句集から全集へ
相子智恵
「信濃毎日新聞」2011年9月24日(土)
「思索のノート「井月をめぐる旅」〈6〉」より転載
「思索のノート「井月をめぐる旅」〈6〉」より転載
駒ヶ根に日和定めて稲の花 井月
井月の没後34年が経った大正10(1921)年、『井月の句集』が出版され、井月が世に知られる発端となった。跋文を書いたのは、芥川龍之介である。
この本を自費出版した今の駒ヶ根市出身の下島勲(俳号 空谷(くうこく))は、東京・田端で医院を開業し、近所に住む芥川龍之介一家の主治医だった。また書画に秀でた文人でもあり、龍之介をはじめ、久保田万太郎や室生犀星ら、多くの文士から慕われ、「田端文士村」の兄貴分のような存在だったという。
空谷は龍之介に、幼いころ伊那の実家の父・筆次郎の元へ、時折ふらりとやってきた井月の思い出を語った。龍之介は井月に大いに興味を抱き、空谷が贈った井月自筆の短冊をずっと大切に持っていたという。それが冒頭の句である。龍之介の短編小説「庭」にも井月が登場している。
台風12号の豪雨の中、私は徐行運転の列車を乗り継ぎ、ようやく駒ヶ根駅にたどり着いた。今回の訪問先は空谷の孫、下島大輔さんのお宅である。台風の中、下島さんは駅まで迎えにきてくださった。
お宅の玄関へ入るなり、俳句の拓本が目に飛び込む。
うち返す浪のうつつや春のくれ 万
更けまさる火かげやこよひ雛の顔 龍之介
若草の香の残りゆくあはゆきや 犀星
「万」は久保田万太郎である。これは空谷の養女・行枝(ゆきえ)が幼くして病死した折、万太郎、龍之介、犀星が一枚の紙に認めた追悼句で、行枝の墓碑に彫られた。その拓本だという。三人の文豪の自筆の句を見ていると、当時、文士村と呼ばれた田端の、土地の匂いが立ち昇る気がした。
下島さんに『井月の句集』の貴重な原本を見せていただく。龍之介が企画に関わって跋を書き、序には高浜虚子、内藤鳴雪らが句を寄せ、田端に住んでいた鋳金家の香取秀真(ほつま)の題箋、今の飯田市出身の画家・北原大輔による装丁と、贅沢な顔ぶれで作られた豪華な句集で、下島さんは「空谷が出版したというよりも、これは田端文士村の出版といえるでしょうねえ」と笑う。
空谷は、父・筆次郎が亡くなる前に句集をまとめたいと、当時郷里にいた弟の富士(俳号 五山)に頼んで、一年半という短期間で井月の句を収集した。だが死後忘れ去られ、散逸していた井月の句を集めるのは困難を極め、千余句の俳句や俳文等を集めることができたものの、出版後、中には残念ながら井月の句ではないもの(門人の句を井月が書き留めたものなど)が多数混入していたことがわかった。
下島家の原本には、空谷本人の手で、びっしりと朱筆が入っていた。下島さんは「他人の混入句もあり、空谷はひどく後悔したんでしょう。再版の準備のために、朱筆を入れていたようです」という。
しかし『井月の句集』が再版されることはなかった。それは空谷から贈られたこの句集に感銘を受けた伊那高等女学校の教師・高津才次郎が、新聞紙上や生徒たちに呼びかけ、新たに井月の俳句収集と調査に全力を傾けたためである。その成果は9年後の昭和5(1930)年、下島勲・高津才次郎共編『漂泊俳人 井月全集』となって、再版に代わる形でみごと一冊に結実した。
「高津才次郎先生は本当に律儀な方でね。井月の資料収集を呼びかけたり、成果を連載した新聞記事はすべて、東京にいる空谷にも送っていました。その新聞の束が、平成12年に、蔵から見つかったんですよ」。下島さんが見つけた新聞の束は『高津才次郎奮戦記』として出版された。才次郎の情熱が伝わる一冊だ。
こうして井月研究の端緒を開いた『井月全集』は、後世の研究者の熱意によって増補改訂が重ねられ、私の手元にある全集は第四版にあたる。人々の情熱の連鎖に胸を熱くしながら、下島家を辞した。
興奮覚めやらぬその足で駅前の料理店「水車」へ。駒ヶ根で井月を研究している宮澤宏治さん、細田伊佐夫さんと、井月が好んだという猪の肉を使った名物「井月丼」を食べながら、さらに井月談義に花を咲かせ、台風の夜は更けた。
井月の句には「日和」という言葉がよく出てくる。冒頭の句は、駒ケ岳の麓に穏やかな秋の日差しが定まり、稲の花が輝いているという句だが、「日和」は晴天に限らないなと、ふと思う。天候に関わらず、仲間と俳句を語り合える日は「心の日和」だ。井月の「日和」の句の多さにそんな心のありようを思う。
ぬらくらと進む台風神も酔ふか 智恵
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