成分表47
原始人
上田信治
里2009年11月号より改稿転載
まだ言葉の分からない子どもが、なにか痛いことがあって叫ぶとしたら、その声は言葉にならず
「○ゞ&〓$♂~!」
というようなものになるだろう。
「あー○○ちゃん、イタイイタイでちゅかー」と言われて、彼は、その体験の内容を「イタイ」という言葉に結びつける。それは不可逆的な過程で、いちど言葉を知った人は、言葉抜きの体験には戻れない。
というようなことを、ある人が書いていたのだが、とはいえ。その子どもが成人し何かまた痛いことがあったとして、彼が「痛い」と言うとは限らない。
人はそういうとき「痛(つ)ぇ~~っ!」とか「痛(づ)ぅうう」とか「イチチチ…」とか言うものだ。
人間、痛がるのと、痛がらないのと、どちらが痛さを耐えやすいのか、それは、また別の話だが、正式な言葉を歪めるのは、人の身に湧きおこる言葉にならない感覚感情であり、それをなぜか表現したいという過剰な欲求である。
それは、赤ん坊の彼に「○ゞ&〓$♂~!」と言わせたのと、きっと同じものだ。
言葉にならないモノを指さして、まだ言葉が少ししかない人が「アオアオアー!」と叫ぶ。
ここはぜひ、コントの原始人のような人を想像して欲しいのだが、自分にとって俳句とは、この「アオアオアー!」のようなものだ。
つまり、名指せないものを名指すために、丸ごと使われる形式。
俳句の世界で語られる経験則、すなわち「因果は×」「時間の経過は×」「名詞は○」「助詞『に』『は』『が』は△」といったあれは、句の内部から構文的なものを排除しよう排除しようとする手引きであるとも言える。
それは、要するに、俳句が一かたまりの「アオアオアー!」となるように書くということではないか。
俳句は、いわゆる意味内容と別に、その一句に限って立ち上がる、マボロシのようにつかみがたい何かがあってこそ、だろうと思う。
意味内容はほぼないくらいのほうが、マボロシがよく見える。と、それは単なる好みかもしれない。
そして、そこに何が見えるのだと言われても、「アオアオアー!」としか言えない。
雪空に人あらはるゝ砂丘かな 大橋桜坡子
葱切るや猫の手消えし障子穴 〃
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