2013-03-10

俳句の自然 子規への遡行15 橋本直

俳句の自然 子規への遡行15



橋本 直
初出『若竹』2012年4月号
(一部改変がある)
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『俳句』2012年3月号の特集は「東日本大震災から一年。いま俳句は―自然を詠む、人間を詠む」であった。本稿のテーマに深く関わる内容だけに、少し所感を述べておきたい。

たとえば、評論家の柳田邦男氏は「日本人の心の形の特質(中略)すなわち、日本人においては、万葉の時代以来ずっと、人間(表現者)と自然との関係が融合し一体となっているのである」と述べ、対する西洋の自然を対象化して支配する思想が人類の未来を危うくするものだと批判する。この氏の述べている自然と人間の「融合」は、前回書いたように、すでに明治の若き虚子も「深く同感して天然と融化す」と言っていたように、日本人の自然観の語り口の常套であり、それに基づく西洋との二項対立についての指摘もまたしかりである。さらに、日本人の荒ぶる自然への「畏怖」をつけ足せば、この論調はワンセット揃うが、この百年、それらがナショナルな気分を支えるレベルを超える意味で何か人の役に立った試しはないように思うのだが、どうだろうか。

一方、琵琶湖博物館館長の篠原徹氏は、大筋では従来の観点通りなのだが、俳句が古代由来の自然との共感を維持してきたのは、俳諧や俳句が今回ほどの大地震や大津波に直接遭遇したことがない(千年に一回の規模、ということを踏まえてだろう)からではないか、という内容を述べている点が、文明史観として非常に興味深い。

が、例えば関東大震災や阪神淡路大震災には大海嘯がなかったとはいえ、江戸以来大地震と大津波に襲われたことは複数あったわけで、現象以前に、自然災害の総体を一人の表現者が感受できうる限度を区分するものさしにやや違和感を覚える。仮にこれまでそうだったとしても、今回の大震災は、むしろ間接経験としてこれほど大量の情報が共有されたことがなかったことが、俳句にとってまったく新しい事態なのではないか。

また、中西進氏は、今時の震災とは無関係に、「マナ」(非人格的・超自然的な力の観念)や「ライフ・インデックス」(自然物の中にそれぞれの人間の運命を見出そうとするもの)という民俗学に興味がなければあまりなじみのない用語を引いて、「自然物のそれぞれから、生命力を索引することが俳句における自然の導入であるはずだ」と述べている。これは本特集にあって先の「自然との融合」のありように一歩踏み込んだ視点を提供されたものであり、大変興味深いのだが、そちらの学問領域は素人なので、「マナ」を引くのであれば、いわゆるアニマティズムとアニミズムの違いなどは明確にする必要はないのだろうかという疑問をもった。紙幅がないこともあってか氏は特に述べられないが、例えば前回述べたように、虚子の自然は基本アニミスティックで、人格的に捉えられているのだが、そうすると中西氏の述べる俳句の本質たる「自然からの生命の索引」とは異なるものになるのではないかと思う。この点は今後継続して考えたい。

ここで件の雑誌特集とは違う文を一つ引く。
西洋での神の役割を、日本の二〇〇〇年の歴史の中で演じてきたのは、感覚的な「自然」である。その結果、形而上学ではなく独特の芸術が栄え、思想的な文化ではなく、感覚的な文化が洗練された。
(加藤周一「近代日本の文明史的位置」)
ここで加藤氏の言う「感覚的な『自然』」とは、いわゆる八百万の神々のことだろう。古来、季節の訪れを知らせる草木や、地震や台風などの天変地異に対して、人がそれをどう感応してきたのかが抽象された「感覚」は、先に述べた自然への「畏怖」がその代表といえよう。筆者は、加藤氏の述べる「西洋での神」も、スピノザのような見方でいえば「マナ」とつうじる回路が開くのではないかという突飛な思いつきにとらわれたりもする。

よく知りもしない部分で迂闊なことは書けないのであるが、二項対立的に西洋の神に対置される日本の八百万の神々とは、一体なんなのだろう。また、一体化して結びついているはずの自然(神)を、いとも容易く破壊しもすれば、その賛歌も詠めるという日本人の思想観念を、どういう風に考えれば良いのだろうか。以下、前に考えた筆者の仮説である。

幕末以降の日本は、常に目の前の現実への否応なしの対処の必要に迫られ、国を挙げて先進国を追いかける状況にあった。そのため、徳川治世の安定したように見える期間を軸に見れば、常に世界の相貌は変転する仮象であり、真の世界とは思えない。ゆえに、そこで起こるリアルな自然破壊も仮象であり、メタレベルでの自然は真正の不易のものとしてあるにちがいない、と概念化しているのではないか。

すなわち、可変の対象(表象し、破壊される自然)には必ず不易の本質(人間のレベルを超えて無垢の、畏怖の対象たる不易の自然)があり、同様に、可変の我(常に状況に対応する私)には必ず不易の本質(無垢の、ほんとうの私)があって、この「不易の自然」と「ほんとうの私」が紐帯し、「真の世界」を構成しているというのが、近代以降の日本人のありがちな自然概念の姿ではなかったろうか。

例えば「暗夜行路」の終末のように、近代日本文学においては、本当の私と本当の自然が結びついて私が救われる物語が複数生産される。一方、可変の対象はほんとうの自然ではないという詭弁論理も成立するから、その中で自然破壊に目をつぶることも可能になる。それらは「ほんとうではない自然」だから、自己の本性に随って障害と見なせば、壊しても畏怖の対象ではない。

こう仮定すると、いま言われる自然との一体感も、実は徳川時代にすりこまれた安心の感覚を前提に近代人が練り上げた、不安への対抗手段としての一つの観念に過ぎないのではないか、という疑問がわいてくるのである。

(つづく)

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