【八田木枯の一句】
よく澄める水のおもては痛からむ
角谷昌子
第六句集『鏡騒』(2010年)より。
よく澄める水のおもては痛からむ 八田木枯
秋は大気が澄んで、遠くの山々の尾根や裾まで、よく見渡すことができる。木々の紅葉が進み、葉が落ち始めて、混み合っていた梢もすっきりしてくる。林をゆっくり歩けば、強烈だった日差しも柔らかみを増し、足元まで優しく日の斑を散らすようになる。黄鶲や大瑠璃など美しい小鳥たちも姿を見せ、愛らしい声を聞かしてくれる。
今年は台風や長雨のせいで、川の水量が一気に増し、ふだんは穏やかな暮しを保っている土地を突然に襲うという悲劇が重なった。東関東大震災以来、水の恐ろしさを目の当たりにしているが、穏やかな水は、いきなり凶器に豹変して生き物すべてのいのちを断ってしまう。いのちを支える恵みの水は、唐突に「凶器」ともなるのだ。「狂気」や「悪意」を蔵した洪水という自然災害の要因でもある。
木枯の掲句〈よく澄める水のおもては痛からむ〉には、純粋過ぎるものへの労りがある。匿しておけば傷つかずにいられたのに、秘するべきところまでさらけ出したことによって、弱みを掴まれてしまう。秘匿を守り抜けなかった哀しみがひたひたと滲む。だが深く同情しながら、純粋過ぎることの無知や無防備の危うさをそっと訴えているのかもしれない。
かつてフランス語の教師に「イノサン」(英語の「イノセント」)は、「純粋無垢」のほかに「無知」「愚かさ」の意味も含まれていて、決して良いニュアンスばかりではないと言われたことがあった。『白痴』のムイシュキン公爵ばかりではなく、文学のテーマともなる「イノセント」には悲劇を引き起こす要因があるのだ。
上田五千石に〈水といふ水澄むいまをもの狂ひ〉がある。よく澄んだ水に秘められた「狂気」の感受という点で、木枯句と通い合う。光を透過して底まで見届けることができる澄んだ水は、濁っていれば見られずに済んだものまで明らかにしてしまう。その悔いや「痛み」が憎悪や「狂気」に変わる破壊力を木枯句も、さり気なく捉えているのだろうか。
水面に映るべき木々や人々の映像は見当たらず、水底には、さまざまな影が流されぬように必死で張り付いている。その上を時の流れのように、水は無関心に過ぎ行くばかり。流れの強さにこらえ切れなかった影たちが水に巻き込まれ、つぎつぎと下流へと押し寄せてゆく。やがて海に注ぐ河口にわだかまり、しだいにどす黒い澱となって堆積してゆく。下にはマグマだまりがあって、なにが噴き出すかわからない。つもりに積もった地球の憎悪が潜んでいるかもしれないから、その断層を決して侵してはならない。
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