橋本 直
初出『若竹』2012年2月号
(一部改変がある)
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『寒山落木』から子規が喀血してから亡くなるまでの間に「病」を詠み込んだ句を抜いて表にすると、下のようになる(類句も一句に数えた)。前に書いたとおり、現存しない二十二年作の「血のあや」があれば大きく数字は変わるかもしれないが、基本的に言えることは、日清戦争従軍をきっかけとして重篤に陥った明治二十八年夏から、病の句の数がはっきり増えている、ということである。ということは、仮定としては、このころから子規がファンタジーではなく本当に自身の死病を身体化しはじめたと考えていいのかもしれない。
しかし、この明治二八年における子規と病との観点において見出せる子規の身体観は、別の意味で大きな問題を内包している。近代以来今に到る、死と生の本音と建前である。
人間は宇宙間に或る一種の調和を得て生り出でたる若干元素のかたまりなり。(中略)死とは人間が其調和を失ひて再び元の若干元素に帰ることなり。肉団崩れて往生せし上からは酸素に貧富もなく炭素に貴賎もなし。之を平等無差別といふ。(中略)苟も死の避くべからざるを知らば焉ぞ疾病を懼れん。」(「疾病」〈初出「養痾雑記」連載の第一回。『日本』明治二八年八月二五日〉)要は貴賎貧富に関係なく死や病は公平に訪れるという話を子規はしているのだが、この連載の冒頭部分、いわば話のマクラで、自然科学の意匠をまとったかたちで身体観を語り、人は死ねば物質にもどるということも言っている。科学的事実だといえば確かにその通りであり、観念としては、あたかも自己を客観視しているような物言いで、人は死ねばモノにもどるのだという。しかし、本当に死に直面した経験をもつ子規にとって、これはいわば建前ではなかっただろうか。
一方の本音を探ってみよう。少し年数は遡るが、明治二三年に、同級生で同宿の清水則遠が脚気で急逝した。この時、子規はこの友人のために遠隔地の親族になり代わって喪主となり、葬儀全般の世話をしている。その清水の容体が悪化した時、子規は、その先を想像したことを回想している。
併し万一、あの男がしんだら、今いつた言も此世の聞きおさめだ、そうすると何だかあとがへんてこになつてしまうな、今まで一処にゐた人がゐなくなる、あのふとつた顔も、(中略)皆見えなくなるのだ(「清水則遠氏」『子規全集』第十巻「筆任勢第二篇」)もし人が死ねばモノ、と達観するなら、このような思いにはならないだろう。さらに、則遠の死後、埋葬にあたっては、
湯灌もせず 着物もかへず そのまゝにて棺へ入れ しきみの葉を買ひ来らしめしが 袋をこしらへるの余暇なき故 其儘にて棺内へつめたり。処々には肉体の現はれし処もありしが そこへ直接に枯れ葉の触れしは残酷なりき(同前。元の誤字「鑵」を「灌」に改めた)と、しきみの枯れ葉に埋もれる遺骸をみて「残酷」と感じてもいる。ここでは明らかに死体を単なるモノだと思っていないことが分かる。この子規のいわば本音と建て前は、現代人も何も変わっていない部分だと言えるのではないか。
日本の近代は、西洋のそれを引き受けるにあたって、文物だけではなく、それ以前のさまざまな観念をいったん水面下に押し込んでしまったが、それらは底流し今日に到る。この問題のややこしさが近年において世上で明瞭に顕在化したのは、脳死と臓器移植の議論が起きた一九九〇年代のことだが、すでに明治二〇年代の子規においても、自然科学的事実として死ねば物質といいつつ、本音としてはそうは思ってなかったであろうことは先の記述が示す通りである。
解剖医である養老孟司氏は、脳死の議論が賛否ともに死体がモノである前提で進んでいたり、解剖医への誤解があることに対する批判的文脈の中で、以下のように述べている。
きわめて率直に言うが、三十五年の間、死体がモノだと思えたことはない。モノだと恩師に教えられた覚えもない。モノだと思えたこともないのに、なぜ「死体をモノとして扱う」ことができるのだろうか。(中略)医師に、ふつうより残酷な人間が、どんどん輩出しないのはなぜか。(中略)「感性の慣れ」ではなく、観念が人を残酷にする。「ユダヤ人は劣等人種である」、そうしたヒットラーの観念、かなり多くの人々に共有されたであろうその観念が、強制収容所を生んだのだろうと私は思う。(『日本人の身体観の歴史』法蔵館 平成八年)扱われる問題は大きいが、養老氏のいう「観念」は、ここで述べた「建前」と置き換えられると考える。そして、さまざまなケースに敷衍して考えることができるだろう。それはこの百年を超える俳句の自然においても、例外ではないはずだ。
(つづく)
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