【俳誌を読む】
うつりゆくこそ俳句なれ
『里』2010年3月号
さいばら天気
月刊。本文48頁。発行所・里俳句界、発行人・島田牙城。
『新撰21』重書評として、瀬戸正洋、小林苑をによる2論考を掲載。
瀬戸正洋「エンターティナーの自己~師匠とその弟子」は、北大路翼、その弟子を自認する谷雄介、佐藤文香を取り上げるが、北大路翼に大きな紙幅を割く。
如何に生くべきか、それを決める唯一の拠りどころは経験である。俳人が俳句を作るとは、その経験を整理しようとする意思だ。…とすることから明らかなように、生身の作者とその作品を寄り添わせて読み解く。けれども、体験と作句とを、作者の社会的属性と俳句作品とを、単純に結びつけるのではないことは、「エンターティナー」という切り口に含意されている。
(…)中国には「陸沈」という言葉がある。海に沈むのではない陸に沈むのだ。逃げも隠れもせず馬鹿な世間と付き合うのだ。北大路翼の100句が、どのように現実と切り結ぶのかを論じて、示唆に富む。
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小林苑を「十七文字で掴まえて」は、俳句という「手軽」な「たかだか」の十七文字が、それでも個性を持ってしまうことを悦ばしく捉えたうえで、数種の“個性”を引き、論じる。
せっかくの「たかだか」の良さ、「手軽」の良さを、「肩肘張る」ことで台無しにしてはつまらないとの指摘は貴重と思った。アンソロジーといういもの、そこに選ばれたというだけで誰でも体のどこかに力が入る。「若手作家」とかいう四角い言い方で、俳句のもつ(作品の、ではない、俳句という遊びそのもののもつ)軽みが忘れられるようでは、実際、つまらないのだ。
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島田牙城「吾亦庵記録」は、いわゆる旧かな・新かな論争を取り上げる。
高山れおな「愛と仮名しみの暮玲露」(豈 weekly・第77号)を受け、ひとつは、「旧かな」「歴史的仮名遣い」を、決め事や伝統へとシンプルに依拠するわけには到底いかないこと、その背景として、変体仮名の多様性を捨て去ることで規格化され硬直化した仮名遣いという近代の問題が横たわり、その際、活字文化からの「規格化要請」とは、関連づけながら、峻別は必要、と、とりあえず要約してみる。浅学の私にはなかなかにややこしかったが、たいへん興味深くもあった。
そして考へれば考へるほど、新舊の問題ではなく、正・俗・略の問題であると思へるやうになつてきた。そこに定家假名遣ひの「なんとかならんかいな」程度の不徹底さと、契沖假名遣ひの「なんとかせねば」といふ理念の深さの違ひも見えてくるのである。正・俗・略。
なるほどと得心。言葉は、規範と運用とは別物として、どの時代にも重なって層なしており、また、いずれも刻々と変化する(うつりゆくこそことばなれ)。
仮名遣いの如何が、なにやら神秘的なもの、曰く言い難い効果を生み出すかのように語る俳人(旧派に目立つが、新派も無縁ではない)は必読の論考。
〔参考〕島田牙城「仮名遣ひについて」
≫http://www7.ocn.ne.jp/~haisato/kanazukai.htm
俳句の里ホームページ
≫http://www7.ocn.ne.jp/~haisato/satotop.htm
2 comments:
さいばら天気さま
いまさらですが、「里」を取り上げて下さり、ありがとうざいました。うん、この日は村芝居で盛り上がって、読み落しておりました。取急ぎ冷や汗たらたら、お礼まで。
お気遣いなく。かえって恐縮です。
勝手なことを書かせていただいています。ご海容ください。
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