【週俳9月の俳句を読む】
二十一句雑感
瀬戸正洋
ベンチに腰掛け繁華街を眺めているとおかしな歩き方をしているひとたちの多いことに気付く。ひだり足首が痛いので老人らしくなく歩こうと思っているので他人の歩き方に目がいってしまうのだ。こころもからだも歪んでいるのが現代人なんだなどと一人合点している。腰痛に悩まされている老妻はスポーツジムに通いはじめた。背筋が伸び姿勢がよくなってきたことに気付く。老いはうしろすがたからはじまるとはよくいったものだ。「あなたも行きなさいよ」と言うので、「草刈で十分」と答える。半日近く草を刈ると体重二キロ分の汗が搾り出される。近くに住む同級生は、草刈の途中、気分が悪くなり救急車で病院に運ばれた。九月の山村の草刈は、それだけ老人にとっては過酷なのである。
秋日さす犬の歯型のある椅子に 今井 聖
犬が椅子を嚙んだのである。噛む理由があったのである。何の理由もなく椅子を噛むことはしない。にんげんの行為にも、全てに理由はあるのである。無意識のうちに・・・、酔っていたから……。無意識という意識、酔っていたからこその行為。しずかに秋の日は降り注いでいる。
かなかなや銃身冷ましゐる時間 今井 聖
銃を撃ったのである。殺そうとしたのである。銃身冷ましゐる時間とは待つことなのである。焦ってもいけない。構えてもいけない。ただ、ひたすら待つことが必要なのだ。銃身は冷まさなくても撃つことはできる。だが、こころを冷まさなければ引き金を外すことはできないのである。森のなかではかなかなが鳴いている。
かなかなを詰めてオレンジ色の雲 今井 聖
オレンジ色の雲とは夕刻、西方にある雲のことなのだろう。だが、夕焼けの雲とは違う。オレンジ色の雲なのである。かなかなを詰めなければ、オレンジ色の雲にはならない。かなかなを詰めたのは作者なのだが、オレンジ色の雲になるという意思を持ったのは、かなかな自身なのである。
すいつちよと坊主頭の写真家と 今井 聖
写真家は坊主頭であり、その坊主頭のうへにすいつちよがとまっている。つまり、野次っているのである。野次りたくなった理由など知る必要などないのだ。作者は、こころの底から野次りたくなったのである。そんなとき、我慢しなくてはならないなどと考える必要もないのである。
永遠に下る九月の明るい坂 今井 聖
九月の坂は永遠に下るものだということを決めた。その坂は明るい坂であるということも決めたのである。たとえ、他人がどう言おうが、自分が、そう決めた以上、反論などさせてはいけないのである。生きるとは、そういうことなのである。
住宅地かつては森ぞ虫のこゑ 小澤 實
田でもなく畑でもなく林でもなく森だったのである。にんげんの欲望は果てしないものだと嘆いている。嘆いているのは、ここに住んでいるひとたち、ここで泣いている虫たちだけではなく、生きとし生ける物すべてなのである。虫のこゑが聞こえる。不思議なことだが、どの家でも家族団欒のひとときが始まる。確かに、地球は歪み始めている。
禁立ち読みのゴム掛かる書や秋の昼 小澤 實
書店でよく見かける光景である。店主の気持ちも理解できない訳ではない。だが、本や雑誌は、装丁も美しくなければならないのである。ゴムなど掛けてしまったら、その装丁の美しさは台無しになってしまうのである。本や雑誌はどんな気持ちでいるのだろうか。秋の昼が泣いている。
寿司出前専門店やスクータ据ゑ 小澤 實
回転寿司、回らない回転寿司、出前専門店、いろいろな寿司屋がある。ここは出前専門店なのである。スクータが無ければ商売にならない。ところで、私は、カウンターでなければ嫌だ。BARでも茶房でもやきとり屋でも小料理屋でもカウンターでなければ嫌だ。あるとき、カウンターを勧められて断った客がいたので鮨屋の店主の顔を見たら「聞かれたくないはなしでもするのでしょうね」と言った。
釣りあげし太刀魚腿に噛みつきぬ 嶋田恵一
太刀魚の首掴み折る釣りたれば 同
腿に嚙みついた太刀魚は真剣に生きているのである。釣り上げられてしまったからといって、そこで終わりだとは思っていない。最後の一撃を繰り出したのである。作者は作者で、何もなかったかのように、そんな太刀魚の首を掴んで折って殺してしまう。この光景、作者も太刀魚も正しいと思う。
スナックに秋鯖提げて来るをとこ 望月とし江
捌いて振る舞うために秋鯖を提げて来たのである。秋鯖でなくてはならない理由はない。目の前にあったものを提げて来たということなのである。ママもマスターも常連たちも仲間同士なのである。たまたま来た客でさえもご相伴に与かる。漁師町にある、とあるスナックのいつもの出来事。
新キヤベツ炒めをはりし顔で来る 秦 鈴絵
新キャベツを炒め終りし顔というのは他人から見れば、同じ顔だということなのである。これは、自意識の問題なのである。感じ、考え、何かを成し遂げようとする意識を自意識という。つまり、炒めた新キャベツが歩いて来たということなのである。
虫籠に追込まれゆく頭かな 竹内宗一郎
虫に興味を持ったから虫籠にも興味を持ったのである。にんげんには興味を持ったものに近づいていく、興味を持ったものになってしまおうとする習性がある。つまり、作者は虫になってしまったのである。そうなると、引き返すことはできなくなる。虫になった作者は、頭から虫籠に入らざるを得なくなってしまったのである。
露草を枯らして回るのが仕事 井上さち
露草を枯らして回るのが仕事だという。確かに、そのようなにんげんはどの集団にも必ずひとりやふたりくらいは存在する。ただ、自覚していればそれなりの行動をするので、不快に思うことは稀ではある。故に、枯らして回るのが自分の仕事なのだという自覚もなく露草を枯らして回ることはやめた方がいい。
無花果に向き柔道着滴りぬ 玉田憲子
柔道着とは戦うためのものなのである。柔道着にも戦う意思がなくてはならないのだ。無花果に向られた柔道着は柔道着として無花果と戦おうとしているのだ。無花果は育った土地の水の味がする。柔道着には戦うものの悲しみが、たっぷりと沁み込んでいる。
夜学子やポケット多き作業服 岡本春水
仕事を終えて作業服のまま授業を受けている。その作業服にはポケットがいくつも付いている。それは、仕事のために必要なポケットなのかも知れない。だが、そのポケットにはポケットの数以上に、たくさんの「我楽多」や「無駄なもの」「無用なもの」が詰まっているのである。「我楽多」あるいは、「無駄なもの」「無用なもの」。これらは、「夢」「希望」などというものよりも、青年にとっては、はるかに大切なものなのである。
「何が好き?」「ボクはやつぱり鮭の皮」 川又憲次郎
何が好きと尋ねられ鮭の皮と答えられる人生は正しい。鮭から酒を連想してもいいと思う。また、鮭は放浪し、穢れを知らない魚であることなど思えば、俳人にとっては相応しい肴なのかも知れない。やつぱりという副詞もいいし、秋の夜、鮭の皮での熱燗はいけると思う。
羊刈る仕上げの鋏しやりと鳴る 池田瑠那
三句まで、羊の毛を刈る場面が描かれている。その三句目の「鋏しやりと鳴る」で状況が、がらりと変わる。羊の毛を刈った後に、それを食べてしまうのである。お祝いのための宴なのかも知れない。血の匂いの微かに残る宴。微かな血の匂い残ることが、ここに住むひとたちにとってのご馳走なのかも知れない。食べるために工夫することは否定するものではない。だが、ご馳走を頂くということは残酷なことなのである。そのことを忘れていることは罪悪なのである。
鼻歌や長芋摺り過ぎてしまふ 冬魚
長芋を擦っていたとき、あるメロディーが浮かんだ。思わず口ずさんでしまう。そのメロディーにより、次から次へと思い出が甦ってくる。長芋を擦ることは幸せなこと。だが、作者は、それ以上の幸福感に満たされているのだ。ひとにとって唯一の財産は思い出なのである。長芋を擦り過ぎてしまうことなど些事なことなのである。
人間のつもりの犬と冬瓜と 金丸和代
犬を見ていて、この犬は人間のつもりでいるのかと思った。その飼主を見ていて、このひとは犬のつもりでいるのかと思った。つまり、人間のつもりの人間が何と多いことかということなのである。人間であるということは至難の業なのである。冬瓜とは冬の野菜ではなくジャワ島原産の夏野菜なのだという。もしかしたら、冬瓜も自分は、にんげんであると思っているのかも知れない。
秋暑しトロロ昆布など買つてしまふ 茸地 寒
トロロ昆布など買いたくなかったのである。だが、何故か、買ってしまったのだ。美しい店員に勧められたからなのか。陳列を見ていて、つい手を伸ばしてしまったからなのか。帰宅途中、買わなければよかったと後悔をしている。何でもいいから折り合いをつけて忘れてしまおうと思う。秋なのに、暑さの残る街の夕ぐれに包まれて。
後悔を積み重ねていくことが人生なのである。私は自制心が弱過ぎると思っている。お酒の神様といっしょのときなどは哀れさを通り越してしまう。西洋のお酒の神様は狂乱の神様なのだそうだ。なるほどと思えないこともない。俳句を作るためには、狂うこと、乱れることが必要なのである。琥珀色の液体は、俳人が俳人であるための状況へと導くための手助けをする。だが、真に狂うこと、真に乱れることは、神様とは違い、にんげんには難しいことなのだと思う。
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