成分表46
不自然
上田信治
里2009年11月号より改稿転載
あるところで知り合った人が、家具屋だというので、その人の店にダイニングテーブルを見に行った。その人は、そのテーブルに、どこか北の方の生産地で出会い、惚れ込んで、その商売をはじめたのだそうだ。
都心のショールームにいくつも並べられたテーブルは、みな大きな一枚板で出来ているのだが、その板はふつうに四角くはなく、木を縦にスライスしたままの形をしているのだった。
ブロッコリとか舞茸の茎の部分を縦に薄く切ったような形を、想像してもらえればいい。
その人は、百年かけて大きくなった木は百年使える家具にしなければいけないという「思想」を説明し、建築家設計の個人宅にそのテーブルが設置されている写真などを見せてくれたのだが、結局、自分たちは彼のテーブルを買わずに帰った。
直線ばかりのマンションの部屋に置くことを想像すると、そのテーブルはあまりにも観念的であるように思われたのだ。
人間的環境においては、植物そのままの形状が観念的で不自然であり、四角形のほうがより自然であるという、その逆転が少し面白かった。
詩歌の定型は、人間にとって鼻唄に近い自然なもので、家具でいえば四角い机だと思う。
そして俳句の場合、あまりに短いことが不自然極まりなく、その「自然」「不自然」のせめぎ合いが、鼻唄にとどまりえない何か、人間の鼻唄的自然の外にあるものを呼び込むべく、働いている。
人がつくるものには、ああなりたい、こうなりたいという内在し対立するベクトルがあり、その複数の力が、蛇の尻尾呑みのような緊張関係にあるとき、出来るものが面白く、一方のみが優勢であれば(その向くところが自然であれ不自然であれ)、観念的になる。
ところで朝鮮半島の古民家は、日本のそれと比べても、ずいぶん曲がった木材を、目立つ重要な柱などに使うようだが、あれは、それで用が足りるという無意識なのか。それとも、何かやりたいことがあって、わざとそうしているのか。
また、あの井戸茶碗というものを、日本人が珍重すると知ったあと、陶人たちは、それをどれくらい「わざと」「無造作」に作ったのだろう。
良夜なり漆の卓に水こぼれ 奥坂まや
食卓にあり食べられぬ烏瓜 山口誓子
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