2013-02-17

足が美味な蛸としての私 金原まさ子句集『カルナヴァル』 関悦史

足が美味な蛸としての私
金原まさ子句集『カルナヴァル』

関悦史



金原まさ子の最新句集『カルナヴァル』は、先の第三句集『遊戯の家』にあった表現上の刺々しさは減ってきた気がするが、加虐性の毒が薄れたというわけでは全然ない。毒が他者だけではなく、自分をも包み込みはじめたのである。いわば作品世界全体が、食い、食われ、生滅する饗宴という形で熟してきたような格好。

その結果として、枯れたり、円熟したりというのとは似ても似つかない形で、幼児的欲望の世界に身を浸しつつも、あくまで正気のままその混沌を楽しむという奇観の目出度さが展開されることになった。

  猿のように抱かれ干しいちじくを欲る

抱かれているのが語り手自身であるとして、赤子のような無力さと庇護の中で、なおかつ干しいちじくに手を伸ばす姿は無心であどけないとも取れる。しかし「猿」と「干しいちじく」がどちらも柔らかくも皺のよった姿かたちであることを思えば、ここに描かれたのは、老とも幼とも、ヒトとも動物ともつかないものが持つ、非力にしてなお活発な欲望であり、それが居直り的開放感と毒気のもとにマニエリスティックに描き出されたさまは、無気味で、可愛らしい。

  エスカルゴ三匹食べて三匹嘔く

三匹食べて三匹嘔いてしまえば差し引きゼロで、栄養摂取上は何も食べていないのに等しい。味覚の上では堪能したのだろうから贅沢の極みともいえるのだが、ここで注目すべきは「三」の完結感である。カタツムリと語り手の身体は、組み合わさり、一つの文様のようなものとしてある完結に至った。初めからの拒食ではこの化合は成り立ちえない。食欲と衰弱を併せ持った身体ならではの、何の機能も果たさない機械のような運動体となることで、語り手は生産性、有用性から独立することになる。宇宙から離れた独自の系となったような風情であり、身体の不調と引き換えに、語り手は宇宙を睥睨する食卓を手に入れた。

同じカタツムリの句では、《グリーナウェイ「ZOO」より》と左注のついた《カタツムリたちのこわいお遊戯長廻し》なるものもある。

映画「ZOO」では、死に取りつかれて動物の腐敗を記録し続ける双子が、最後には自身カタツムリまみれの全裸となって横たわるに至る。

カタツムリにとって人体が栄養になるのかどうかは定かでないが、標準的な餌でないことは確かで、この「長廻し」も、ヒトとカタツムリが織り成す独自の系がはらむ、通常とは別の、恐怖と愉楽の時間を暗示していよう。

  わが足のああ耐えがたき美味われは蛸

食い、食われ、とは言うものの、そこは金原まさ子のことなので、自分が他者に食われる側になってしまう句はほとんど見当たらない。例外的に食われる句があったかと思いきや、ここでは何と食う側も自分である。

萩原朔太郎の「死なない蛸」は、水槽に置き去りにされて、自分で自分を食った挙句に消滅してしまい、純然たる意識体に化けてしまうが、あの閉塞感とはおよそかけ離れた、陶然たる自足と背徳、恐怖と愉楽が混然一体となった句である。集中の白眉ではあるまいか。

別に《中位のたましいだから中の鰻重》なる句もある。

食欲をそそるものでありさえすれば何でもいいわけではなく、料理はそのまま食う者の等級に直結してしまうのである。だから嘔いてしまうにも関わらず「エスカルゴ」が要求される。宇宙を睥睨するかのような「われ=蛸」となれば最高の美味であろう。

衰滅や背徳を含みつつも欲望をそそる何ものかがあり、自分が自分でありさえすれば、すなわちそれが祝祭なのである。

  時間切れです声を殺してとりかぶと

  深夜椿の声して二時間死に放題

  蝋燭の火が近づくよ秋のくれ

「時間切れです」の句には《わかってます。》との左注(?)がつく。

「とりかぶと」「椿」「蝋燭の火」なども寂しい心情を投影する対象などではさらさらなく、対話の相手たりえていることが活力の原因になっているのだが、かといってバフチン的な多声性で割り切ってしまうには、語り手の幼児的自己中心の愉楽が句の根底にしっかりありすぎる。

つまりは、対話も捕食のヴァリエーションに過ぎないのだろう。

逆にいえば「食う」ことが他者との対話の一種でもあるわけで、およそ尋常な料理が出て来ないのにも謂われがある。

この多声性と自己中心気質との特異な化合が、金原まさ子句の想像的宇宙を形作る原理である。そして別種の素材の化合とは、ほとんど料理そのものにほかならない。自分自身も料理となるのは当然なのだ。「われは蛸」の句は、そうした筋道を体現している。



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