写生の問題は死と欲望の問題である
四ッ谷 龍
≫承前
〔2〕
今回の特集にあたって彌榮浩樹は「いつ「写生」なのか ──私的感想として」という文章を寄せ、シンポジウムに関連して自説を提示している。この文章の最初の章は「“わからなさ”の推進力」と題され、次のように書かれている。
俳句というものの“わからなさ”。それが、僕が俳句に携わり続けている(携わり続けられている)最大の要因(のひとつ)です。このあたりの論述は私にはなかなか理解が困難である。なぜ氏は写生に関心を持つのだろうか。それは自分には「写生」がわからないからだ、と言うのだが、これはおかしい。なぜなら、彌榮氏はわからないことすべてに興味を持つわけではないはずだからだ。俳句には無数の問題があり、それらをすべて氏が理解しているわけではないだろう。その中で氏は「季語」「切れ字」「五・七・五という型」「俳」「写生」といった既成の手垢がついたタームを「意図的に選んで」関心を持っているのである。この選択の理由が隠されていることが、文章がわかりにくい理由である。
「季語」が、「切れ字」が、「五・七・五という型」が、「俳」が、わからない。だから、一句一句の作品をつくりながら、「季語」ってこういうものだろうか、とか、これが「俳」句ということなのだろうか、とか、考え続ける。(略)
「写生」も、そうです。僕は「写生」がわからないからこそ、一句一句、これが写生だろうか、という試論として、作品を作り続けている(作り続けられている)のです。しかし、そうした営為をなすためには、とりあえずの叩き台として、「写生」とはこういうものだろう、という論を自分にとって意味あるかたちで立てなければならない。そしてその論を、自分のつくる一句一句によって揺さぶり・壊し、さらに深い“わからなさ”へ向かって掘り進んでいかなければならない。
また、「わからない」ことが自分が俳句を作る推進力になっていると言うのだが、では「わかる」とはどういうことなのか、氏の文章を読んでいるだけではサッパリわからない。「わかる」ということがわからないので、「わからない」というのがどういうことかもわからないという、なんだかグルグルめぐりの謎に陥ってしまう。
そもそも、「わかる」とは何か。
「わかる」という語には、いろいろなレベルがある。
(a) 「三角形の内角の和は180度であるということがわかる」というような「わかる」は、「ある命題の真偽を合理的に判定できる」という意味である。
(b) 「赤信号は止まれ、青信号は進めという意味であることがわかる」とか「『犬』という語はワンワン吠える動物を指すものであるとわかる」いうのは、「シンボルするものとされるものの対応関係を理解している」という意味である。
(b)’シンボルの対応関係を理解できれば、その組み合わせによって世界像が確立し、「歩行者信号が青のときはたぶんトラックは突っ込んでこないから渡ろう」とか「『犬』は『猫』と違って吠えたり噛み付いたりするものもいるから気をつけよう」というような統合的判断が可能になる。
(c) それとは別のはたらきとして、「わかる」には「納得する」という意味も含まれる。取引先の社長から「今回は一つ、泣いてくれよ」と言われて「わかりました」と答えるときの「わかる」は、とりあえず納得したという意味。
ほかにもいろいろな「わかる」があると思うが、とりあえずこれくらいにしておこう。
彌榮氏が「写生がわからない」というのは、 (b)’の意味ではないかと推察する。写生とはどのような意味を持ちどのように機能するのかの体系全体を、理解はできないということなのだ。
この写生をめぐる考えを、一句一句の読みの場面へと投影して拡張したのが、次の部分である。
<いわゆる写生>とは「読者wにおいて、v(作品を読んだ結果として読者が感じ取る現実’)がx(作品のもととなった現実)の再現であることを狙いとする(v=xを果たす)言語作品z」なのだ、とでも定義すれば、僕たちの実感にかなり近くなるでしょう。つまり、作品zを享受したときに、「ああ、これ(v)はその通り(x)だなあ」と、概念で、イメージで、身体感覚で思わせる、そうした作品zだ、と。(略)つまり、作者は見たものを俳句で再現する、読者はそれを忠実に現実らしく再現して読むという、完全一対一対応のシステムを実現する試みを「いわゆる写生」と呼び、氏はそれを低く考えているわけだ。先ほどの(b)のようなシンボル対応がやすやすと成立してしまう俳句は、つまらない句であるということを言っている。
しかし、問題なのは、そうした<いわゆる写生>の句が、魅力的な俳句作品かどうか、です。魅力的な作品ではないものは、それがいくら<(いわゆる)写生>であっても仕方がない。そして、往々にして、<いわゆる写生>の句は、つまらない、というのも事実です。
では面白い写生句とはどういうものかと言えば、
作品zを読むことによって立ち現れる世界vは、今まで見慣れた世界xによく似ていながら、見慣れないその作品独自の感触を持つ。そうした作品は、僕たちに、慣れ親しんだ世界xでありながらそれを超えた強度を持つ、新しい世界Vを体験させる。すぐれた「写生」の作品zのリアルとは、そのような、現実でありながら現実を超えた強度をもつ、ヘンな、オドロキのある現実vです。だと言う。<ありのまま>を描いたものでありながら、かつ「ヘンである・オドロキを与える」ような「屈折した」句が、氏にとっての「『俳』句の味わい」があるものだということだ。
しかしこの氏の所論を読んでも、ではなぜヘンな、オドロキを与える、屈折した俳句が面白い句なのかという問いには、はっきりした答えが与えられないのだ。結局、わけがわからないから面白いということなのだろうが、ではわけがわからないとは何かといえば、屈折していることだという、どこまでいっても循環定義から抜けられない堂々巡りがあるだけなのである。
なぜこのような循環定義に陥るかといえば、それは彌榮氏が「わかる」ということを、先の(b)の水準で、現象的にしか考えていないからではないかと思う。シンボルするものとされるものの関係がどう機能しているかという「現象」は語れても、その現象が「意味」するものは、この論理からは導けないのである。
ここで、前章で取り上げた竹中宏氏の「写生の「中味」」という基調講演に戻って、わかる・わからないの問題を考えたい。
本当にオレの思ったように、世界は成り立っているのか、と、思うわけです。我々の外側には、我々の期待通りにはいかない外部の世界というものがある。自然と呼ぶか、あるいは外部と呼ぶべきか、そういうものはけっして期待どおりのものではない、不条理なものである、という。その不条理なものから目を逸らせないのが写生というものであると、氏は考えるわけである。
よく「自然」ということを言いますが、我々が意味的に限定して自然というものを作り上げるわけではない。所与の世界として、運命的に、この我々にかぶさってくるもののある部分を、自然と呼ぶわけです。
その所与の部分が、我々を「愛して」くれるかどうかは、分からない。必ずしも親和的にそれと交わることができるとも限らない。おそらくそうでない部分が大きい。それこそ、こちらの期待に過ぎないかもしれないわけです。
あるいは、その部分をコントロールすることができるかというと、それがおよばない部分がある。自然の中で、コントロールがおよぶ部分はごく一部であって、我々にとって野性的なものは、我々の向こう側にありながら、交わりを持たざるを得ないものとして、有無を言わさず我々に関わってくる。(竹中宏「写生の「中味」」)
自然を理解する・しない、わかる・わからないという問題を、氏は、先に挙げた区分でいえば(c)の次元で思考しているのである。つまり写生が扱うのは、われわれは所与の世界に納得できるかどうかというテーマであると言うのである。この点において竹中氏は彌榮氏よりも先のステップに進んでいると見るべきであろう。外部で起きる出来事を、われわれは納得すべきなのか、すべきでないのか。それは、(b)レベルのモノをどう言語化するかという技術論を超える問いである。
目を背けたくなる部分と言えば、我々にとっての絶対的な否定性であるところの「死」があります。絶対的に体験できない外っ側には、そういうものが、わかちがたく絡まり合って存在し、うごめいている。(同)納得できないことの最たるものは、死であろう。自分の死も大問題だが、とくに、子供の死や若い人の死は身に応える。どうせなら自分が死んだほうがまだましだったのに、なぜだ、なぜこんなことが起こったんだという問い。これには答えというものがない。文字どおり不条理である。納得はしない、しかし永遠に泣き続けるわけにもいかない、いつかは日常に戻らなければならない時か来る――心の中は悲しみ続けていても。
われわれがなぜ(俳句の)創作に取り組むのかという理由は、実はこの不条理とどう折り合いをつけるかということと深く関わっているように思う。先の震災のあと、津波に襲われた地域で、子供たちが「津波ごっこ」をしている様子が観察されたという。「津波だー」という声とともに皆がジャングルジムに駆け上がり、中には「遺体役」や「レスキュー隊役」を演じる子がいるという。子供たちは、恐怖の体験を再現することで、恐怖を外部化し、それを乗り越えようと、無意識のうちに試みているらしいのだ。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110528/edc11052822120004-n1.htm
同じように、われわれが俳句を作ろうとするのは、自分の内側にある悶々とした思いを形にしたい、それによって負い目から解放されたいという望みがあるからではないのだろうか。われわれが悶えずにはいられないマイナスの事象は生死の問題に限らないが、しかし死は人生最大の難事である。
流れ行く大根の葉の早さかな 高濱虚子
永田耕衣氏は、「誰もそういうことは指摘しないのだが、この虚子句は明らかに無常観を語ったものである」ということを言われていた。大根の葉がさっと流れていくように、われわれの人生もあっという間に終わってしまう。その哀しみを、理屈ではなく描写の形で視覚化したところが、この句が人口に膾炙する理由であろう。
づかづかと来て踊子にささやける 高野素十
この句はどうだろうか。踊の場にづかづかと来て、その場の雰囲気を打ち破る男。私はここに、「死神」のアナロジーを感じる。この句が記憶されるのは「づかづかと」という擬態語の強さによってであろう。その響きは、時間の流れを断ち切るような動きを感じさせる。そして時の流れを突然さえぎるものと言えば、「死」がどうしても連想されるのである。
われわれがどうしてもうまく制御することができない自然のことがらがもう一つある。それは「欲望」である。もっとありていに言えば、性の欲望である。生命力を持つ人間ならば、この欲望から自由である者はいない。それをわれわれはフロイトから学んでいる。
第二部の討論会で、岩城久治氏と竹中宏氏に次のようなやりとりがあった。
岩城 竹中氏と爽波とのエピソードで次のようなものがあるので、紹介しておきたい。「桔梗の花」のほうが優れている理由を、竹中氏は(あるいは爽波が、か?)こちらのほうが「非構成」だからだと言うのだが、私にはどうもこれは「カマトトぶった」発言に聞こえる。彌榮氏は、同じ二句について「どちらも、現実xからとりだされた景zですが、そこから立ち現れる「シュルレアル」は前者の方が強く、それは、読者wにとっては不気味さ、ヘンさとして感知されるものです。後者は、絵としてよくできていると感じさせるぶん、不気味さが弱い」と書いているが、「シュルレアル」とはこれもずいぶんひねくり回した感じかたに思える。
桔梗の花の中よりくもの糸 素十
くもの糸一すぢよぎる百合の前
爽波はこの2句について、ホトトギス俳句の<写生>の真実の差が二句の差にあらわれている、<写生>の機微を探る道である、と言った、ということである。
竹中 その会話はよく覚えている。後者のほうが構成的である、ということだ。
爽波の解釈では、前者の句は、「くもの糸」のことは明示的に書かれてはいないが、花からよれて垂れていることを感じさせる。後者は「一すぢ」に美的な緊張感がある。爽波は、後者の美的緊張の構成的表現ではなく、前者の非構成が<写生>だと評価した。
桔梗の句のほうが優れているのは、こちらのほうがエロチックだからである。つまり桔梗の花が女性器を連想させるからである。そこからくもの糸が出てくるというのは、さらに性行為にまで想像が及ぶ。「桔梗の花」の句は、性器ないし性交のメタファーの句と読むのが自然であるし、そう感じられないようではこの句をきちんと読んだことにはならないのではなかろうか。もちろん素十はこの句を作るとき、そんなことは考えていなかっただろうが、人間の無意識というのは恐ろしいもので、潜在的な欲望をちがう形に置き換えて作品の上に映し出し、そこへ読者を引き込む力を持っている。そして欲望を、それ自身とは別の形で視覚化するという行為には、欲望そのものが満たされるのとは違った救済の感覚がある。個別の欲望がより普遍的な欲望へと掬い上げられるような味わいがある。
写生の問題を方法論の問題として考えると、写生の意義は非常に貧しいものとしてしか捉えられないと思う。写生の問題は、いかに人間を困難から救済するかというテーマとして論じられるべきである。しかし人間の問題として捉えたとたん、議論のフィールドは「写生」という領域からすでに大きくはみ出していることも事実である。
( 了 )
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