2014-08-17

成分表62 幸福 上田信治

成分表62 幸福

上田信治



「里」2011年6月号より改稿転載


「ヘーゼルナッツチョコレート」という名前のバンドというか歌手のソロプロジェクトがあり、自ら略して「へなちょこ」と名乗っていた。

そんな、弱さとダメさを前面に出すような名前でいいのか思う人もいるかもしれないが、その名前には、強さや立派さと別のところに価値を見出して私はやっていきますよ、というメッセージがこめられている。

このように言葉には、作用反作用のように、逆方向のメッセージを生じさせるということがある。分かってやっているのだから、「へなちょこ」と名乗ることは、弱さを擬態する厚かましさの表明でもある。

そういえば、むかし「劇団健康」という演劇グループがあって、たいへん不健康な印象を振りまいていた。自ら「健康」と名乗るなんて、よっぽど、よっぽどな人たちなのだろうというわけだ。

かつての男性たちの世間では(今もか?)「人生は勝負だ」というようなことが真顔で「本音」として言われたものだけれど、聞こえるのは悲鳴のような「負けたくない」という声だけだ。昨今、日本のある階層の人たちがめちゃくちゃな方法で「勝ち」に行っているのは、手ひどい「負け」がすぐそこに見えているからかもしれない。

プロ野球の監督が四人、シーズン前に「今年の目標は」と質問され、三人目までは「もちろん優勝です」と答えるのだが、四人目の老監督だけは「選手の幸福です」と答える。

それはいしいひさいちの4コマ漫画で、万年最下位の時代のヤクルト関根監督らしき人物がそう言うのが大いに可笑しかったのだが、いま考えると、まったく笑いごとではない。自分たちが野球などを見ていて、本当に見たいものとは、まさにそれではないか。

人の行為には、反響や波紋や倍音のようなメタレベルのあれこれが生じているもので、人にはそれらがすべて聴こえている。

それは、すべて、その人が価値とするものは何かについての告白であり、見ている人はそれを感じている。

そして、全ての価値は「よろこび」としてつながっているのだけれど、スポーツにおいて「勝利」が実体的な価値であるとすれば、「選手の幸福」は一段階メタな抽象の次元にある価値である。

自分が属する集団が「勝ってうれしい」というよろこびと、「選手の幸福」は、同じ場所に次元を異にしてある。

それはよろこびの深さの次元である。

  幸福に小鳥の頃は小鳥来て  富安風生


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