密やかな意志と決意
曾根毅第一句集『花修』を読んで
堺谷真人
曾根毅さんが「カシュ―を出した」と聞き「あの曾根さんが、なぜ歌集?」と首をかしげた。すぐに『花修』という名の句集だと分かったが、字面と音感が物珍しく、てっきり著者の造語だとばかり思い込んでいた。
しかし、違った。著者の「あとがき」によれば『風姿花伝』の第六篇「花修」による命名だったのだ。この篇の冒頭、世阿弥は次のように書き起こす。
能の本を書く事、この道の命なり。極めたる才学の力なけれ
ども、ただ、巧みによりて、よき能にはなるものなり。
たとえ卓越した学識がなくても、ひたすら技術的修練を積むことによって優れた能を生み出すことは可能だというテーゼである。後進の能作者たちを勇気づけてくれる、希望の言葉である。しかし、以下具体的に創作の秘密を惜しみなく披瀝した最後に、世阿弥は次のような但し書きを添えた。
この條々、心ざしの藝人より外は、一見をも許すべからず。
一転、峻厳なる戒めである。生半可な気持ちで能に携わる者を世阿弥は躊躇なく切り捨てた。能への志、向き合う覚悟を何よりも重んじたからである。
私はこれを読んで曾根さんが『風姿花伝』の篇名を句集名とした理由が少しだけ分かったような気がした。曾根さんの師であった鈴木六林男が俳句や俳人に求めたものと、世阿弥が能や能作者に求めたものとには、きっとある種の共通項が見られるのであろう。そして、その何かを大切に守ろうとする密やかな意志、決意がこの書名には籠められているに違いない。
以上はしかしあくまでも私の空想に過ぎない。いつか曾根さん本人からそのあたりの消息を直接拝聴したいと思っている。
『花修』の第一章「花」は平成14年から17年までの作品である。今、初出は未詳だが、六林男は平成16年12月に歿しているから、あるいは先師の選を経た句を含むかもしれない。
曾根さんは師の最晩年の弟子である。文字通りの「鞄持ち」をするなど、かなり濃い間柄であったと聞く。55歳の年齢差は祖父と孫との距離に相当する。人生経験の量と質が圧倒的に異なる師から学ぶことはなかなか一筋縄ではゆかない。
駆け上がるたびに広がり山桜
曾根さんがこの句で第14回「お~いお茶新俳句大賞」を受賞した際「お前は商業主義に加担するつもりか」と師から大目玉を食らったという。(ちなみにこの句は『花修』には入集していない)戦場で受けた機関砲弾の断片が体内に幾つも残っていた師は、空港の身体検査で金属反応が出ることがあった。「普通は鳴らへん。警戒レベルが上がると感度がようなって鳴る。それで何かあったなと分かるんや」 このような調子なのである。
立ち上がるときの悲しき巨人かな
立ち上がるときに悲哀を感じる、あるいは感じさせる巨人とは曾根さんの師・六林男のことのように思えて仕方がない。苛酷な戦場から生還し、戦後復興期から21世紀初頭までの長い時間を果敢に戦い抜いた一人の巨人。彼はあまりにも多くを体験し、それを独自の経験へと昇華して来た。が、その経験値の高さゆえに他者の理解を得ることは容易ではない。体験は語れても、経験を伝えることは絶望的に難しいからである。多くの仲間や弟子たちに囲まれていても医すること能わざる巨人の孤独と悲愴。あるときふとそれに気づいてしまったのは他ならぬ若き曾根さんであった。
鶴二百三百五百戦争へ
一読、阿波野青畝の「牡丹百二百三百門一つ」を連想した。犇めくように絢爛と咲き乱れる牡丹の遠景に門を配した青畝の句には数詞の漸層法による陶酔感があるが、次第に数を増す鶴の群の彼方に戦争を置いた曾根さんの句には陶酔感を打ち砕く認識の勁さ、厳しさが見られる。鶴とは戦闘機の喩か、それとも兵士一人一人のことか。曾根さんの祖父は近衛兵だった。近衛師団に配属されるのは人物、能力、門地から容姿風采に至るまで選りすぐりの兵士たち。しかし、半藤一利『日本のいちばん長い日』に描かれているように、1945年8月、終戦を阻止しようとする青年将校らは近衛師団の蹶起を促し、森赴師団長を斬殺している。一歩まかり間違えば「最後の地上戦」に巻き込まれたかもしれないのだ。鶴と近衛兵。端正かつ凛々しいものたちをも容赦なく噛み砕き、呑み込む戦争。六林男門下の逸材である曾根さんにこの作あるを嬉しく思う。
春の水まだ息止めておりにけり
息を止めている水。繊細かつイメージ鮮明な句だ。その静止は疲れや老いによる停止ではない。ありとあらゆる可能性を閉じ込め、その発現を目睫の間に望むという状態における見かけ上の静止なのだ。曾根さんの俳句は震災詠を迎え入れることで大きく飛躍した。「花」の章はいわば初学の時代。今、改めて振り返ってみると、その頃に詠まれた春の水の気息の中には実に豊かな可能性が隠れていたといわざるを得ない。
滝おちてこの世のものとなりにけり
春の水はやがて夏の滝に姿を変える。考えてみると滝とは落下の始点から終点までのせいぜい数メートル乃至数十メートルを垂直移動する水の、ほんのつかのまの様態に名づけたものに過ぎない。深山の木々の滴りや湧き水が合流して次第に大きな流れとなり、田野や都会を抜けて遂には海に注ぐ。その長い長い道程の中の一瞬の姿なのだ。その瞬間だけ、水は聖別されて滝となる。滝壺に落ちてなおも流れ続ける水は、すでに「この世のもの」に立ちもどっている。
この文章を書いていて思い出したのだが、以前、現代俳句協会青年部の企画で東吉野に一泊吟行に出かけたことがあった。私は曾根さん、岡村知昭さんと同室になった。丹前を着て鳩首雑談しているときに突然曾根さんがこんなことを言いだしたのだ。
俺な、時々言葉がばあーっと降って来て俳句がいくらでもできるときがあんねん。もしかして自分は天才ちゃうか思った。
年数もたっているので細かい表現の正確さは保証の限りではないが、自動書記のように大量の俳句が湧きだす不思議な体験について曾根さんはいきいきと語った。いろいろな言葉、見聞、思索が積み重なり、時を経て結晶する。そしてある刹那、ブラックボックスの蓋が突然開いて俳句が爆発的に生まれる。曾根俳句の創作の秘密の一端はこんなところにもあるのかもしれない。
玉虫や思想のふちを這いまわり
「思想のふち」とは何であろうか。「ふち」が「縁」のことであるならば、それは物事の中心・核心ではなく、周縁・周辺のことである。燦然と輝く玉虫とは、何か非常にきらぎらしい言葉やアイデアの暗喩であろうか。派手で一時の人気は博するものの決して思想の核心には到達しない言葉。いわゆる狂言綺語のたぐいである。だが、「ふち」が「淵」だとすると状況は一変する。思想の深淵を奄々と這いずり回る玉虫は、逆に特定のドグマに籠絡された精神の象徴、魂の牢獄の囚われ人ということになるからである。
いずれにしても這いまわり続ける限り玉虫に活路はない。飛べ。
今回、三木基史さんから『花修』の評を依頼された。気になる句をノートに書きだしてゆくと大変な数になった。とても1回では語り尽くせない、無理に語り尽くすのは勿体ない、と思った。
結局、句集名と「花」の章について触れただけで締切の期日が到来してしまった。もし許されるならば、他日、回を改めて稿を継ぎたいと思う。
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