〔俳誌を読む〕
柳俳ユニットによる5号限定刊行、そのラス前
『五七五定型』第4号
さいばら天気
小池正博と野口裕による5号限定のプロジェクトのうち第4号は2010年4月10日発行。本文60ページ。
小池正博は、第150号/2010年3月7日・川柳 「バックストローク」まるごとプロデュース号への登場ほか、日頃より小誌が親しくさせていただいている川柳作家。野口裕もまた「林田紀音夫全句集拾読」長期連載ほか、小誌との関係が深い。
いわゆる色上質という上質感のないオレンジの色紙を表紙に、ワープロ文書(?)のダイレクト印刷と思しき誌面。デザインへの固執はまったく見られず、見た目に簡素な造りで、先週号に取り上げた『蒐』とは対照的。外観への褒め言葉は見つかりませんが、内容は、濃い。掛け値なしに、濃密。
小池正博は「奉仕の心」「老人実朝」各50句、野口裕は「異端跋扈」「正当喪失」各50句の、100句ずつを掲載。タイトルからして、喉ごしよくすらっと読まれちゃかま(誤→正:な)わない、の意気込みが伝わります。
唇を舐めてから言う「星の消滅」 小池正博
繭を破って老人実朝イーダ姫 同
敗(誤→正:破)れても餃子は餃子春惜しむ 野口裕
暗号の蕎麦をひたすら伸ばすなり 同
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小池正博・コラージュ「座談会」は、昭和39年(1964年)晩秋の俳人、歌人、川柳人を集めた座談会・「現代川柳」を語る(『俳句研究』昭和40年1月号掲載)のトピックを抜粋しつつ、情報を補完。当時の議論を濃縮して伝えています。
俳句と川柳は共時的には区別がつかないが、通時的に見ると区別することができる。従って、歴史的に見る方が説明しやすいのだが、「発生がこうだから、こうでなければならない」(たとえば季語と切れ字)というような規範的言説に陥りやすい。では、どのように区別されるべきなのか。金子兜太の言う、川柳の機知と俳句の抒情の越えられない一線。口語対文語。河野春三の言う「形式のヤドカリ」。同じく河野の言う「短詩無性論」(川柳と俳句に性格の差はない)。金子兜太の言う「ジャンルの差ではなくエコール(流派)の差」。高柳重信の言う「言葉のナルチシズム対アクチュアリティ」……。
根源的な議論が、要領よく、かつ刺激的に構成されたコラージュです。
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野口裕・書替は、短編小説といっていいのでしょう、書物と文字にまつわる奇譚。印字を喰い文字を替えてしまう化石(?)、虫(?)の正体を追う主人公。終始、紙魚への連想が読者側に働き、暗鬱かつ清冽なイメージ(微妙な両立)。ゴシックロマン風でもあり奇妙に世俗な材料もアリの不思議な味わい。書物フェティッシュ、活字フェティッシュの奇譚はめずらしくはないのですが、これ、かなりおもしろいです。
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企画物として、お二人が知らぬ初めての句会に参加する「句会探訪記」は、お互い別分野(小池は俳句の、野口は川柳の句会)に参加するという趣向はあるものの、正直に言えば退屈です。句会とは、実に奇妙なもので、夢と似ています。見ているあいだはおもしろいのですが、他人に話しても、おもしろさは伝わりにくい。句会は「読むもの」ではなく、「する」ものなのですね。
というわけで、じっくり読んで楽しめる冊子です。
ご興味を持たれた方は、yutakanoguti@mail.goo.ne.jp まで。まだ残部があるといいですね。
〔参考記事〕『五七五定型』第4号:海馬 みなとの詩歌ブログ
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3 comments:
>喉ごしよくすらっと読まれちゃかまわない
偶然でしょうか、故意でしょうか。すらっと読まれてかまわないと、すらっと読まれちゃかなわないを、足して二で割った気分は確かにありますね。言い得て妙です。
取り上げて下さり、ありがとうございます。
あっ、それと、「敗れても餃子は餃子春惜しむ」は、「破れても餃子は餃子春惜しむ」です。
あお! どっちもタイポ。
まちがいが出来事を起こしていく、というふうに解していただいて汗顔の至り。
直しておきます。
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