澤田和弥さん追悼
澤田さんのこと
松本てふこ
澤田さんの作品というか、句集に関して一昨年に文章を書いた。
私が彼の句に対して思っていることはここであらかた書けてしまった気もするので、リンクを貼っておく
小さな革命としての俳句~澤田和弥句集『革命前夜』
https://note.mu/tefcomatsumoto/n/n2fc68a9b5e95
この文章では、ただただぼんやり澤田さんとの思い出を振り返っていこうと思う。
澤田さんと初めて会ったのは、大学一年の頃。俳句研究会の一学年上に、澤田さんがいた。
亡くなる少し前の丸々とした面影は出会った当時は全くなく、ちょっと丸顔かな、というくらいだった。別のサークルが忙しそうで俳句研究会の活動にはそれほど積極的に参加してはいなかった。時々大学周辺で見かけると、くるりの「世田谷線旧型車輌を残そうキャンペーン」ツアーのTシャツを着て颯爽と自転車で走っていたりした。
寺山がとても好きなことは彼自身から聞いていたし、私もくるりと寺山が大好きだったので(小学生の頃に読んだ『スポーツ版裏町人生』で袴田事件を知った)、色々話したらきっと楽しいだろうな、と思いつつそんな機会もさほどないまま、彼は大学院に進学した。
大学院進学後、澤田さんに何か転機が訪れたようで俳句研究会に顔を出すことが多くなった。超結社の句会に顔を出すと、彼がニコニコと手を振っていた、ということが増え、自然と二次会などでも話す機会ができた。
彼は、当時mixiに毎日のようにすごい分量の日記を書いていたけれど、内容がどうこう、というよりは「書きたい」という欲求が活字のかたちで溢れ出ている印象で、社会人になったばかりでひたすらくたびれていた私にはそのエネルギーがまぶしく見えた。
…と、このように書いていくとどうもしゃらくさくなる。
まあその後は、そんなに頻繁に会う訳ではないが、会えば酒を飲み俳句の話をして盛り上がった。彼と飲むとアハハハハハハハ!と威勢良い笑い声が聞けるのが楽しかった。
彼はいつも誰かを心配していた。でも誰かを心配する気持ちと同じくらい強く、その誰かに自分ができることはごく限られていると感じているようでもあった。
綺麗なお店、オシャレなお店で一緒に飲んだ記憶はない。見栄えはそれほどよくないけど、何でも美味しくて気楽なお店がよく似合った。
澤田さんとの思い出は基本的に楽しいものばかりだったが、楽しい、とは少し毛色の違う思い出があるので書いておこうと思う。
ひとつは、彼が故郷である浜松に帰る直前に行われた徹カラだ。
浜松に帰るし失恋もしたから徹カラしてるよ、おいでよ、と連絡がきて仕事帰りに合流した。当時まだ学生だった谷雄介くんや山口優夢くんがいて、賑やかだった。
私は彼がどうして浜松に帰ることにしたのか当時よく知らなかったのと、失恋したからと言って彼らが相手を悪者に仕立てて騒いでいるように見えてちょっとイラっとしてしまい、つらいつらい恋愛の歌を歌ってやろうとチャットモンチーの「恋愛スピリッツ」を入れた。
歌いながらちらっと澤田さんを見たら、心なしか笑顔が固まっていて、あ、悪いことをした、傷口に塩を塗ってしまった、と気付いて反省した。
ふたつめは、2年前のGWに彼が上京して、六本木で「LOVE展:アートにみる愛のかたち」を私たち夫婦と観たときのことだ。
私の家族は澤田さんと彼の句に興味があったようで、自分のHPで句を引用したりしていた。
澤田さんが、是非ふたりと観たい、と言ってくれたので六本木で待ち合わせた。その年のエイプリルフールに入籍したので、結婚祝いのつもりだったのだろうか。
やってきた彼は、病気のため杖をついていたのにものすごい大荷物だった。聞けば、ブックオフで美術関係の資料を買い漁っていたという。ブックオフのビニール袋は破れかけ、カートは重たい、GWのなかなか手強い陽気というか暑さ、そんな中を本調子ではないのにこんな大荷物でやってきたことや、彼の中にあり続ける美術の世界への熱意や欲求を思うと無性に切ない気持ちになった。
もちろん彼はいつも通り明るく、初対面である私の家族ともびっくりするほど普通に、そして和やかに話していた。展覧会を存分に楽しみすぎて新幹線の時間が危うくなり、大慌てで彼をタクシーに押し込んだ後の、しんとした感覚を今も覚えている。
彼の最期の日々を私は知らない。でも、彼が寺山と同じ五月にこの世からいなくなってしまうなんて、あまりにも出来過ぎている。そんなところ、うまく出来ていなくたっていいのに。本当に、本当にさみしい。
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2015-05-24
【澤田和弥さん追悼】 澤田さんのこと 松本てふこ
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