菊田島椿
拝啓
西村聴雨祭俳句大会でお会いしたのはついこの間思っておりましたのにアッと言う間に師走、今年もあと半月となってしまいました。テレビでは秋田、山形の猛吹雪を報じておりますが、小林さんいよいよご壮健にご活躍の事お喜び申し上げます。
さて、聴雨祭大会の後、早速に小原啄葉先生著句集「黒い浪」のご恵贈を賜りましたのに御礼が遅れてしまい真に申し訳ありません。「黒い浪」は一ページに一句の句集ですので四五日で読み終わるだろうと思いながら開きました。それが、
地鳴り海鳴り春の黒浪猛り来る
の句に差しかかりましたら、もう怖くて読めないのです。
三月十一日、私は早期胃がんの手術が回復し、退院の日でした。入院に持参した荷物を嫁の運転する軽四輪に積み、家内と嫁と三人で、午後二時三十分気仙沼発のフェリーに乗船、大島の自宅に向かったのですが、船が島に着岸の五十メートルほど手前で、あの大地震に遭遇したのでした。船が激しく振動し、初め、エンジンの故障かと思ったのですが、家々の屋根瓦がズリ落ち壁が崩れ、電線が大きくゆれるのを目撃し、大地震であることがわかりました。フェリーが接岸と同時に大津波襲来が広報塔から放送され、私たちは自宅に寄らず高台に避難しました。津波襲来まで三十分ほど間がありましたが、退院したばかりですし、雪のちらつく寒い日でしたので車から離れずにいたのですが、やがて、物凄い音と共に瓦屋根の家々が田圃の中を押し流されて来るのを目のあたりにしました。私の家はトタン葺きですぐ流されて来そうでしたがその中には見えませんでした。多分、波に直ぐ壊され引き波に攫われ海へ流されたものと思います。その時の波の色は、実は夢中で記憶になかったのですが、いろいろな人の話し、後で見たビデオで灰色であることが確かめられました。
退院の荷物のほかは着の身着のままの無一物となり、その日から避難所暮らしが始まったのでした。
春寒し万波の渦に人踠く 啄葉
人を呑み人吐き出して春怒涛
唐桑半島先端の御崎と云うところに三十年ほど前に「津波体験館」が設立され、地震の震度を体験したり、明治の津波、昭和八年の三陸沖地震津波の資料等が陳列してあって津波に対するいろいろな知識や体験をすることが出来ます。その中に家と共に人々が波に翻弄され助けを求めている五十号ほどの絵画が展示されています。私はそれを見るたびにデフォルメした表現だと思ってきたのですが、今回それが間違っていたことをはっきり知らされました。
私の家のすぐ後ろの家の夫婦が逃げ遅れ、爺さんは見つかりましたが婆ちゃんは行方不明です。また、私の本家でよそに嫁いだ娘の幼な友達がやはり夫婦ともに流され、今もって行方不明。又、私の教え子の女孫が小学校入学を前にして皆が見ている前を流されて行ったそうです。
春泥のわらへのかたち掻き抱く 啄葉
春泥へ並べ丸太の裸体なる
春渚ただよふものにランドセル
どの句を読んでもあの日の惨劇がまざまざと甦えり、先に進みません。
春泥の位牌をすすぐ雨水溝 啄葉
位牌を見つけ泥を洗い落す、幸いです。あの日津波襲来まで三十分ほど間がありました。避難の場所から自宅まで十分もかからないで行けたのです。せめて位牌ぐらいは持ちだせる時間があったはずなのですが、家と共に流失してしまいました。
お位牌の流失詫びて墓洗ふ 島椿
しかし、大島で犠牲になった人達三十数人の半数近くが避難の途中、家や浜に戻って逃げ遅れ、波に呑まれたのでした。また、これも私の教え子ですが、透析療養をしていて寝たきりになっている九十余歳の母親を背負って逃げ出すことが至難で、母親に「俺にかまわないで逃げろ逃げろ」と励まされ、母を置いたまま避難し、避難所で泣きじゃくる姿にもらい泣きしました。
三陸地方の津波被害については昔からいろいろ語り継がれ、近い将来かなりの確率で大地震と大津波が襲来するであろうことは予想できたのですが、その予想をはるかに越えた巨大津波の襲来はまさに「未曾有」の言葉がぴったりでした。
テレビや報道写真等で地震による津波襲来や各地の惨憺たる状況等はすでにご存知と思いますが、地元の三陸新報社がまとめ「写真集」をお送りします。それと照らし合わせながら「黒い浪」を読むと句のいちいちが一層鮮明になります。俳句はこのように詠むものなのかと感動の連続でした。
私の場合は家の裏の風よけの居久根の大杉三本が残っただけで樹齢二百年と言われる屋敷内の椿の木が家屋もろとも、根こそぎ攫われるという物凄さで、残った杉の木の十メートルも高い枝に流されて来た漁具が引っ掛かっており、波がいかに高かったか容易に判明される有様でした。ただ、家屋と共に一切を失いましたが、タイミングよく高台に避難し、命拾いをしたのは本当に幸いでした。
小林さんお話の民宿南前さんのご一家のことは本当に痛ましいことでした。そのあたりの集落の被災は実に惨澹たるものです。南前さんの菩提寺が聴雨祭のときにお話しした地福寺というお寺ですが、地福寺では檀家の人達百五十余人が犠牲になりました。墓地が海のすぐ側にあって完全に水浸しになり全然使えないので、亡くなられた方々の遺骨は仮の納骨堂を境内に建て安置しています。それで南前さんへの回向は地福寺を訪問されるようにお話したわけです。
やどかりになつて来ぬかと妹を待つ 啄葉
地福寺の秀光和尚は私の従弟ですがこの八月に会ったとき、「檀家のあるお婆さんから、『和尚さん小指一本でもいいから浜に寄り上がっていないだろうかと毎朝浜を探して歩いでんの』と話されたときは堪えきれずに哭いだ」と話していましたが、「黒い浪」の掲句に出会ったとき、和尚の話しを想いだして私が涙をこらえきれませんでした。
春の海髪一本も見つからぬ 照井翠
お婆さんの述懐、啄葉句、翠句、それぞれ同じ心境でそのような人が被災地に数え切れないくらいいる事を忘れてはならないと思いました。
被災地は被災地のまままた冬へ 信子
先日の例会に出た俳句仲間の句です。
被災地は二年目の冬となりました。句集「黒い浪」に勇気づけられ乍らこの冬を乗り切りたいと思っております。
おしまいになりましたが小林さんの一層の御健勝とご活躍をご祈念申し上げ、句集恵贈の御礼の詞といたします。
敬 具
小林輝子様
平成二十四年十二月十五日
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