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爽波の季題の使い方はなかなか特徴的ですが、今回鑑賞した句の中にある「七五三」という季題について、次のように述べています。
ごく大ざっぱに言って、この季題(引用者注「水澄む」のこと)で「水」に関係のある「もの」(言葉)が一句に詠い込まれているほど味気ないものはない。
いま丁度、「七五三」の時期で、この一週間ほどの間に沢山の「七五三」の句を見させられたが、初心の段階など既に通過したと思われる人の句の中からも、「子」が出てきて「親」が出てきて、晴着、風船、石段、鳥居、参道など、七五三詣りそのものに直接的に関わった「もの」(言葉)がぞろぞろ出てくるのには些かうんざりさせられた。
有季十七音というこの短い詩型。その中で概ねその貴重な五音を費やしているこの季題という存在を極めて表面的に、皮相的に取り扱っているのでは、それこそ「宝の持ち腐れ」ということだろう。
季題の背負っている時間的、空間的な奥行きと拡がりをフルに生かしてこそ、この詩型は短いながらも辛うじて他のジャンルに拮抗し得る。
「青」の人達はかなりの程度にこの辺の噛み砕きを心得た人が多いのだが、もうこれで充分という境地などあり得ない。ここらで充分などと思ったら、あとはその類型的使用の累々たる残骸を残すだけだ。
(波多野爽波「選後に」昭和五十七年十二月)
さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十八年」から「昭和五十九年」にかけて。今回鑑賞した句は、昭和五十八年から五十九年にかけての冬の句。十一月に「青」三十周年記念大会を催したという以外には特に年譜上の記事のない期間。
七五三泥鰌がちよろと底濁し 『骰子』(以下同)
七五三といえば親子連れや神社がすぐに思い浮かぶところだが、そういう要素は全て季語に語らせ、中七下五で視点を転じている。それほど深くない水に泥鰌の起こす泥煙。それによって逆説的に水の綺麗さも見え、神社を取り巻く辺りの自然の様子も窺い知れる。
毛皮脱ぎ置きてまつすぐ吾を見る
毛皮もかつては野趣溢れる防寒着だったのだろうが、現在ではファッションとしての要素が強い。掲句の毛皮の主も、高級な毛皮の似合う女性と読むのが妥当であろう。見られたこちらの方が気圧されてしまうような、気高さ、意思の強さを感じる視線である。
千鳥よく啼く靴の先ひかるとき
浜辺に佇み、自らの足元に視線を落とす。一歩を踏み出せば、靴の先が日の光を弾き返す。冷たい潮風の中を忙しく歩き回り飛び回る千鳥の声が鋭く響く。『鋪道の花』で見られた瑞々しい感性は、若さがもたらしたものではなく、爽波の中に息づき続けている。
風邪の身の大和に深く入りにけり
「身」の一字が物としての人間の身体、ひいては風邪による身体的不調を意識させ、「深く」との形容が大和の広大さを感じさせる。こうした的確な言葉の働きが、風邪を病む一人の人間と山深い大和の国との対比を、確かな実感と拡がりのあるものとしている。
次の句から「昭和五十九年」に入ります。
竹馬で来ても墓みち気味悪く
冬場の子供の遊びである竹馬。竹馬に乗ると何十cmか視点が高くなる。たった何十cmかの視点の移動が、解放感や昂揚感をもたらす。上手く乗れる者は、一時的に何だか少し偉くなったような気がするのである。それでも子供は子供、墓道はやっぱり気味悪い。
火を埋めるときに必ずうかぶ顔
火鉢や炬燵が暖房の主流であった時代には、冬には欠かすことのできない燃料だった炭。灰の中に炭火を埋めるのは、安全に長く炭を燃やす工夫。灰の掘り方や炭の置き方になかなかコツが要る。浮かんできた顔は、埋み火のコツを教えてくれた御仁であろうか。
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