【週俳3月の俳句を読む】
それは知らされていないこと、…を中心に
田島健一
それにしても不思議なもので、どんなにささやかな句にもそれを書かせた誰かがいて、作者自身はそれが誰なのかを知りません。
もちろん作者自身は自律的に句を詠んでいると信じていますし、その句は「自分の」句だと十分に感じられるのですが、同時に何故その句を詠んだのか、あるいは「詠めてしまったのか」ということが、作者自身にもよくわからないということが少なからずあるのです。
この「自律的」という言葉は実に不可解な言葉です。例えば「私は他律的に生きることを、自律的に決めた」という場合、この人は「自律的」なのでしょうか、「他律的」なのでしょうか。
このパラドクスは、「自」と「他」とが相対的な関係であるという前提がごく自然に信じられていることから発生します。このときの「自」と「他」とは想像的な意味で「同じ」ものなのです。
日常的に「自分」と「他人」が同じものだよ、と言っても多くの人は腑に落ちないに違いありません。
自分は自分の意思で句を詠んでいるし、他人の句は明らかに他人の詠んだ句であることを「私」は知っているからです。
けれども時折、みごとなまでの「類想句」というものが現れたりします。
そして、その「類想」の所有権をめぐった議論がなされます。通常、その所有権は時間的に先行している句が所有しているのですが、時折、後発の句がその所有権を奪い取ることもあるようです。
けれども、実はこれ「所有権」の問題ではないんですね。
「自分」と「他人」が同じものだとすれば、そこで書かれているものは「自分」が書いたものでもあり、「他人」が書いたものでもあるわけです。そこに書かれた句は「自分」の句でありながら、「他人」の句でもあり、「自分」が書いた句は、「他人」が書く「かも」知れなかった句なわけです。「作者」と「読者」は、句を間にはさんであたかも相対しているように見えますが、実はその句に「意味」を生み出すための、ひとかたまりのエネルギーでしかないわけです。
「自分」の内には、「自分」が想像的に決定した「自分」と「他人」が水平に存在しているのです。
ちょっとややこしい話ですが、賢明な人であれば既に気づいている話ですね。
ここで大事なことは、「自分と他人」という領域は「想像的に決定されている」ということです。
私たちが俳句を詠み、そして読むとき、知らず知らずのうちに感じ取っているのは、この「自分と他人」の「想像的」な関係を脅かし、ストレスフルで制御不能なかたちで介入してくる第三者の声なのです。
この第三者は「自分」にとっての「他人」のように、あからさまな姿で現れることがありません。
それは句が詠まれる前に、作者の内面に存在論的に存在するものではなく、そこに書かれた句に言語的に構造化された姿で書き込まれているのです。
前置きが長くなりました。
これは、全部、理屈の話。あたまでっかちな話。
というわけで、3月の作品から
手紙書かぬ吾怖しや梅の花 依光正樹
この作者は「手紙を書かぬ吾」に「怖れ」を感じているのですが、それは何故なんでしょう。
言うまでもなく「手紙書かぬ吾」が前景化するのは、その「吾」のうちに「手紙を書かなければならない」という命令を聞いているからです。にもかかわらず、手紙を「書かぬ」という謎の抵抗を感じ取っている。そのことが、この句の「主体」を多様で複雑なものにしています。
日常では「筆不精」と言ってしまえば一言で済んでしまうことが、この「吾」の内側で奇妙に分裂して「意味」化している。「私」に命令する「私」と、それに従うことを許さない「私」と、それを構造的に受け入れている「私」という、誰が主導権を握っているのかわからないようなデッドロックが存在しているわけです。
このようなデッドロックは、実は誰にでも経験があったりするのですが、このように言語化されてみると何かどんよりとした「度し難さ」が浮き上がってきて、ここに書かれた「怖さ」の実感が浮き上がってきます。
そりゃ怖いですよね。
「梅の花」は、その「怖さ」とはあくまでも無関係に寄り添っているのですが、これは
梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太
という句を、思い起こさせます。
「梅咲いて」という清廉でダイナミックな生命力に対峙し、自身に押し寄せてくる実感をす「青鮫」のイメージまで昇華させた兜太の句は、依光の静かでじっと自分を見つめ直す世界とは実に対象的なのですが、いずれの句も自分自身には押さえ込むことのできない抵抗感を言語的に浮かび上がらせているという点で俳句特有の「意味」を生み出しているように感じられます。
人入れて庭を造れる雲雀かな 依光正樹
この句は、すぐに芭蕉の「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句を思い出します。
芭蕉の句において「立ち去ったのは誰か」が議論されるのと同じように、依光の句にもまた「庭を造ったのは誰か」という疑問がわきあがってきます。
構造的に似ているのですね。上五中七と下五との間の意味的な距離が、句全体を支配してしまうのです。
ここで「庭を造ったのは誰か」ということを意味的に議論することは、愉快なことではありますが、やめておきましょう。
それよりも私たちが知らなければならないのは、この上五中七と下五の間に構造的に現れている断絶は決して文法的な欠陥ではなく、むしろこの句を支えている「全て」だということです。
句は、このような形でぽっかりとひとつの席を空けてあり、読み手はまさにその席に座るのです。
ここで「庭を造ったのは誰か」ということは、一見この句の主題のように見えるのですが、実はそうではなく、むしろそれが「主題化できない」ということを端的にあらわしているのです。つまり、ここで「庭を造ったのは誰か」という問いに答えることが、この句を読み解いたことにはならない、ということです。
ここでは従来言われているように、何かが「省略」されているのではなく、そこには「もともと何もない」のです。けれども、それを読んだ者は、そこにかつて何かがあって、今それが一時的に奪われているという錯覚に陥るのです。その奪われている場所を埋めることができるのは「私しかいない」。
「そこに空けられた席は、私の指定席である。」
これが、句が読み手を巻き込んでいく重要な心理的な構造だと、私は考えています。
少し唐突な話を付け加えておきます。
読み手は、そこに空けられた指定席に座り「庭を造ったのは誰か」というディナーを愉しみます。
それは芭蕉の「田一枚」のように、「立ち去ったのは早乙女たちだ」とか「立ち去ったのは芭蕉である」とか、「立ち去ったのはなんと柳である」などと、その主題(らしきもの)を愉しむことが可能になるわけです。
「庭を造ったのは誰か」という問いに対しても「それは神である」とか「作者自身でしょう」とか「雲雀である」とか、あるいは「雲雀に神の視点を見出しているのだ」とか、そのようにしてこの句が用意した主題(らしきもの)への解答を想像的に愉しむことができるのです。
だから仮にこの句について「庭を造ったのは芭蕉である」などと突拍子もないことを申し述べたとしても、そのような想像の自由は許され、読み手に大きな悦びを与えるのです。
句の用意した想像的なディナーを楽しむことは自由闊達で多様な想像的世界そのものだからです。
言い添えておきたいことは、そのような想像的で自由闊達な世界と、俳句における「リアル(現実)」とは全く別のものだということです。
けれども、それについては別の機会に委ねることにしましょう。
中指の少し大きく針祭る 下坂速穂
「針」をひとつの主体として「祭る」という、この季語の意味を考えれば、そこに命を吹き込んでいる「私」の「中指」が、私の意識を超えて「少し大きい」ということは、私にとっては一大事です。
「俳句は自由に書くことができる」というとき、その「自由」とは無限の選択権を持っているということではなく、「私」自身が知らない「私」の領域からの自由ではないでしょうか。それが、私にとっての驚きであり、句にモチベーションを与えているのですね。
この句の「中指」の「大きさ」は、「そう感じた」のではなく、「そうなんだ」ということです。私自身の身体の言語化できない部分が、「私」の意に反して「私」を代理していることへの、驚きと読んでいいでしょう。
冬の星子どもが米を研ぎて待つ 中谷みのり
季語が、日常的な記号的意味しか持たないとしたら、そのような季語はあってもなくてもいいものでしかないでしょう。季語の特徴は、それが機能的なものでない限りで機能する、という不可能性を孕んでいる点で、言い換えればそこが一種の空虚な場所であるゆえに、読み手の視線を捉えつつ、むしろ読み手を見つめ返してくるところにあると言うことはできないでしょうか。
この句の「冬の星」には、何か童話的な視線を感じさせます。そうでなければ、中七下五の人間世界の出来事の意味を知らせてくれるものが誰もいなくなってしまうからです。
そういえば私が子供のとき、自分が死んだら宇宙はどうなってしまうんだろう、と人並みに考えたものです。
地球上に人類が存在しなければ、宇宙という概念も、あの星の瞬きも、誰も知ることができず、知られないままそこに存在していたのか、そもそも、そんな存在自体が意味を持たないから、それは存在しないのと同じことではないか、などと。
この米を研いで待つ子どもは、そうして「冬の星」から見つめ返されている限りで、そこに存在する意味を得ているのですね。
以上、3月の週刊俳句の作品はいずれも力作が多くて、触れたい句がたくさんあるんですが、ひとまずこれくらいで。
また機会がございましたら、よろしくお願い致します。
その他、3月の作品で気になった感銘句
秋の夜の子の歯を磨く手が替はり 神山朝衣
早春の笹をさはさはさせたる手 導月亜希
甘き実の満ちたる熊の眠りかな 岬 光世
残業の夫よその手にひなあられ みわ・さかい
芋の芽や同級生の妻がゐて 岸由美子
哀しくはないが空見るときも亀 松井康子
啓蟄やどんと構える祖父の飛車 横山尚弘
涅槃図の蛸大足を伸ばしゐる 涼野海音
第254号 2012年3月4日
クンツァイト丸ごとプロデュース号
■依光正樹 独 行 10句 ≫読む
■下坂速穂 樹 間 10句 ≫読む
■クンツァイト新人6人集
中谷みのり 光彩 5句 ≫読む
神山朝衣 指の光 5句 ≫読む
岬光世 日月 5句 ≫読む
導月亜希 未然 5句 ≫読む
みわ・さかい エンゲージリング 5句 ≫読む
岸由美子 変身 5句 ≫読む
第255号 2012年3月11日
■松井康子 春 よ 10句 ≫読む
■横山尚弘 少年時代 10句 ≫読む
第256号 2012年3月18日
■涼野海音 春キャベツ 10句 ≫読む
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