「べき」との闘い、あるいは「コンビニ」との不貞行為
福田若之
まず、はじめに。僕はこの文章で、少なからず、うめいたり、わめいたり、ぼやいたりしてしまうかもしれないけれど、そのことによって特定の誰かを攻撃しようというのでは、まったくない。あえて言うなら、自分自身も含めて、誰もを攻撃(ないしは牽制)しようとしているのだと思う。
このところ、見ていてひどく心配なことがある。俳句のことだ。でも、すぐには俳句そのものの話をはじめることができない。ひとまず、心配の種は批評にあるのだ。
前、フジテレビで放送していた「トリビアの泉」(ああ、もう、ものすごく昔の番組みたいに思う)で、人間の笑いに関する研究をしている学者先生を集めて、彼らの理論をもとに理想の一発ギャグ(ダジャレだったかも)を作らせるという、きわめて阿呆な企画があった。とにかく面白くないギャグに仕上がっていたのだけが印象に残った。
彼らはおそらくそのどこかで、思いがけないところから飛び出してくるものを見逃したのだ。彼らの関心事は、もはや仲間たちの案が自分の基準としている理論に引っかかるかどうかでしかなく、理屈を超越したものはそうした場においては見逃されるか、こき下ろされて捨てられるかだ。
いまや、それぞれにあるべき俳句を規定しようとする(意図はなくとも、結果として、規定してしまっている)言説が媒体を問わず(もはや紙とかウェブとかいう二項対立の問題ではない。テレビ番組から、新聞の片隅、ツイッター上のささいなつぶやきに至るまで)溢れかえっていて、結果として、「コンビニ」とかいう言葉を使っている句は良い句になりえないとか、口承性がなければ名句ではありえないとかいった類の言説が、季語が入っていなければ俳句ではないとか、俳句は9・9・9の27音ぐらいが限界だとか、俳句は日本語でなければならないとかいう言説と同程度に持っている危なさに、僕たちはすっかり無頓着になってしまった。
いまでは、こうした言説の主張さえもまた、論理的に、いや、論法的に筋が通っているかどうかという点でのみ、その妥当性を判断されている。
ここに、極めて論理的な思考力を働かせて書かれた、しかも、読み手のおよそ誰もが理解できるように書かれた、あるべき俳句を規定しようとする言説が現れて、みんながその理屈にねじ伏せられてしまったとする。みんながその論理を基準にしか、読み手としても作り手としても俳句に向き合えなくなる。そのとき、僕らはくだらない俳句にまた一歩近づくだろう。たとえ、そのとき公衆の面前で引きまわしの憂き目にあう俳句が、その時点の僕らにとって、どんなに醜くみえるものであったとしてもだ。
あらかじめ俳句の理想像なるものが設定されていて、それにどの程度当てはまるかで半ば機械的に選別する仕事が批評ではないだろう。その仕事はもし必要とあらば発表前の自選の段階でなされているべきことであり、俳句との向き合い方は批評はおろか単に他者の句を選ぶというときにおいてさえすでに望ましくないと僕は考える。
マニュアルがあれば誰もが同じ選をできるような選をすることに、いったい何の意味があるのか。どうして僕は、句会のときに、ほかならぬあなたの選を、固唾を呑んで聞いているというのか。選とは、そして批評も、あなたがまったく理性的でない仕草で俳句と触れ合うときにこそ、あなたの行為として価値を帯びるのでないか。それにしても、俳句の批評は、いつからそんな工場の品質管理部門のルーチンワークと同等のものに落ちぶれてしまったというのか。
では、僕らが他人の俳句に対して理想像を設定することをやめるとき、批評になにができるのか。
ひとつ、提案する。俳句に限らず、僕らが作られたものに関してそれ自体の分析として何かしら書こうとするなら、基本は、
この作られたものは見ての通りこういう作りであり、そのことがこの作られたものにおいては、かくかくしかじかという効果(効果という言葉の持っている肯定的なニュアンスはここではない)を持っているorいない(と、言ってみることができる)。←学術論文ならここまでが書いて許される限界。
そこでorところでorしかしetc.、私はこの作られたものをこのように愛しますor愛しませんor憎みます(と、言ってみることができる)。←批評なら、上のことを満たした上でこのくらいまでが限界。
という意識で書くほうが、いい。と、これが僕の主張したいことなのである。
さて、このあたりで突っ込みが入る。
僕は、あるべき俳句を規定することを否定する一方で、あるべき批評を規定しようとしている。このことについて、言い訳としてこんなことを言いたくはない。俳句は芸術で、論文や批評は芸術ではない、とか。まず、論文や批評だって芸術でありうる。それは分かっているつもりだし、これとは、ちょっと話がずれている。
僕は、たぶん、俳句と批評とを天秤にかけて、批評のほうを「べき」に一旦売り渡したのだ(ちなみに学術論文はおそらく歴史上これまでずっと「べき」の支配下にありつづけてきた)。質にいれたようなものだ。これは、もちろん趣味にもとづく選択でもある。
だけど、それ以上に、俳句は批評によって「べき」の支配下に堕ちかねないが、批評は一度「べき」の支配下になっても自力で「べき」の支配から脱走可能である、という気がするのだ。
たとえば、あなたがロラン・バルト『批評と真実』を読むことは、まさにその批評をもってして、あなたの批評をおそらくただちに「べき」の支配のもとから解放するだろう。
だが、まず僕は俳句を解放しなければならない。
少なくとも、俳壇という空想上の風景が、空想上のものであるにもかかわらず、あたかもそれ自身が主体的に語り、具体的に権力を行使し得るかのように見えるという、たったその程度のことが原因で、どうやら僕の想像していたよりもずっと多くの人たちにとって、主要な関心事のひとつとならざるをえないらしい現在においては。
(と、言ってみることはできるか? どうなんだろう)
●
さて、言ってみることができるかはともかく、現に僕はここまで言ってしまったのだから、すかさず、そうした批評の実例を示さねばならないだろう。題材は、正直なところ何でもいいのだが、だからこそ、
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
がふさわしい。
すでに言われてきたこととして、この句の表現が描き出すのは、徹底して、この句の語り(この文章での後々の記述を鑑みて、ここで、あらかじめ強調するが、作者とはなんの関係もない)の主観である。「コンビニのおでんが好き」というのも、好みというもっとも主観的なことがらを語るものだし、「星きれい」という認識も、ひとまず、「星」という客観物に対する、主観的な認知なのである。
ところが、この句の語りは極めておおざっぱなのだ。
ローソンのおでんともファミリーマートのおでんともセブン‐イレブンのおでんとも明言されず、また、コンビニエンスストアのおでんといえば大根、玉子、はんぺん、こんにゃく、巾着、ウインナー巻き、つくね串など、多様な具が並んでいるのが常であるが、そのどれということもなく、この句はただ「コンビニのおでんが好き」と言うのである。「コンビニ」という略語は、こうしたおおざっぱな語り口のなかで極めて自然で妥当なものといえるだろう。もとより「コンビニエンスストア」などとしっかり言うような語りではないのだ。
そして、「コンビニのおでん」はついに詳細に描写されることはないのだが、「好き」という主観が語られることで、この「コンビニのおでん」は絶大な肯定感を帯びる。一人称小説でしばしば使われる手法だが、主人公が好意を抱く相手について、文章で描写されなければされないほど、読者の頭の中では、その人物がなぜか美形の人物として想像されるのである。
おおざっぱさは、「星きれい」という叙述にも一貫している。
どの星というわけでもなく「星きれい」、と表現する、格助詞や活用語尾がごく自然に省略されたようなこの語り口は、星空がきれいだ、ということに対する気づきとともにふと口を突いて出る、あの「星きれい」なのである。この「きれい」という主観も、絶大な肯定感を対象物の「星」ないしは星空に付加するものである。
しかし、この句のおおざっぱさの極めつけは、二つのおおざっぱな主観の表現をつなぐ形容動詞の連用形活用語尾「で」なのである。しかし、この「で」のおおざっぱさの説明は、かなりのところを読者諸氏の言語感覚に頼らざるをえない。
通常、散文の中で「コンビニのおでんが好きで」はどのようなつながりを期待するものなのだろうか。「コンビニのおでんが好きで、よくコンビニに行く」、「コンビニのおでんが好きで、中でもセブン‐イレブンのはんぺんはたまらない」、「コンビニのおでんが好きで、でも、おでん屋のおでんは食べたことがない」。これらの例から見て取れるように、通常、「で」が二つの文を接続する場合には、前後の文に何かしらの明白な論理関係が結ばれている。しかも、「でも」のような逆説的な記号が付加されていない場合には、その関係性には裏切りがないのが常である。
だからこそ、「コンビニのおでんが好きで、全財産を失った」といえば、コンビニのおでんを買いすぎたことが原因で破産した人物が想起されるのであり、「コンビニのおでんが好きで、コンビニ強盗の計画を立てた」となれば、その計画は、レジスターの札束よりはむしろカウンターに置かれたおでんを強奪するためのものなのではないか、と想像される。「コンビニのおでんが好きで、コンビニ強盗の計画を立てた」は、「コンビニのおでんが好きで、全財産を失い、コンビニ強盗の計画を立てた」というのとは、「コンビニのおでんが好き」と「コンビニ強盗の計画を立てた」の関係の強さがまったく異なるのである。
しかし、こうした散文の中で使われる普通の「で」の普通のあり方として「コンビニのおでんが好きで星きれい」の「で」を捉えることは困難である。
そもそも、星空がきれいだ、ということに対する単なる漠然とした気づきとしてある「星きれい」の前に、いかなる「で」が接続しうるというのか。
この句の「で」は、それが「で」である以上、あとに何かしらの論理関係を持った言葉が接続されることを期待するのだが、それは「星きれい」という気づきが思考に対して唐突に割り込んでくることによって裏切られるのである。そして、この「で」によって、その直前の言葉は宙吊りになり、文の全体は言い挿しのまま停止している。俳句の用語で言えば、この句はこの「で」によって切れているのである。
しかし、切れと一口に言っても、「で」は、あくまでも言い挿しであるために、語りの印象をひどく移り気なものにする。そして、もちろん、その移り気を「幼さ」の表れと受け取ることもできるが、句全体を覆っているおおざっぱさの表れとしても受け取ることもできるのである。
そして、このおおざっぱさのために、この句は、主観を描き出していながら、極めて匿名的な印象を与える、とさえ言うことができるのだ。
「コンビニのおでんが好きで星きれい」は、確かに主観を描き出しているが、その詳細を映し出してはいない。そして、そのために、読み手は、語りの人格を想像することに関してかなりの自由を与えられており、言ってしまえば、いくらでもいいように想像することが出来るようにされている。これもまた、一人称小説にしばしば見られる手法である。たとえば、主人公のごく平凡で匿名的な自己紹介から物語を始めることで、読者の頭の中に即座に都合のいい主人公を立ち上がらせて、すかさず読者を物語に引き込んでしまうやり方は、ライトノベルの語りの常套手段だろう。
さて、それでは僕はこの句に対してどういう感情を持つかというと、結局のところ、好きでもなければ、嫌いでもない。
いや、こと僕の場合には、好きにも、嫌いにもなれない、と言ったほうがより適格だろう。この句の語りは読み手である僕と主観の深いところで触れ合うことを拒んでいながら、同時に、僕のいいようにされることに対して、あまりにも無抵抗なのである。
しかし、この句は、こうしていいようにされることの対価として、いかにいいようにしたかを語ることを要求してくる。
僕がどうしたかはこれまで書いたとおりだ。結局のところ、僕は、この句にとって、たくさんいる客のひとりにすぎないのであり、また、一方で、僕にとってもこの句は、語ることを対価に遊ぶことができるような、たくさんあるテクストのひとつにすぎない。そんな相手を好きにも嫌いにもなりようがないだろう。
なにもこの句に限ったことではなく、批評の仕草は少なからず買春のそれに似ているようだ。
〈古池や蛙飛びこむ水の音 松尾芭蕉〉から〈麿、変? 高山れおな〉まで、すべての作品は批評家の前に売春婦として立ち現れ、批評家は多くの場合、およそ愛とは異なる欲情から、その作品を犯すことを試みる。その仕草には、啓蒙も理性も糞もないだろう。ましてや、政治など、言うまでもないことだ。僕は買春をしたいともしようとも思わないし、したこともないが、批評をしたいともしようとも思うし、ある程度はしてきたつもりなのである。
先に、題材は何でもいいのだが、だからこそ「コンビニのおでんが好きで星きれい」がふさわしい、と書いた。題材が何でもいいときにこの句に触れることがふさわしく思える理由は、この句が僕と上述のような関係を進んで構築しようとし、しかも、それが、買春的である批評において作品と批評家の典型的な関係であろうからに他ならないのである。この句と僕の関係を、
つはぶきはだんまりの花嫌ひな花 三橋鷹女
と僕の関係と比べるならば、それがどういうことなのかよりはっきりしてくるだろう。
「つはぶき」の句の語りは、明らかに僕との内面的な交渉を求めているのである。
「つはぶきはだんまりの花」だから「嫌ひな花」だというこの語りでは、その論理にまさしく個人的な好みのあり方が映し出されている。この語りがつわぶきを嫌いな理由は、それが「だんまりの花」だと彼女には感じられるからであり、この「だんまりの花」という表現はなるほどおおざっぱではあるが、その表現が読み手に想起させる印象は、むしろ読み手にとっては肯定感のあるものかもしれないのだ(「だんまりの花」と「しゃべくりの花」、あなたはどちらをより肯定的に捉えるだろうか)。
そうした読み手のもとでは、読み手の感性と語りの感性がぶつかりあうのであり、いや、共感するにしても同様に、読み手の感性と語りの感性は主観の深いところで触れ合うことになるのである。
そして、この句の語りは僕のいいようには決してならない。どう想像しようにも、それは、人前で「つはぶきはだんまりの花嫌ひな花」と堂々と一蹴するような、アクの強い語りなのだ。
しかし、僕はそのアクの強さもひっくるめて、ついにはこの句をすこし愛する。やはりこの句にとっても僕はたくさんいる客のひとりにすぎないのかもしれないが、僕は、この語りに会えてよかったと感じる。言ってしまえば、僕は批評の上で、一線を越えそうになるのだ。
ところで、僕はこの句をすこしにしても愛することを表明しながら、同時に、この語りがつわぶきの花について語るその語り方が、僕があるべきだと主張する批評が作品について語るだろう語り方とまるで似通っているという、この奇妙にも必然にも思える事実に対して、気づかないふりをしてはいられない。
僕が要求しているのは、結局、読み手の感性と語りの感性とが主観の深いところで触れ合うことを拒まないような、そしてそれゆえにこそ、語りの意見を尊重しながら議論を展開できるような、批評なのかもしれない。
もちろん、年齢の如何に関らず、僕ないしは僕ら(とはそもそも何者たちなのだろう?)に対して、無闇に媚を売ってもらう必要も、迎合してもらう必要もさらさらない。そんなことはまっぴらごめんだ。
しかし、僕ら(僕と、あなた、すべてのあなた)が触れ合うためには、僕らの感性について、きっと今なされているよりもずっと多くの説明が必要で、実のところ「べき」論というのは、多くの場合、どうしたことか、その感性のあり方自体が自明なものとして片付けられてしまい、結果として、そうした説明があまりにも不足したままにされてしまっている論なのである。
いや、こんなことが言いたかったんじゃないな。僕の言いたかったことは、こうだったはずだ。
僕の感性にとって、「べき」論とは、自分の空想の中にある理想のセックス・マシーン(しかしその姿には常にピンク色のもやがかかっていて、足の親指のかたちさえ判然としない)を現実に追い求めるあまり、目の前の売春婦(たとえ彼女の耳の裏に巨大なほくろがあって、それを舐めることについてはあなたの美意識はあくまでも拒絶するとしても、あなたは彼女に人間としての尊厳を認めてしかるべきだ。ここにいたって、耳の裏にほくろのあるおまえなんか女だと認めない、などと罵声を浴びせる傲慢がなぜ許されよう)と行為に及ぶことさえままならなかったという、残念な報告に過ぎないのである。
……いや、これだけでは誹謗中傷と受け取られても仕方がない。撤回して、真面目に言い直そう。結局のところ、僕の感性にとって、「べき」論とは、自分の空想の中にある理想の俳句を現実に追い求めるあまり、目の前の作品をそれとして楽しむことさえままならなかったという、残念な報告にすぎないのである。それでは、作品があまりにも不憫ではないか。
さあ、こうして今では僕のほうが売春婦だ。どうですか?
僕はあなた(もちろん、すべてのあなた)に、買われる覚悟もあるのだけれど。
●
感服。
返信削除いいね!
返信削除セックス・マシーンのあたりで吹き出しました。
いいね!
返信削除たくさん線をひきたくなりましたよ。
いくつか、この場をお借りして申し上げたいことがあります。
返信削除まず、多くの方に不快感を与えたことについて、謝りたいと思います。申し訳ありません。
そして、こんな悪文を少しでもお読みくださり、肯定にしろ否定にしろ、何かしらの感想や考えをお持ちいただけた方々に感謝申し上げたいと思います。ありがとうございます。
批判は、もちろん受けるつもりでいます。僕自身、始めから、この批評を完璧などと思ってはおりません。
そして、批判を受けるにあたり、僕が批評を買春に喩えたことの動機を説明する必要を感じました。そのほうが、僕自身の問題も、僕の批評の問題も、はっきりすると考えたからです。
まず、当然のこととして、たんに批評の性質について語るのならば、なにもこんな喩えをする必要もないでしょうし、そもそも喩えの必要もないことはもちろんです。
しかし、いくつかの理由から、僕はやむをえずこの言葉を選びました。それが僕の資質の上での限界だということは、もちろん、その通りです。
では、この比喩を使った理由を書きます。
第一に、批評という仕草や、作品と批評とがとりおこなわれるシステム、そして、批評されることや、なされた批評の主張を前提に作品を書くこと(仮の話です。そのような作品についてこの文章で例を出したつもりはありません)の全部が、捉えようによっては、読み書きの快楽のあり方としてとても気持ちの悪いものであると同時に暴力的でもあるものだということ、そして僕自身、批評をそのようなものとして感じているということを、感じていただくためです。
第二に、そのことと、またこの表現それ自体を通じて、批評が政治的な力を持つといった前提を頭よりはむしろ心の中から取り払っていただくためです。批評が誰かを説得するものでなく、たんにひとつの文章として、楽しまれたり憎まれたりしながら読まれるようになれば、そのなかに「べき」という主張が入ることには、少なくとも危険性はなくなるでしょう。
第三に、僕の批評自体もまた、短絡的で情緒的な面の強い、下らない、とるに足らないものとして扱っていただくためです。矛盾するようですが、僕も批評の部分規制などできればしたくない。だから、あまり無批判に信じられることのないだろう文章にしました。
以上、三つの事柄については、僕は文章のなかで理屈で説明するのでは全く意味がなく、だから、語彙が喚起するであろう感情に、これらのことを託そうとしました。そして、語彙が喚起する感情の個人間でのぶれに配慮して、僕があくまでも広く世間に通用しているイメージを中心に据えてこの語彙を使用していることを強調しました。
批判にあたっては、僕ないしこの文章を名指す必要もないと考えます。僕自身、この批評でそうしたことを行っていません。
最後になりますが、こちらが皆様の心象を害したのですから、僕の人格を批判することももちろん構いませんが、それに対しては、少なくともいましばらくは、これ以上お答えしようがありません。
以上、お目汚し失礼いたしました。
ウェブメディアの危険性と脆さを感じた。
返信削除即時性アップ、検閲環ゼロの環境は、ひとから「完璧な批評文」を書かせる意欲を鼻から失わせるらしい。残念でならない。
「完璧な批評文」を書くことに対する僕の意欲と、ウェブメディアの性質やこのサイトのスタンスとは関係ありません。
返信削除批評というものをグロテスクで暴力的なものと感じる僕にとって、批判しようがないという意味で「完璧な批評文」ほどグロテスクで暴力的な批評文はありません。それを目指すことを僕はむしろ意欲的に避けます。
田中様 「週刊俳句」運営の上田です。当記事は、福田さんより投稿され、意見交換の上、掲載しました。
返信削除ご指摘の「危険性と脆さ」について、具体的にご教示いただければ、幸甚です。
むしろ意欲的に避ける、というのは日本語のセンテンスとしてすんなり入ってくるものではない。
返信削除福田氏の文章は、このようなギミックを多用しており、読みずらいことこの上ない。
批評文としては、まず日本語の勉強からやりなおさなければならないレベルのものであって、なぜ運営側はその検閲をしなかったのか、説明できますか。
福田さんの文章は、わかりやすく、読みやすかったです。
返信削除(すこし長すぎますが)
「ギミック」とか「読みずらい」とか「この上ない」とか「日本語の勉強」とか「検閲」とか、私には田中恭平さんのコメントのほうがよほど意味不明でした。
あなたも日本語初学者の列に加わることをお薦めする、としか言いようがない。
返信削除「べき」、面白かったです。山本七平の『空気の研究』で成功例がありますが、正体のないものを率直に語るというのは実はかなり難しい。
返信削除普通、書いているうちに文章上のアルゴリズムのようなものに巻き込まれてしまうものですが、流石です。
惜しむらくは、私ではない方の田中さんの仰っているように(と、勝手に思っているのですが)、webだと文字制限がない上に、横書きで縦にロールするという、日本語にとってのデメリットがああり、レトリックを途中で見失ってしまう可能性が高いのと、詠み手の思考が重要でない箇所に引っかかりやすいということでしょうか。
田中恭平さん。上のほうにある「匿名さん」です。もうすこし説明したほうがいいようなので、付け加えます。
返信削除「ずらい」という誤記はともかくとして、「このうえない」や「検閲」という言葉の意味をわかって使われているのでしょうか? さらには「ギミック」の用い方もアヤシイ。短いコメントのなかに、こんなにたびたび首をかしげるような箇所が出てくる文章を書く方が、他人に対して「まず日本語の勉強を」などとおっしゃることにちょっと驚いたのです。
一般に、他人に対して「日本語がなってない」「日本語の勉強をしろ」なんてことは、うかつに言うものではありません。
福田さんのこの文章は、読みにくい、わかりにくいという人もいれば、そうじゃない人もいます。ダメだと言う人もいれば、良いと言う人もいます。読んだ人が各自判断したり感想を持ったりすればいいことでしょう。それで何か問題があるとは思えないのです。
福田さんのこの批評から読みにくさとか傲慢な喩えを取ったらほとんど何も残らないと思います。末尾の、真面目になっているところなど、読んでも今更言わなくてもよいことのような気がして、むしろ、この文章が状況に対して痙攣的に書かれた感じを強めるのに一役買っているだけの添え物ようにさえみえます。でも、今更言わなくてもよいことを書かないといけないと思った、その傲慢で独りよがりな義憤は尊いと思います。こういう批評のあり方を僕は支持します。
返信削除twitterに以下の内容を投稿しました。以下ほぼコピペです。
返信削除@jurius1202 さま。「週刊俳句」の上田信治です。福田さんの「「べき」との闘い、あるいは「コンビニ」との不貞行為」について、なかば運営側の人間として、なかば個人としてのの見解を書きます。
福田さん論考発表時の、ツイッターでのやりとり、拝見しました。複数の方から、「買春」という言葉が、関係のない文脈で不用意に使われることへの不快感が表明されていました。そのことについて、掲載する側が、もっと考えないといけない、というのが@jurius1202 さんのご意見だったと理解しています。
文中の「買春」は、たとえであり、それは言葉の表現上のことです。運営側として、それが、ただ言葉の表現上の問題であれば、この表現はNGという判断はしません。それは、つまるところ「お行儀」の問題だからです。
もし、その文章が、思想・表現ともに「載せたくない」と思わせるものであれば、それはケースバイケースで対応します。しかし、お行儀の悪さをとがめて、その場を品よく保つことは、結果的にメリットよりデメリットのほうが大きくなると考えます。
そして、福田さん論考の内容は掲載の意義のあるもので、問題になっている「買春」のたとえにも必然性があると、個人的には考えます(運営スタッフ内でも、「買春」のたとえは好きではないという声はありました)。
「買春」のたとえは、「コンビニ」の句が、1.作品を離れて、評者の倫理観、女性観にもとづいて、語られている。2.にもかかわらず、作中主体は作者とイコールではないことが句にはっきり書きこまれている。3.そこに、愛を求める評者と作者の買春的すれちがいが生じる。
というかなり混み入った話を、明示的にも暗示的にも了解させようという主旨のものであろうかと思われます。なおかつ、4.「べき」論というものは、買うべき「女」にもたどりついていないのだから、論の名に値しないというところまで展開させている。
こちらでは、当該論考の未熟さ不完全さを指摘する声もありました。たしかに書き急いでくどくなっている箇所はあるとはいえ、とても、よく考え込まれた内容だと思います。
そして、結論としては、作品と読者が「主観の深いところで触れ合うこと」ことが、いい関係だと思う、と、控えめに、伝統的文学観にもとづく主張をしている。これ、どう読んでも「買春はよくない(つまらない)」っていう結論ですよね。いい青年じゃないですかw
個人的には「つわぶき」の句の本当っぽさより、「コンビニ」の句のメタっぽさのほうがずっと好ましいし、新しいと思いますが。。。