あとがきの冒険 第9回
代々木公園・小さな墓・紫陽花の毎日
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』のあとがき
柳本々々
代々木公園・小さな墓・紫陽花の毎日
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』のあとがき
柳本々々
堂園昌彦さんの歌集は、収められた歌の一首一首に〈光〉があふれていたように「あとがき」においてもやはり「光」が満ちている。
昨日、代々木公園に行った。五月のやわらかな光の下、噴水が短い虹をつくり、人々はみな嬉しそうに見えた。特に子供たち。子供たちはみな記憶そのもののように見える。……その笑顔をきらきらと周りに降りこぼしている。この子たちは今日の光を覚えているだろうか。私は覚えていられないだろう。
「光」に関連づけて語られているのは「子供」であり「記憶」である。「子供たちはみな記憶そのもののように見える」と語られているように「私」にとって「子供」と「記憶」はおなじ性質を有している。いやたぶんもっと言えば、「子供」と「記憶」と「光」はおなじ線上に存在するものと言ってもいいかもしれない。なにが同じなのかといえば、《やがては失われる》ということだ。
「私は覚えていられないだろう」と「私」が語っているとおり、「私」は「光の下」でかつて所持していた「記憶」を失った人間なのだ。そして「私」もかつては「子供」だったはずだ。ここで語られているのは、かつて「光」のなかで「子供」だった〈わたしの喪失〉である。もちろんそれらを取り巻く「光」、たとえば「噴水」がつくった「短い虹」も空気中の水滴によって反射した〈太陽光のスペクトル〉であれば、「やがて」は失われるだろう。
歌集のタイトルは「やがて秋茄子へと到る」。タイトルの「秋茄子」が使われている歌をちょっとみてみよう。やはり「光」る。
秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは 堂園昌彦
「秋茄子を両手に乗せ」た物質の重量感は「て」で軽やかに連結されて「光」という非物質的な浮遊感に昇華される。物質から非物質へまたたく間に昇華した光の語り手は問いかける、「どうして死ぬんだろう僕たちは」と。でも、語り手は、そのとき「どうして」と問いかけながらも「死ぬ」ことの意味を知っていたんじゃないかなとも思う。どういうことか。
「乗せ」と「光らせ」を〈それとなく〉連結している接続助詞の「て」に注意したい。語り手にとって「乗せ」という物質感と「光らせ」という非物質感は〈連続〉して同じレベルで動作するような軽やかで・なめらかなスペクトルになっているのだ(それこそ〈虹〉のような)。「秋茄子」という物質を「光」という非物質につなげながら「死」という〈喪失〉を考える。これは「あとがき」にもあった語り口である。「あとがき」において「私」は、「光」のなかで「子供」(身体=物質)と「記憶」(非物質)を統合しながら考え、「私は覚えていられない」という〈喪失〉を語った。
だからもしかしたらこの歌の「どうして死ぬんだろう僕たちは」は、「あとがき」のこんな言葉と期せずして照応していたのかもしれない。
だから子供たちよ、どうか長生きをしておくれ。長生きをしてたくさんのことを忘れておくれ。せめて私は君たちが忘れてしまったほほえみや苦しみを拾い集めて小さな墓をつくり、その周りに賑やかな草花が咲くのを、長く、長く長く待っていようと思う。
「生き」るという身体性=物質性は「忘れ」ることであり失うことだ。「どうして」かはわからないがいずれ「死ぬ」ことになる。けれども「小さな墓をつくり、……長く、長く長く待っていようと思う」と「私」が語ったようにその〈喪失〉を〈わたし〉以外の誰かが引き受けて「賑やかな草花が咲く」場合もある。
「どうして死ぬんだろう」に《あえて》無粋に答えるとするならば、こうではないだろうか。〈わたし〉が死んでも〈あなた〉が〈わたし〉を継いでくれるから。
でも、答えを出すことに意味はない。「どうして死ぬんだろう僕たちは」は「僕たち」という複数形の主語が使われてあるように、いつまでも「たち」という複数の余剰によって〈死なない〉ものとしてもあるはずだ。〈わたし〉は死ぬかもしれないが、〈あなた〉はもっとあとで死ぬかもしれない。あなたはまだ生きて答えをさがすかもしれない。「僕たち」は「小さな墓」として「賑やかな草花」として「光」として「死」してなお続くだろう。
わたしは堂園さんの「あとがき」から、アメリカの作家リチャード・ブローティガンの「墓」と「星」が統合されたこんな一節を思い出した。彼もまた喪失したものを〈ひとつなぎ〉にして「光」のなかで〈あなた〉に継ごうとしていた。
ある日のこと、すっかり陽も落ちて、わたしは家に帰る前に鱒を洗っていた。そのとき、ふと、こんなことを思ったーー貧乏人の墓場へいって芝を刈り、果物の瓶、ブリキの空缶、墓標、萎れた花、虫、雑草、土くれをとりあつめて持って帰ろう。それから万力に釣針を固定して、墓地から持ち帰ったものを残らず結わえつけて毛鉤(けばり)をつくる。それができたら外へ出て、その毛鉤を空に投げあげるのだ。すると毛鉤は雲の上をただよい、それからきっと黄昏の星の中へ流れさっていくことだろう。(リチャード・ブローティガン、藤本和子訳「墓場の鱒釣り」『アメリカの鱒釣り』新潮文庫、2005年)
わたしは「あとがき」から歌を読んでみるというかなり変則的な(ある意味、違法(イリーガル)な)ことをやったのだが、考えてみたかったのは決して答えさがしでも、「あとがき」や歌の分析でもない。考えたかったのはこの光にあふれた歌集のなかで、〈光の語り方〉というものがもしあるのだとしたらそれはどんな語り口になるのだろうということだ。
わたしはそういうものがあると思うし、「やわらかな光の下」でしか起こらない意味作用や修辞、連接、出来事性もあるように思うのだ。それがこの堂園さんの歌集にはあるのではないか。
そういえば光はそのつど失われるけれども、もっと大事な光の性質がある。光は《繰り返される》ということだ。毎日陽はさし、あなたを照らす。わたしは安っぽいありふれたことを今から言うかもしれないけれど、たとえ百万回虹をみたとしても、毎回新しくみる虹が《はじめて》にしか見えないのは、なぜだろう。虹は、--いや、光は、すごく古くて、すごく新しい。
残光のひかり豊かに繰り返すあなたとの紫陽花の毎日を 堂園昌彦
(堂園昌彦「あとがき」『やがて秋茄子へと到る』港の人、2013年 所収)
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