2009-08-30

夏了る 飯島晴子を読む 山田露結

夏了る 飯島晴子を読む

山田露結


「銀化」(2009年2月号)より改稿転載

  泉の底に一本の匙夏了る

飯島晴子の第一句集『蕨手』の巻頭に置かれた句である。蓼科で見たという泉が句のモチ―フとなってはいるが「そこで一本の匙を見たわけではない。」(自解100句選 飯島晴子集)という晴子の言葉通り、あくまで心象風景である。

藤田湘子による同句集の序文によると、晴子には「この句以前に五、六年の作句歴があって、その期間にも、私の記憶ではかなりの水準に達した作品があると思うのだが、それらをすべて捨てた」のだという。この一本の匙には過ぎてしまった夏が集約され、泉の底で既に懐かしい光となって輝いている。つまり、そこに集約されているのは過去の晴子であり、この句を第一句集の巻頭に置くことによって、それまでの自分と決別するという強い意思を表しているのだと思われる。

晴子が俳句をはじめたのは三十八歳の時、夫の代理で藤沢の「馬酔木」の句会へ出席したのがきっかけだったという。翌年、「馬酔木」へ初投句。その時に入選したのが次の一句である。

  一日の外套の重み妻に渡す

夫が一日を終えて帰宅し、妻に無言で外套を渡す。渡された妻は夫の外でのわずらわしいあれこれを一手に引き受けてしまったような重みを感じて少し憂鬱な顔をしている。このときすでに晴子は俳句が自分の内面を映す鏡として言葉によって機能する器であることに気づいているかのようでもある。

俳句をはじめた当初、馬酔木的叙情よりも人間探求派の流れを汲む句に自然に親しんでいったという晴子だが、次第にその興味は、「事物のなかに直接的に世界を見ようとするより、言葉のなかに間接的に世界を見る」(「写生と言葉」昭50・8「青」)、あるいは、「言葉を定型に逢わしたときに起こるさまざまの反応の中から、別の言葉の体系を掴み出す」(「わが俳句持論」―自伝風に―昭52・5「俳句研究」)ことへと向けられて行く。つまり、言葉を俳句という定型にはめ込むことによって、言葉本来の機能とは別のはたらきが起こることを認識し、そこから言葉の意味性、伝達性を超えた新たな時空を生み出すことに熱中して行ったのである。

  蝉殻の湿りを父の杖通る      『蕨手』

  冬の帯あまたの鳥の棲み合はせ   『朱田』

いささかこじつけが過ぎるかもしれないが、こうした句に「デペイズマン」(「本来あるべき所にある物が、ほかの場所に移行され、そこで本来の機能を剥奪され、そのことによって未体験の想像力を獲得する。」 横尾忠則著『名画感応術』光文社知恵の森文庫)のようなシュルレアリスム絵画の手法を見出すことは出来ないだろうか。

「言葉の現れるとき」(昭51・1「文学」)の中で晴子は「自動記述」についてわずかなから触れているが、例えば、「どれだけ写実的な画法で描いても、実物のリンゴは掴むことの出来るナマの立体であり、画布に描かれたリンゴは絵具で塗られた平面である。(中略)描かれたリンゴが、実物のリンゴによく似ているように見えるだけなら、その絵は実物の説明にすぎず、絵としての存在価値はない。言葉の場合も、事情は全く同じである。」(「言葉桐の花は」昭51・1「波」)という一文の示す認識はシュルレアリスムの画家ルネ・マグリットの「これはリンゴではない」という作品(写実的に描かれたリンゴの絵の上部に「これはリンゴではない」と書かれてある。)の示す認識と見事に一致している。

もちろん、晴子がシュルレアリスムの方法論を体系的に学んだということではなく、言葉の不思議を追求してゆく過程に於いてシュルレアリスム的な手法を感覚的に掴んでいったと考えるべきではあろうが。

少し話が逸れたが、ともかくも「泉の底」に「一本の匙」を沈めたところから晴子と言葉との果てしない格闘が始まったようである。その『蕨手』からいくつか句を引いてみたい。

  これ着ると梟が啼くめくら縞

「めくら縞」は縞模様が細かいために一見、無地に見える柄である。吟行へ出掛けた山村の民家にあった縞の丹前を見たことからヒントを得たという。「めくら縞」の語感と夜行性である梟のイメージとが相俟って、寓話的でありながら、幾分狂気を帯びた景となっている。

  一月の畳ひかりて鯉衰ふ

同句集にはとにかく「死」をモチーフにした句が目立つ。直接「死」という語を用いたものだけでも十五句ほどある。掲出句の一月の畳の不思議な明るさも、またひとつ死を身近にしたという感触であろうか。さらに、鯉の「衰ふ」という表現を受けて、その光はいっそう死を連想させるものとなる。そして、この句の中にはどこか病的で憂鬱な顔をした晴子の姿があるように思われる。

  襖しめて空蝉を吹きくらすかな   『朱田』

  凍蝶を過ちのごと瓶に飼ふ     『寒晴』

晴子の句には、こうしたやや病的な人物像がしばしば登場する。もしかしたら、これらはみな晴子の潜在意識の中に棲む晴子自身ではないだろうかと想像してみる。

  樹のそばの現世や鶴の胸うごき

動物園は晴子が好んでよく出掛けた吟行地である。そこで見た鶴から着想を得た句。「現世」を「樹のそば」に、「鶴」の動きを「胸」に限定することによってその動作がくっきりと見えてくる。鶴を見ている作者のいる場所と鶴のいる場所とが、あたかも別の次元にあるようだ。

晴子はいわゆるホトトギス的な写生にも強い関心を示しているが、それもやはり、目に見える現象を言葉で切り取ることによってその向こう側にある目に見えない思考を描き出すことへの手がかりとして写生を捉えていたからではなかっただろうか。一読、頭の中だけで作られたように思える晴子の句がまったくの机上句ではなく、その多くが吟行によって着想を得たものであることも興味深い。もっとも、晴子の句を鑑賞する上で、その句が写生句であるか机上句であるかという問題はほとんど意味を持たないのではないかと思われる。

  わが末子立つ冬麗のギリシヤの市場

第三句集『春の蔵』より。あるときの「鷹」の句会で「市場」の席題から詠まれたという一句。晴子がギリシャへ行ったこともなく、子供も娘一人だったということを知ると読者はかなり戸惑うだろう。しかし、この句に描かれた壮大なドラマのラストシーンを見るような景を思えば、たとえそれがフィクションであったとしても、そのことが句の価値を妨げるものではないと納得するのである。そして、ここでの母親像もやはり晴子の潜在意識の中から現れた晴子自身の姿ではないだろうか。

  寒晴やあはれ舞妓の背の高き

第五句集『寒晴』より。「あはれ」の一語が句の印象を複雑にしている。気持ちよく晴れ渡った冬の空には張り詰めた緊張感もある。そんな古都の景色の中で本来、小柄で可愛らしいはずの舞妓が現代風の大柄な娘であることのアンバランスを「あはれ」と言った。どこか人間の存在そのものに対する「あはれ」を言っているように感じるのは飯島晴子という作者名の所為だろうか。
  螢見の人みなやさし吾もやさし

遺句集となった『平日』より。人々は螢を通してやさしく死後の世界を見つめている。そして、「吾もやさし」と自らもその世界を見つめるおだやかな眼差しを持つことによって、死をまるで居心地の良い場所であるかのごとく親しく自分の身に引き寄せている。ここには何かふっきれたような穏やかで優しい、そしていくらか寂しそうな晴子の姿がある。

  丹田に力を入れて浮いて来い

同句集の最後に収められた句。つまり、晴子最期の句、ということになれば、やはりこの浮き人形に晴子の姿を重ねてしまう。晴子が最後の力を振り絞って浮き上がってきた果てに見ようとしたのは、彼女が必死で求め続けた、言葉の向こう側にある新たな世界だったのかもしれない。

平成十二年六月六日、晴子は七十九歳にして自らの命を絶った。自殺の原因は定かではないが、その死が俳句によって新たな世界を掴み出そうと、あまりにもストイックに言葉を、そして自らを追い詰めて行った結果だとしたら、それは俳人として見事な最期ではなかっただろうか、と思うのである。

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