俳句は四拍子なのか
佐藤栄作
取り巻く環境にも、日本語にも変化が生じたはずなのに、万葉の昔に成立した五七を基本とする日本の律文は、1000年以上の時を経て、今なお五であり七であることを変えていません。
明治以降、この「五七の謎」を科学の力で読み解こうと試みた研究は数多くあり、様々な実験も行われました。そういう実験やデータ分析によって、少なくとも現代の五七は、休拍を含めて、実は八八の枠組みの中にあるのだという「事実」が裏付けられつつあります(小磯・渡部2014など)。
「事実」とは何かというと、五七(あるいは五七五)を声に出して読んでみると、五(上五)の後に長めのポーズが置かれるということです。本当にそうなのでしょうか。
次の句の場合、文構造としてとらえるなら、現代人がこれを読むとき、「五月雨や」の後に休止を置くことには何の疑問もありません。
五月雨や大河を前に家二軒 蕪村
しかし、問題なるのは、次の句のような場合です。
五月雨の降り残してや光堂 芭蕉
こちらは、「五月雨の」の後よりも、「降り残してや」の後の方が大きな切れ目のはずです。つまりは、「五月雨の」の句においても、次のように読まれるかどうかです。(「・・・」はポーズ)
サミダレノ・・・・・・フリノコシテヤ・・・ヒカリドー
俳句を分析する際、初句で「切れ」のある句が大量に含まれた母体を用いたのでは、上五の後の長めの休止の存在は証明できたことにはならないでしょう。いや、「五月雨の」の句でも、「五月雨や」のような句と続けて読んだのでは、同じようになってしまうかもしれません。そういうことのないように、桐越2012は無意味語を用い、小磯・渡部2014は単語の入れ換えを用いました。
桐越は、「pa」「ba」「sa」「za」をそれぞれ17個並べ、「俳句として」読んでもらうという実験をしています〔注1〕。小磯・渡部は、「ヤギ タヌキ(休止)ミノムシ コアラ」、「コアラ タヌキ(休止)ワニ トナカイ」などの「5+7」や「6+6」に、長さの異なる休止を入れて被験者に聞かせ、どのくらいの長さの休止が「リズムが良いと感じるか」を調査しています。前者では、上五の後のポーズが中七の後より明らかに長く、後者では、5拍と7拍の間に3拍分の休止を置いた場合に「リズムが良い」の回答が一番多くなっています。
こうなると、現代人は、確かに五七五の上五の後に長めの休止が置かれたとき、いいリズムだと感じることを認めないわけにはいきません。つまり、現代人にとって、五七五の律文を律文らしく調子よく読む(これを以下、坂野信彦1996を参考にし、「律読」と呼ぶことにしましょう)というのは、おおよそ次のような枠組みで読むことなのです。(「・」は休拍)
○○○○○・・・○○○○○○○・○○○○○ 〔注2〕
このことは、現代人が常に8拍を一まとまりとして、しゃべったり、文を読んだりしていることを証明したのではありません。私は、次のような動物名の並べ替え調査を毎年しています(佐藤栄作2014)が、「ゾウ」と「キリン」と「ライオン」と「マントヒヒ」とを、自分の好きな順に並べ替えよ、という指示の後、
①「ライオン」と「ゾウ」と「キリン」と「マントヒヒ」
②「ライオン」と「キリン」と「ゾウ」と「マントヒヒ」
「この順番のとき、実は五七五になる」と種明かしするまで、ほとんどの被験者(受講生)は気がつきません。気が付いたとたんに、この二つ以外の順番、たとえば、
③「ライオン」と「マントヒヒ」と「ゾウ」と「キリン」
④「キリン」と「ライオン」と「ゾウ」と「マントヒヒ」
などが、単なる単語の羅列と感じられるのに、五七五の二つだけは調子がいい、と多くの者が言い出します。その時のリズムが、おそらくは、
ライオント・・・ゾートキリント・マントヒヒ
ライオント・・・キリントゾート・マントヒヒ
なのでしょう。気付いてしまうと、「「ライオン」と」の後にポーズを入れないわけにはいかなくなるという趣旨の発言をした被験者もいました。
さらに、6拍であっても、最後が特殊拍(長音、撥音、それに準じるもの)であれば、許容されているという報告もあります(田中真一2008)。つまり、「マントヒヒ」は、「チンパンジー」でも大丈夫だということです。確かに「ジー」は、2拍ですが、1音節です。2拍1音節の音節を「重音節」と呼びますが、「重音節」は、五七五の句末(少なくとも五の句末)では、リズム上1単位とカウントされているのではないかということです。
田中真一2008は、大量の川柳を分析していますが、中七の場合は、末尾が重音節でなくても、8拍になっているものがかなり存在すると報告しています。これについては、七は1拍の休拍を持っていて、それを埋めたものだと考えることもできる一方、それは、五七五ではなく五八五が混ざっているのだというとらえ方も可能でしょう。
これらから、次のようないくつかの考え方が導き出されるように思います。
A 五七五は、五は6拍、七は8拍までは許容される。
B 五七五は、句末に重音節が位置する場合には、五は6拍、七は8拍でも許容される。
C 五七五は、七は8拍まで許容され、五は句末が重音節なら6拍でも許容される
これらについて、先の「マントヒヒ」を、「チンパンジー」の他、「オオアリクイ」「イボイノシシ」「インドクジャク」「アミメキリン」などに置き換えてみて、
D 五七五は、末尾でなくても重音節を含んでいれば、5拍7拍を超えても許容されやすい。
でいいのではないかと考える人もあるかもしれません。
確かに、重音節は無理すれば縮まるともいえます。しかし、そうはならない方が普通です。例えば「チンパンジー」は、「チン」「パン」「ジー」の3音節ですから、圧縮すれば3単位にまでなるでしょう。そういう方言もあります。しかし、ここでそれを言い出すと、「チンパンジー」は3単位でも4単位でも5単位でも6単位でもかまわないことになってしまいます。多くの字余り句が、うまく圧縮すれば定数句になるでしょう。歌謡曲にそういう歌詞の扱いがありますが、通常の私たちの実感と合うでしょうか。
そうではなく、重音節の有無よりも、2拍ずつが1単位となる、あるいは4拍ずつの構造をしているどうかのほうが重要なのだというとらえ方があります。
⑤「ライオン」と「ゾウ」と「キリン」と「イボイノシシ」
⑥「ライオン」と「ゾウ」と「キリン」と「インドクジャク」
「イボイノシシ」の方が「インドクジャク」より許容度が高い。「インドクジャク」は「3+3」だからリズムを崩すというのです。皆さん、どうでしょう。ただし、田中2008によれば、川柳の実態としては、「4+4」の許容度は高いが、末尾が重音節でない6拍の5音句は少ないようです。
坂野1996は、次のような例を挙げて、句構造、語構造が、リズムに大きく影響すると主張しています。(表示は佐藤)
チーサナパラボラ 4+4 (2+2+2+2が可能)
オーキナシアワセ 4+4 (2+2+2+2が可能)
ハヤサクラヒラク 2+3+3(2+2+2+2は無理)
サクラサキホコル 3+2+3(2+2+2+2は無理)
カゼニユレルハナ 3+3+2(2+2+2+2は無理)
確かに、「4+4」の上の2つに比べ、下の3つは、リズムを崩すような感じがします。これらが、例えば五七五の標語や川柳・俳句の中七に置かれた場合、「ハヤサクラヒラク」以下の3つの字余り感は、上の2つよりはるかに大きい、そういわれたら納得せざるを得ません。上2句は「長音」を含みますが、たとえ「長音」がなくても、この感覚はほとんど変わらないでしょう。
タシカナシアワセ 4+4
カゼノトールヘヤ 3+3+2
「2+2+2」「4+2」が可能なら五として許容度が上がり、「2+2+2+2」が可能、あるいは「4+4」なら七として許容される。しかし、それが無理なら、五、七としては許容しがたい。もしそうだとすれば先のAの考え方は、
A2 五七五は、2拍1単位のリズムに合う構造なら、五は6拍、七は8拍まで許容される。
と修正されることになります。これは、本年8月のウラハイでの照屋眞理子氏のお考えとほぼ一致するように思います。つまり、現代の五七五は、八八八(八=2+2+2+2、5音句の末尾の2は休拍。以下2×4構造)の「四拍子」だということになります(別宮貞徳1977)。
これで一件落着なのでしょうか。
この2×4構造からすると、先に挙げた例は、次のようになります(2拍ずつの切れ目を「│」で表します)。
│ライ│オン│ト・│・・│キリ│ント│ゾー│ト・│マン│トヒ│ヒ・│・・
これは問題ないのですが、次は、いろいろ考えられます。
a │ライ│オン│ト・│・・│ゾー│トキ│リン│ト・│マン│トヒ│ヒ・│・・
b │ライ│オン│ト・│・・│ゾー│ト・│キリ│ント│マン│トヒ│ヒ・│・・
c │ライ│オン│ト・│・・│・ゾ│ート│キリ│ント│マン│トヒ│ヒ・│・・
坂野1996は、2×4をベースにしながら、4拍のまとまりを最も重視しています。4拍ずつの切れ目を「│」で示すと、
│ライオン│ト・・・│キリント│ゾート・│マントヒ│ヒ・・・
a │ライオン│ト・・・│ゾートキ│リント・│マントヒ│ヒ・・・
b │ライオン│ト・・・│ゾート・│キリント│マントヒ│ヒ・・・
c │ライオン│ト・・・│・ゾート│キリント│マントヒ│ヒ・・・
こうすると、aより、b、cがぴったり来る理由がわかります。「│ゾートキ│リント・」では句の構造と4拍のまとまりとがずれてしまうからです。私も佐藤2014で、こうしたタイプを実現の際のバリエーションとして認めました。しかし、これらは、4拍1まとまりのリズムに乗せるから、そうなるのだともいえます。「律読」とは、このように句の構造に合わせて読まねばならないのでしょうか。
ここでは、あえて7拍説なるものを提示してみます。私がそれを主張するのではありませんが、8拍構造(四拍子)の検証の手段として。これは、八八八説に対する七七七説ともいえるものです。
d │ライオント・・│ゾートキリント│マントヒヒ・・
│ライオント・・│キリントゾート│マントヒヒ・・
これは、中七の後のポーズの存在をほとんど認めないという点で、桐越2012らの実験と合致しません。しかし、上五の後のポーズが長くなるという皆が共通して認める「事実」には叶っています。たとえば、「降る雪や明治は遠くなりにけり(中村草田男)」は、文法的には、「降る雪や//明治は/遠くなりにけり」です。これを読むとき、
│フルユキヤ・・│メージワトーク│ナリニケリ・・
でいいように思います。しかし、そうではなく、どうしても8拍すなわち、
│フルユキ│ヤ・・・│メージワ│トーク・│ナリニケ│リ・・・ 〔注3〕
こう読んでしまうというのであれば、それは、4×2の8拍構造を支持しています。しかし、必ずしも「トーク」の後に休拍を入れる必要はないと感じるなら、7拍でもいいのではないでしょうか。これは、文法的に中七と下五とがつながっている句だから気になるのだというのなら、「五月雨の降り残してや光堂」でもかまいません。中七と下五を続けさまで読む人もいるのでは。決してそう読むべしと言っているのではありませんが。
│サミダレノ・・│フリノコシテヤ│ヒカリドー・・
都々逸は七七七五です。特に調子がいいのは、「3+4、4+3、3+4、5」だと言われています。都々逸に限らず、「3+4+5」の調子がいいことはよく知られています。「4+3+5」より、「3+4+5」の方が調子がいいとすれば、それは「4+3」と「3+4」とには「差」があることの証です。そしてそれは、4×2構造で実現したとき、休拍が置かれてしまうかどうかだという8拍構造(四拍子)の補強になるようにも思えます。
3+4+5 │・ナカヌ│ホタルガ│ミオコガ│ス・・・
4+3+5 │○○○○│○○○・│○○○○│○・・・
しかしながら、これは七と五(7音句と5音句)の境界に、境界を示す休拍が存在しない方がよりよいということを示しているともいえます。ならば、もともと7音句、5音句には、句の後に若干の休止はあっても、休拍(1拍分の休止)は存在していなかったことを示唆しているとも考えられるのではないでしょうか。2拍ずつをまず1つにするというリズムが介入したことで、8という枠ができ、7が4×2になるために、句末の休止が休拍に変化・変質せざるを得なくなった、そういう考え方はできないのでしょうか〔注4〕。
私は、4×2(2×4)の8拍構造すなわち四拍子の存在を認めます。おそらく中世以降はそれが主流となり、そして今や隆盛を極めているといえます。休拍の一つを潰して、六八六になっても、特に中七は八になっても、「4+4」ならば、(少なくとも川柳や標語では)何の問題もなく許容されています。しかし、俳句に「中八を嫌う」という感覚が残っているのは―あるいは七の後に休拍を置かずに五に進んでも何の問題もなく、むしろそうであることを求めることさえあるのは―8拍四拍子の奥にある七そのものの存在ではないのでしょうか。四拍子を認めつつ、五の後の休拍3拍というのは長すぎはしまいかと考え、事実そう感じるのは、休止は2拍でもいいからではないのでしょうか。
さらにいうなら、五の後の休止は五が七より短いことを示せればいいともいえます(2拍分も要らない)。その場合、リズムが繰り返しから生じるものなら、いったい何の繰り返しなのかとの指摘・批判を受けることになるでしょう。七の繰り返しでも、八の繰り返しでもないなら、五+七の繰り返しということに行き着きます。こうなると、俳句で考えることは不可能です。短歌でも短いでしょう。しかし、設定しておきたいとらえ方です。
現段階では、そこまでは言及せず、次のようにまとめたいと思います。四拍子の調子のよさを感じつつ、そうでなければならない、そうでしかない、ということに対する違和感は、五七五が、今も五は五、七は七であることを知っているからではないのでしょうか。五七五が六八六になってしまわないことを、休拍に頼らずに考えられないものでしょうか。
蛇足ながら付け加えるなら、(句末が重音節の場合を除いて)5拍、7拍を超えているなら、やはり定数句とは言えないというのが私の立場です。そこで線を引きます。その先に、「許容」と「技巧」とがあるのでしょうが。
〔注1〕桐越の実験については、無意味語を用いても、「○○○○や」で始まる俳句を典型的なものとして想起してしまう可能性があると思います。
〔注2〕ただし、桐越は「上五+ポーズ」と「中七+ポーズ」とがほぼ同じ長さになることを明らかにしていますが、ポーズを休拍とは考えていません。
〔注3〕「│ナリニケ│リ・・・」は「│ナリニ・│ケリ・・」だという人もあるかと思いますが、これは四拍子の中のバリエーションだと私は考えます。
〔注4〕私は、七五調と四拍子とが連動しているのではないかと考えています。証明はまだです。七と五とが近づいてしまう2×4の四拍子は、五七の繰り返し(五七調)とは相容れないと考えるからです。2×4構造と七五調とは一体のものだというのが私見です。坂野1996は、構造が変化したのではなく、和歌の「読唱法」が変化したと考えています。
五七五論序説
1 おばさんとおばあさんの話 ≫読む
2「はなのいろ」はうつりにけりな 昔と今の字余り ≫読む【参考文献】
別宮貞徳1977『日本語のリズム 四拍子文化論』講談社
坂野信彦1996『七五調の謎をとく 日本語リズム原論』大修館書店
田中真一2008『リズム・アクセントの「ゆれ」と音韻・形態構造』くろしお出版
高山倫明2012『日本語音韻史の研究』ひつじ書房
桐越 舞2012「韻文のリズムに関する音響音声学的基礎実験」『大東文化大学日本語学科20周年記念論文集』
小磯花絵・渡部涼子2014「リズムから見た語呂―語順を入れ換えた実験を通して―」『日本語学』33-6明治書院
佐藤栄作2014「言語のリズム、音韻から見た「語呂」」『日本語学』33-6明治書院
0 件のコメント:
コメントを投稿