秋の長雨のせい
二村典子
さかのぼるひばりひきちぎれるかひかり 福田若之
前書のついた作品は、前書込みで引用すべきであるが、この美しい句に対してむしろ邪魔な気がして、あえて前書なしで記してみた。まっすぐに、高速で上昇するひばりの視界に広がる、目にもとまらぬ世界。
「ひきちぎれるか」の措辞にどうしようもなくあふれる若さと苦さがまぶしい。
玉虫の背中に色や本閉づる 宮本佳世乃
玉虫の玉虫たる所以は、まさに背中の色にある。それを「玉虫の背中に色や」と、ぬけぬけと驚いてみせた。しかし、「本閉づる」とは。もしかしたら、そんなとぼけた句なのではなく、ほんとうに玉虫を見たことがないのかもしれない。わたしたち(たち?)は、当然季語をよく知っているものとして読んだり書いたりしている。けれど、実物はもちろん写真も見たことがなく、玉虫について書かれた本だけを読んだとしたら。どのような文章で綴られているのか、その文章から想像された玉虫がどんな色かなどと思いを巡らすのも楽しい。
百聞は一見に如かず、の逆であるが、少数派と思われる百聞派に加担してみたい。
めりめりとしたるパラソル状の祖父 鴇田智哉
パラソル状のものって、意外と少ない。結構独特のかたちだ。だから「パラソル状の祖父」には、立ち往生せざるを得なかった。雨の多い九月を過ごし、傘を見上げていて、万華鏡の中の風景は、パラソル状と言えるのではないかと思いついた。
両親や祖母と違って印象が希薄な祖父。そんな亡き祖父の姿が万華鏡の中に浮かぶように思い出された。現実の姿ならば目をつぶればいいが、記憶の映像を消すのはむつかしい。めりめりと、それこそちからずくで、脳裏から引きはがさなければならない。立ち往生したわりには、すんなり腑に落ちた。
かなかなのこゑの数だけある画像 鴇田智哉
かなかなの声はどうやって数えるのだろう。そもそも声なんて数えることができるのだろうか。とはいえ、かなかなだけに「かな」でひとつ、「かなかな」でふたつ、と無理をすれば数えることができるような気もする。
「かなかなのこゑの数ほどある画像」と書かれていれば、わかりやすかった。とかく多くの画像に取り囲まれた日常がすぐに思い出される。けれど「だけ」とある。何かが欠けているのであろうか。どこか偏っているのであろうか。「だけ」の一語が悩ましい。
かなかなのこゑの数だけの画像を一面に敷きつめたら、一枚の絵のように見えはしないか。だとしたら、高く高く、できるだけ高く離れて、その絵を見てみたい。
あるいはねびめく 田島健一
あいさすと色鳥うすびへるしんき
おすかりの颱風くびれひただよう
かかりさるともだちいんび秋まつり
蝦蔓にたつみはるけくゆびみつる
いることのまびわりかなし鬼やんま
菊月のねびゆくけしきうぞくまり
うしろあびひうらにおいてくる瓢
この二週間ほど田島健一の句に夢中だった。
既存のことば(変なことばだ)を微妙にずらしてつくられたように見えることばが散りばめられた一編。
当初、どうしても元のことばを探してやろうという意識が働き、なんとももどかしかった。「うぞくまり」は「うずくまり」だろう、「あいさす」は「あいさつ」であろうか、等々。
けれど、この作業は全然おもしろくなかった。自分自身で見つけた答めいたことばには「選択責任」のようなものが発生してしまい、作品の楽しみ方を狭めているような気がした。
そうまでして意味をとらなくても、季語と意味のわかることばの連なりだけで、秋の、古典的なほど秋の気分は伝わってくる。俳句に季感がそれほど大事だとは思わないが、秋という季節の趣は大好きなのだ、わたしたちは。
プリントアウトした紙を何日も眺めていて、五・七・五の切れ目に「/」を入れてみた。
あいさすと/色鳥うすび/へるしんき
おすかりの/颱風くびれ/ひただよう
かかりさる/ともだちいんび/秋まつり
蝦蔓に/たつみはるけく/ゆびみつる
いることの/まびわりかなし/鬼やんま
菊月の/ねびゆくけしき/うぞくまり
うしろあび/ひうらにおいて/くる瓢
すると、意味のわからないことばに対するこだわりが、すうっとなくなっていった。(わざわざ「/」をいれなくても最初からこう読めたはずだけれど)
声に出してよむ。意味はわからないのに、さらさらと歌うようによめる。「散文的」な俳句は否定的に語られることが多いが、「韻文」が何であるかを説明するのは難しい。けれど、声に出して気持ちがよければ、これはもう、よい韻文ではないか。ただし、このような楽しみ方をするためには、一句では物足りない。田島の神経が隅々まで行きわたっている連作ならではのよろしさである。私自身、何句かまとめて発表する場合、全くばらばらな句をランダムに並べはしない。作句の際、連作という意識が思わぬ一句を生む楽しさがあることも十分知っている。けれど「一句の独立性」が云々されるため、あからさまな連作に見えないようしていた。世知辛い。作品より先に評価の基準などないことを、ことばではわかっていたはずなのに。
(ここまで書いてトオイダイスケ氏「美という音、音という美」を読みました。すばらしい。先に読んでいたら、とても書けなかったと、告白させてください)
安易に「似ている」と言わないことにしている。「区別がつかない」のは区別される側ではなく、区別しない側に多く要因があるからだ。区別するほどの関心も、必要もないため、同じように見えてしまう。俳句作品も、一句一句を括ることなく読みたいと思ってきた。たとえ同じ作者の句であっても。
けれど、それなのに、とはいえ、進藤剛至の「清水」と鷲巣正徳の「ぽこと」は、どうしても「似て」見える。
進藤剛至 清 水
更衣さびしき腕を組みかへて
まだ顔をもたずに伸びて青芒
清水汲む零れぬやうにこぼしつつ
祭より抜けて祭の音聞こゆ
すべり込むやうに晴れたることも梅雨
炎天の裏にひんやりある宇宙
都を染めてゆくみんみんの一粒よ
ペン先の滑りやすきも夜の秋
席すこしづつ埋りゆく残暑かな
こほろぎの畳みそんずる翅に風
鷲巣正徳 ぽこと
手花火の腕眩しき白さかな
蜩の声に時空の澄みゆける
涼新た鳥のかたちが欄干に
看護師の胸に蜻蛉のボールペン
海渡る翅の連なり秋の蝶
点滴のぽこと終はりぬ牽牛花
何処までも走り続けて花野中
蟷螂の樋を登つて行くところ
おんおんと酸素を吸へば月の前
キリストの頬に青き血秋の虹
類想とか類句とは違う。
ふと、テレビを見ると、FLOWERというガールズグループの数人がかわるがわるアップになった。
「驚くほど区別がつかないわ」とつぶやく私にすかさず「美少女だからさ。ももクロは全然違うだろ?」と夫が言った。まさに、この感じなのである。
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