2012-04-01
朝の爽波 10 小川春休
小川春休
10
週刊俳句第256号の「シンポジウム「俳句にとって『写生』とは」、皆さんお読みになりましたか。写生のみならず、爽波の俳句観を示唆する様々な内容、堪能しました。ちなみに爽波全集の年譜によると、『鋪道の花』の冒頭に示された「写生の世界は自由濶達の世界である。」という一文、中村草田男の『銀河依然』を読んで爽波の心に閃いたそうです。『銀河依然』、読まねば。
さて、残すところあとわずかとなった第一句集『鋪道の花』。今回も昭和28年の句。句集全体で見ると、28年の作品はとてものびのびした印象ですね。
子を抱いて虹に立つ人また姙めり 『鋪道の花』(以下同)
この句を構成している描写は、象徴的な要素を主としている。「妻」が「母」になること、「母」が新たな子を宿すこと、どちらも目の前で起こっていることなのに、確かな実感を持ち切れずにいる、そんな若き父親としての爽波の心情の反映であろうと思う。
汗のもの脱いで人手に委ねたる
「私」の領域ということを考える。衣服は着ているときは「私」、脱いだら「私」ではなくなる。しかし、脱いだ瞬間即「私」ではなくなるのかと言われると、少し悩む。そんなことを考えながらも、「私」の汗と体温をしかと残したままの衣服を人手に委ねる。
稲妻に夜の湖畔のポストかな
稲妻の光に照らされて、一面の闇に現れたのは、湖に向かって佇む一本のポスト。立ち尽くす人物のようで、どことなくさみしい。湖のほとりには他に木々もあろうに、他ならぬポストに注意が集まるのは、それが周囲の景から少し浮いた存在だからであろうか。
灯蛾の灯に船員は夜も帽をぬがず
船上の生活は、常に海という大自然の上で進んでいく。だから、航海に携わる船員には、完全なオフはない。休息中であっても、何かあればすぐ活動しなくてはならない。そうした生活を窺わせる夜の帽子だ。「灯蛾の灯」に、生活のリアリティが表れている。
夕焼の中に危ふく人の立つ
中七に描写の鍵となる言葉が集中している。夕焼に人が立っている、その事自体は単なる事実に過ぎない。それを「夕焼の中に」と言われると、途端に夕焼と人間との位置関係、大小の対比がクリアになる。更に、「危ふく」が人間の在り様を的確に言い止めている。
昼寝よく足らひ花火の夜がくる
夜の花火大会に備えて昼寝をしたものか、それとも単なる気ままな昼寝か。思い切り昼寝をした後の爽快な身体の状態が、花火を待つ心情と響き合っている。「花火の夜がくる」には、待ちに待った、という気分が強く表れている。愛すべき率直さを持った句である。
平らなる一枚の地や墓詣
山の斜面に突然現れる平地、それは古人が墓所として切り拓いたものに他ならない。たどり着いた墓所を「平らなる一枚の地」と言う時、そこに到るまでの平らならざる道のりをも思わせる。言外に、険しい道を登ってやっと墓所にたどり着いた安堵感も滲ませている。
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