『写生句』=『一物仕立て』ではないこともあります」

ええ.! 写生句が一物と思っていた部員ほぼ全員。また、部員からは、「二物衝撃だけが、取り合わせと思っていた。だから、俳句の分類としては、取り合わせと一物仕立てとその他たくさんという分類を漠然と思っていた」(ミズスマ)とか、「俳句はすべて取り合わせでしょ?」(遊人)といった大胆な意見も。

しかし「写生」は方法であって内容ではない。また、「○○や」という「型」を使っているからといって「取り合わせ」とは限らない。したがって、「取り合わせ」で一句一章の句もあれば、「一物仕立て」で二句一章の句もある。要は「内容」を直視することなのだ。

で、もう一度揚出句を検証。

上五は同じでも召波の句は二句一章の「取り合わせ」であり芝不器男の句は二句一章の「一物仕立て」である。この結論には部員全員納得して次へ。


『一物仕立て』の
『一物』とは季語のこと


甘草の芽のとびとびのひとならび 素十
ものの芽のひらかんとして皺むなり 六戈
ものの芽のほぐるるごとく微笑仏  すみ子

高野素十の句は「一物仕立て」で異議なし。佐々木六戈の句は中七下五の表現に少々疑問の意見が出たものの「一物仕立て」。「取り合わせ」とはいえないだろうという消去法の手探り状態である私たち部員。

もっとも論議を呼んだのが平田すみ子の句。「ものの芽のほぐるるごとく」から最後は「微笑仏」に落ち着く。「ほぐるる」という比喩表現や下五より、この句は「微笑仏」の「一物仕立て」であるという意見がでて、議論白熱。そうなると、この季語の「ものの芽」はただの添え物?

「じゃあ、無季や自由律はどうなるの? すべての俳句は『一物仕立て』か『取り合わせ』に分類できるということでやってるんでしょ?」喧々囂々。そして混沌。

そこで組長。
「私たちは有季定型のかたちで俳句を詠んできてるのだから、まずは季語を中心に考えて欲しい。この場合表現方法は置いておいても季語と微笑仏が一句に存在するでしょ」

ここで、片山由美子氏の論を抜粋する。
―――「一物仕立て」の俳句は、季語を外したら何の意味もなくなってしまう。季語こそすべてなのである。(『平成秀句選集 別冊俳句』角川学芸出版より)

また小澤實氏の論では、
―――一物俳句と取り合わせの俳句では季語の使い方が全然違います。季語を詠む句、季語を描写する句が一物俳句、季語と季語意外を取り合わせるのが取り合わせ。(『おとなの愉しみ』俳句入門 淡交社より)

さて、我が俳句部いかなる航海となりますやら。
(つづく)

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