エンターテイメント川柳の大家・渡辺隆夫
句集『川柳 魚命魚辞』雑感
堀本 吟
● 渡辺隆夫の川柳を、大嫌いだという人が幾人もいるが信じられない、私は大好きである。〔註1〕
●なぜなら、平気で悪口を言っている人には平気で悪口が言えるからだ。 〔註2〕
;万歳なのか降参なのか手んでわからん
;廃仏毀釈 明治初期のタリバーン
;月天心娼婦デルボー辻に立ち
● 思い切って「キタナイ」ことを言う、ので、思い切って「キタナイ」と言える。この人はエロチズムよりスカトロジーの人だ。説明の要はない。〔註3〕
;ウンコなテポドン便器なニッポン
;上野駅トイレにしゃがむ西郷どん
●思い切り「アホなこと」と言うので、思い切り「あんたアホか」と言える。〔註4〕
;逃走の潜水艦内サンマ焼く
;夏はピサ斜塔支えるアルバイト
;猫飛び交う今宵はきっと化けますよ
●「秋の暮れ大魚の骨を海が引く (西東三鬼)」 が好きであるから、あるいは有名であるからわれわれは、ついうっかりと。
;ブリューゲル父が大魚の腹を裂く (渡辺隆夫)
と言う句と結びつけてしまうが、(序文解説の森田綠郎もそのように受け止める)にもそれを連想してしまいがちである、それはただしい鑑賞法なのだろうか?又、事実的に三鬼のマネだったとしてもソレガどうした、トイエル。
巻頭に置かれているこの「大魚」の句は。海に引かれていたのではなく。出刃包丁にて腹をサカレ、解体されたのである。
やはりそこには、隆夫の独得な感性が盛り込まれている。〔註5〕
三鬼の句との根本的な違いは、三鬼の句は風景の面白さ。
隆夫の句は、風景のなか中の行為のおもしろさ、である、
と、まあ。エンターテイメントの面目躍如といいたい、そこで、なにか余韻を残す…隆夫はだんだんそういうダンナ芸の大家になってゆく。
とまれ、渡辺隆夫五冊目の、面白くかつ面目躍如の川柳集である。
【註】
〔註1〕
幾人も、といっても、そうたくさん明言しているわけではないが、私がはっきりきいたのは、ひとり、ふたり、三人、そう三人ぐらいである。それも女性。こういうのは川柳じゃない、という断言である。だまってそう感じる人はもっといるかも知れない。
「あんなの、だめです。絶対ダメです」、ときっぱり。
それから、「腹が立ってくる」、と言う人。「人前には出せない」という人。
こまるのは、「こんなのほんとの川柳じゃない、ね、そうでしょう。吟さん、そうおもいませんか?」とせまられるとき。これは、感覚の問題だから、絶対ダメです。といわれたら、その人の感情をなだめることは出来ない。自分のことでないものだから、私も身を守るために「あ、あなたはそう思うの?」「でも、川柳って、基盤のひとつは、こういうものじゃない? 好き嫌いは別として」、とモゴモゴいいながらそっと引いてしまう。隆夫はこうして孤立する。いい気味である。いい気味なのだが、この人は持ち前とはとはちがうところで批判されている、と思う。隆夫句を読むその居心地の良さと悪さについて、川柳人が巧く言うことが出来ないから、川柳批評はなかなか一歩出て行けない。
こういう、反応のあるかぎり、渡辺隆夫は、便所の落書きまがいのエログロナンセンスを排泄し続けるだろう。
〔註2〕
説明抜きでこういう発想のアホラシサガ伝わる。これがわたしには内心痛快なのである。
;一句目は、全くなるほど、だ。「手んでわからん」という書き方に工夫を感じるが、シロートの「手」にも負えそうなところがねらいであろうか。
;二句目も、なるほど、「タリバーン」をもってきたか。神の名において強行した権力者の狂信ぶりが共振してくる。巧い。でも。「仏」のほうの犯罪性もいっておかないと不公平だ。
;ポール・デルボーの絵の女達の裸について、〈「デルボーの女達の青く輝く陰毛」…と絶賛していたのは、たしか大江健三郎だったが〉、これを、ズバリ、「娼婦」と言ってのけるのが隆夫なのである。これは卓見。そして、芸術性を侮辱してその跳ね返りのすごさを、知るか知らぬか、その侮辱罪を逃れることが出来るのは、川柳の常套的感受性に乗って書いてるからである。
また、「月天心貧しき町を通りけり」という与謝蕪村の句を想い出すが、「月天心」という言い方を、「貧しき辻君」と「デルボーの女」と結びつけ、俳諧の「月」のもと、聖女の対極のイメージを取り合わせている。デルボーは、高貴な聖女にさえみえる神話的な女像のイメージを出したかったのかもしれないのに…。
このように、徹底して芸術的昇華をみとめない、と言うのが隆夫の句柄である。(註1)のように、ロマンチックなタイプの川柳女性に烈しく嫌われるのも無理はない。
筆者は。たまたま、あるネット川柳に、「辻」という題を出した。が、この句に出会って、衣服ならぬシャッポをぬいだ。ここまで、言わぬほうが・・、というのが、今のおおかたの柳人の感覚だろうが、ここまで言わねば句の像のリアリティが薄れる。私の出会った柳人のうちでも、これほど芸術理解を茶化し侮辱している人はすくない、ゆえのバーバリズムとかフォービズム風の作風に存在理由がある。
〔註3〕
どこか可笑しいか、という説明をだらだらしていると、句の効果半減するのがこわいのだが、敢えて言うならば、ここには、日本と北朝鮮の関係について、隆夫なりの政治認識が現れている(と、みなされがちで、それもなかばあたっているかも知れない)。しかし、言葉を追うかぎり、北朝鮮のミサイルによる武力誇示の戦術が、じつは、排泄行為に似ている、と言いたいのでは?身近の受け皿が日本国日本列島。確かにこういうところにこんなかたちの器があるとは便利なことである。と、いなしつつ、もし、あれがほんとうに落ちてきたらどうしよう、と、ブラックな滑稽な恐れを掻き立てる。
征韓論の西郷どんも、じつは没落武士階級の不満のはけ口にこのような海外への戦争の思想をもった、という説がある。終日硬直して天を睨んで立ちっぱなしでもいられない、外にだせないなら、公衆便所をつかおうではないか。近くの上野駅に公衆トイレがあって良かった…。虚構にことよせるから言える「真情」もあり、それを全て嘘っぱちであると言える詩のスタイルもある。川柳は汚いものでもなんでも便器のように、うけいれる。
「キタナイ、クサイ」なことを言いたいという気持ちは、これは肛門期から口唇期のあたりにいる少年のものだし、いまや隆夫老体も、少年帰りをした証拠かも知れない。そのことを耕衣ばりに「雲公」などと書かないことで、この句は、かえって排泄行為の政治的必然性と生理的リフレッシュさをとどめている。これは、イデオロギーの産物にも読めそうだが、そうではない、ところが怖い。「クサイものには蓋をしない」時事川柳の灰汁の強さが、生きている。
〔註4〕
あほらし、ほらふいて。と、ここでは、たのしく笑えるのである。それでいいのだ。
;自衛隊の潜水艦の密室で、男がサンマを焼いている。詩情に満ちてあり得る風景ではあるが、このシチュエーション、まことにあほらしくけなげである。煙はどこにたれ流すのだろう。追っ手に見つかるではないか。だいいち彼はなぜ逃げまわらなければいけないのか? まったくわからない。
:こんなアルバイトしている留学生の顔が見たい、田力男か、初代朝潮か、怪力ヘラクレスか、神話もひっくりかえって、力持ちはみんながアホにみえる。
:猫が化ける、これも怪談の常套ネタを利用している。化けなかったら子猫が殖えるだけである。俳句はその常套的生理現象ネタを利用(活用)している。ともにあほらしい。
〔註5〕
川柳にイメージ吟という方法がある。イメージ吟というのは、今は亡き森田栄一などを中心にこころみられてきた、現在では、自由律俳句の藤田踏青が発行する「でんでん虫」で。絵や写真を提示して、そこから想を得て、川柳や短詩をつくっている、それがいわば「題」となり、イメージを掻き立てる。「題詠」と同じく、ベタもいけないが、はなれ過ぎてもいけない。
隆夫は、絵画が好きらしいが、これも、姿を借りながら、わざわざイメージ吟としてこしらえると言うより。ブリューゲル、ゴッホ、など、おりに触れて、表現の心を受け取って、自分流に変形しているようだ。この辺りは、作句の仕方が、まさに渡辺隆夫流である。従来の川柳ではない。日常活動として句会や大会で句作りをしている(場合もあるが)のではなくて、自分のコンセプトで一句作る、組みたてる、いわば、机上の作品である。川柳以外の場でこれを書くとしたら、公衆便所の壁ぐらいだろう。かつて、江里昭彦が俳句ですこしこういう試みをしていたが、江里はもうすこしペダンティックで観念的だった、隆夫の方が即物的迫力がある、出自が川柳だからこうなるのでは。
これは、ブリューゲルの絵からモチーフを得ているが、その絵解きを通じて、「本歌」は三鬼の句だと考えた方が、私には理解しやすい。
三鬼の観念の風景、隆夫の観念の行為。川柳俳句の振り分けは別として、表現の本道の知的作業にもとづくもので、渡辺隆夫は、その本道にしたがって、極めて知的に通俗川柳(市民に差し出すエンターテイメント)の文体をつくっている。その通則性はますます洗練されている。
【補足】
句集などの最初の感想は、mixiの私的なメモタイプにしたほうが書きやすい。だが、この媒体では、明確なスタイルや構成を持った批評文を、不可能ではないが書きにくい。
まあ、そんなことを考えつつとりあえずmixiに書いたところ、週刊俳句の転載要請があったので、これも。媒体がちがうのでだいぶん迷ったが、転載を承知しした。mixiに書くときには、それなりの文体とか、調子があり、感情はかなり個人的なとことへ引き寄せているし、それから、心理面でのニュース性を強調する。したがって、時間をおくと真意とはずれたところでうけとられるからである。いかし、もともと、隆夫は、世間全体に茶々を入れる心構えであるから、
最初読んだときには、隆夫さん、すこしパワーが落ちたかな。とおもったが、一冊読み終えて好きな句などをチェックしてみたら、これはこれなりに、笑いも取り、味わいもあり、考えさせるところもあり、良い句集だと、結論した。隆夫十八番のギャグを連発、それば地震や津波をひき起こすほどの衝撃度はないけれど、相変わらずだと思う。相変わらずと承知でわらわせ、怒らせる。これも隆夫流の予定調和だ。しかし、このじわっとした味わい、カラッとした後味はなかなかのもの。ベテランの遊び方を楽しみたいときには、通俗の方向へと断固としてソフィスティケートしている彼のギャグを目で追ってみるといい。これらは、彼のストレス発散のためのバランス感覚の結果みたいなものだからである。本来この人は知的なのだ、ということは、すぐ知れる。生物学者だから当たり前だが、なのにあほらしいことをまともにいうから感心したり呆れたりする。専門のショウジョウバエを顕微鏡で覗くように、エロでも、グロでも、ピンセットの先につまんでプレパラートに載せて、いろいろ吟味するこの学究的な探求心はみごとなものだ、まるであらゆる現象(性欲という肉体の感覚も、虚無や淋しさの精神的なものも)は、標本に出来る、と言わんばかりの手つきである。
例えば、現在の東北関東大震災、津波、ひきつづく原発事故、の事態…つねにこのような現在性の波に洗われているのが隆夫の言葉である。「隆夫さんのあれは、ダメです」といった少女のような「彼女」は、かろうじて無事だったらしいのでほっとしたが、こういうときにこのようにあまり正確ではない昔の会話だけを記憶をもちだして、いわば平常の言葉遊びの文脈のうえにのせてもいいものだろうか?それこそ顰蹙モノかも知れない、しかし、はげしく嫌われなければ、彼のステロタイプな世界の特質を浮き彫りにされてこない。とともに、どんな悪態もしょせんは、紙の上のたわごとなのである。
隆夫川柳は、そう言うきわどい動きやすい状況の一面をうがって、さらに、存在自体には人倫の意味などはない、と言ういわば悪意や善意を相対化する構えで言葉遊びを展開している。現在、現実というこれも不確かな外界に対して、もっとも攻撃的な言葉を投げかけているのが、渡辺隆夫だと言ってもいいだろう。言葉の通俗性を心ゆくまで洗練させている、エンターテイメント川柳の大家となった渡辺隆夫さん。これはこれでご立派。
三鬼の句は風景で、隆夫の句は行為だ、と筆者は書いたが、これは、もっとつきつめてかんがえる必要を感じる。俳句と川柳の根本的な違いが見えて来るはずだ。
切りがないので、ここはいちおうここで切る、
『魚命魚辞』邑書林・2011年2月刊
0 comments:
コメントを投稿