詩人俳人・平井照敏
(ひらい・しょうびん)
今井 聖
『街』第122号より転載
「僕の家で句会をやってるんですが、来てみませんか」
一九七一年一二月、初めて行った「寒雷」の句会で平井照敏さんが声を掛けてくれなかったら僕はどんな雑誌に所属しどんな俳句を作っていただろうか。想像もつかない。ただ、どこに行こうと俳句を作っていたことは確かだ。なぜならその時点で、それしか自分にはすることは何もなかったのだから。
その年三月僕は明治学院に入学して上京して来たのだった。
その前年には、二浪目に住んでいた京都から、大阪の天狼の句会に山口誓子を(見に)行き、その目的は果たした。
上京したのだから、次には、まず念願の加藤楸邨を見て、次に中村草田男を見に行くつもりだった。
僕が高校時代に憧れた俳人。まずもってこの三人の句会には出てみたかった。もう一人居た憧れの人、石田波郷は二年前に亡くなっていた。
照敏さんの自宅は蒲田にあった。
青山女子短大での教職で加藤楸邨と同僚になった照敏さんは、当時、既に『エヴァの家族』という詩集を出していた学者詩人。学者詩人という言い方はおかしいけれど現実。詩人革命家と自称したのは確か啄木だったか。
学者にあらずんば詩人にあらずという状況がこの当時からずっと続いている。もちろん例外はあって、その例外の方こそ本物だと門外漢は思うのだけれど。
東大仏文科出でパリへの留学も了えたこの典型的な学者詩人は、職場で楸邨に惹かれ俳句に魅力を見出し、寒雷に投句し、この年に森澄雄さんのあとを受けて編集長となっていた。
彼は、フランスの詩人「イブ・ボンヌホア」の訳者であり、日本への紹介者としても知られる。自分の研究対象、ボンヌホアの作品と俳句に共通点を見出したのも俳句を書き出した大きな動機だったらしい。
照敏さんは僕を可愛がってくれた。月に何度か句会があり、寒雷のメンバーの何人かが出席していた。句会の日以外の日でも僕は 彼の家を訪れて、奥さんの手料理をごちそうになった。ソフトな語り口で、優しい印象だったが、強烈な自負心も隠さなかった。自宅句会の席で、
「来月は、ここに石原吉郎さんを呼びましょう」とことも無げに言う。
その話こそ実現しなかったが、親しかったさまざまな高名な詩人の話をしてくれた。木原孝一さんや清岡卓行さんのこと。
入れ代り立ち代り俳人が訪れた。当時、寒雷の編集部にいた、石寒太さん、小檜山繁子さん。関西から訪れた岡井省二さんともここで初めて出会った。
「寒雷にルネッサンスを」が照敏さん発案の当時のスローガンだった。
七二年九月号は「寒雷」三五〇号記念号、そこに昂揚した照敏さんの後記がある。
「寒雷」三五〇号を記念する北海道の全国大会は大成功だった。(中略)「寒雷」の新しい渦が大きくめぐりはじめたと感じたのはぼくだけではなかったろう。ぼくは毎晩二時、三時までおしかける若手に句会攻めにされ、ふらふらになりながらこの寒雷再生の渦をさらに激しく、さらに力強いものに育てていかなくてはならぬと思った。が渦はすでにまきはじめていた。ぼくはその渦にのみこまれてゆくを自分を嬉しいと思った。当時の「寒雷」の東京句会の主要メンバーは、楸邨夫妻、編集部を始め、秋山牧車、佐久間東城、牧ひでを、並木鏡太郎(嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」の映画監督)、久保田月鈴子、川崎展宏、猪俣千代子さんらが常連。田川飛旅子さんや、桜井博道さんらが準常連といったところ。和知喜八さんや相葉有流さん、まだ同人ではなかった長野の矢島渚男さんや博多の姜基東(カンキドン)さん(今の「俳句界」社長)も遠くから時折顔を見せた。異色のメンバーとしては、河童の漫画家清水昆さん(俳号孤音)、小林多喜二夫人の森熊ふじ子さんら。
とにかく、男臭い句会だった。句会のあとは必ず居酒屋に立ち寄る。楸邨選に入った人をお祝いするという名目で、その実、選に入らなかった大多数の愚痴のオン・パレード。
議論が白熱し、ときには掴み合い寸前までいく。口角泡を飛ばして議論をすることが、座を交えた人への誠実な挨拶というふうな当時の社会通念があったような気がする。
議論の中で、皆、師を「楸邨、楸邨」と呼び捨てにした。誰かが「楸邨先生は」というと、「楸邨を先生などと呼ぶのは寒雷ではモグリだ」などと怒鳴られる始末。
こういう雰囲気は、それまでの僕の句会遍歴の中には無かった。
その理由を今になってつくづく意義深く考えている。
「寒雷」には、現場の労働に携わっている人が多かった。
楸邨の周辺には、照敏さんもそうだが、金子兜太、久保田月鈴子、田川飛旅子(初期には澤木欣一、原子公平)など東大卒の各界のエリートがいた。楸邨の出身校東京文理大(現筑波大)卒の教職者も多かったけれど、それらにも増して、現場の労働に携わるいわゆるブルーカラーの人たちが多くいた。
農業、漁業、養蜂業、板前、美容師、国鉄の運転士、炭鉱での採掘業務、鉄の精錬、トラックの運転手等々。
また視覚や肢体に障害のある人や桜井博道、小檜山繁子、平沢美佐子、野口大輔さんなど、長く結核療養所で過ごした人たちも多かった。
このことの意味は当然楸邨の俳句についての考え方とつながっている。
楸邨が「馬酔木」から離れたのは、美しい色調を取り入れた印象画ふうの外景描写に飽き足らず、「人間」を描きたかったためと言われる。
「俳句の中に人間が生きるように」。
楸邨自身が言ったことばであることは間違いない。しかし、その意味するところは、かなり誤解をされているように思う。
山本健吉が名づけた「人間探求派」という呼称にあまりにも強烈なインパクトがあったため、このコピー自体がひとり歩きしてしまい、楸邨や「寒雷」にはいつも「人間」という言葉がつきまとう。
「人間探求派」、観念派楸邨。人間、つまりヒューマン、そしてヒューマニズム。
これらの連想や印象がもたらしたものは楸邨俳句の本質や「寒雷」登場の意義とずれていたのだと最近になって特に感じている。
楸邨が希求したのは、人間が生きている現実の中で、直接、人や事物や事柄から五感で受け取る「気息」や「息吹」や「体感」。
蓄積された情趣や先入観や既存のロマンを抜けたところにある、その時その刹那の「リアル」そのもの。
人間の生きる意義とか、人間かく在るべしという「教訓」を俳句で述べることなどではない。むしろ、そういう観念とは対極にある一回性の対象との出会い。つまり新しい自分との邂逅。
花鳥諷詠は、固定的な俳句的情緒を季語の本意という名目にすりかえ、一方で「新興俳句」は「言葉」の本質に触れねばと声高に啓蒙しながらシュールレアリスムやオートマティスムなど近代自由詩の従来的手法を俳句形式に縮刷することに躍起となった。
花鳥諷詠にとって、「秋の蝶」は「いわゆる」弱々しい蝶であらねばならず、新興俳句の中の「兵」や「戦争」も「概念」としての埒を出ない。西東三鬼や三橋敏雄が空想で書いた「戦火想望俳句」というのがいい例である。聞いてもいない機関銃の音を詠い、見てもいない最前線の戦闘をアタマの中で活写する。そこにあるのは「いわゆる」戦争。
つまり、両者とも「いわゆる」付きの定番概念。
楸邨が、現場の労働者の労働実感や療養者の切実さから受け取ろうとしたのは、概念ではない「リアル」。
昭和三十年代から四十年代にかけての加藤楸邨選の一般投句欄、「寒雷集」の巻頭作品の中から具体的に見てみよう。
起てぬ身に金魚の尾鰭絶えず動く 岸川和子
青桃や今欲しきもの今告げたし 矢部栄子
岸川さん、矢部さんは療養者。これらの作のあと、まもなく夭逝。
雪の坑車へ大き鑿岩機抱き運ぶ 福島昌美
蛙けろけろほら吹き坑夫三太の忌 野宮猛夫
福島さん、野宮さんは炭鉱坑内作業に従事。
露の熊笹北斗より風湧きおこる 伊藤霜楓
伊藤さんは富士山山頂の測候所職員。
鰯雲頭に機関士の来し方満つ 田角瑞芳
泉飲んで機缶(かま)蒸れの臍息づけり 鈴木正治
田角さん、鈴木さんは国鉄機関士。
髪も紅も突つ込む蕎麦の湯気の中 秦鈴絵
秦さんは美容師。
太刀魚の立ち泳ぐさま傘で言ふ 加藤精一
加藤さんは板前。
これらの句の切実感を見てほしい。
現場の人たちの実感がこころを打つのは、作者が「現場の人」だからではない。傍観者的態度では把握できないリアルさに満ちているからだ。
これらの俳句がともすれば、「職場俳句」とか、敷衍して「社会性俳句」の名を冠せられるのは、正しい理解とは言えない。楸邨登場の意義ともずれて来ている。
現場のナマの実感つまりリアリズムが、しだいに、「社会性」という名の政治性(党派性)やべたべたのヒューマニズムに転化して受け止められていく。それは党派性へと導く意図のあった俳人古澤太穂さんなどのマルキストや多くの自称リベラリスト、そして、その違いをはっきりさせらなかった楸邨自身にも原因がある。
そもそも論理的であり、情の深い体質をもつ楸邨は、ナマの実感を詠んでも、それがヒューマニズムや隠喩に転化してゆくのを抑えられない。
読者が、楸邨のリアル志向を「教訓」や「箴言」にしてしまうのは楸邨自身の体質のせいもあるのだ。しかし、楸邨が志したのは、そういう転化してゆくリアリズムではなく、この人たちが、身体を通して「感じた」即時的なポエジーだった。
東京句会に出席して何度目かに、同人会長の秋山牧車さんが、「寒雷」の戦前の号を何冊か僕にくれた。勉強しろという意味だったのだろう。
牧車さんは、戦前に「寒雷」に入会した当時は大本営の陸軍情報参謀。もともと「馬醉木」に居たが十五年の「寒雷」創刊に馳せ参じたのだった。
戦後、楸邨が草田男から戦争責任の問題について公開の質問を受けたとき、その質問項目のいくつかは、軍人高官を結社内に置いて、雑誌存続等の便宜を図ったのではないかということに関する内容。つまり牧車さんのことを言っていたのだ(戦前、「寒雷」には他にも清水清山中将や本田功中佐らの軍人高官もいたが、情報参謀として文化的に影響力のあったのは牧車さんだったため)。
楸邨は草田男の問いにやはり公開できちんと応えているが、牧車さんはこのことで楸邨や「寒雷」に多大な責任を感じ、戦後の一時期には私財を投じて「寒雷」の維持に奔走した。
牧車さんの呉れた「寒雷」旧号には、「寒雷」とは無縁と思われた有名俳人が多く登場していた。
十六年十月号創刊号の一般選寒雷集次巻頭は永田耕衣。(当時は軍二)
少年工玉葱は地に一つ一つ 永田耕衣
十七年三月号二句欄に能村登四郎。
寒すずめ瓦斯の火ひとつひとつ点きぬ 能村登四郎
十七年九月号一句欄に八木林之助。
胡桃茂り徴兵検査身にせまる 八木林之助
十八年十月、十一号各一句欄に藤田湘子。
吊革の細き電車に歸省かな 藤田湘子
寝返へれば庭にもうとき残暑かな
十八年十月号に中島斌雄(当時中島健雄)。
紅芙蓉ゆれゐてしろき蚊帳に覚む 中島斌雄
他にも外山滋比古という名前も見える。
戦前のごく一時期の「寒雷」を開いただけで、これである。戦後からの長い時期を見れば、どれほど多くの俳人が「寒雷」を通り抜けたことだろう。
戦前の国策による俳誌統合を、牧車さんらの肝煎りで狡猾にもまぬがれた「寒雷」が、統合された新興俳句系の雑誌に拠るべきであった多くの有為の俳人を吸収した、というのが高柳重信さんの固執していた見解で、昭和四十年代から、この見解による「寒雷」攻撃を、自分が編集する雑誌「俳句研究」で繰り広げていたのを思い出す。
「寒雷」が俳誌統合をまぬがれたのは事実だし、新興俳句系の俳誌が廃刊に追い込まれたのも事実だが、その事実の推移に、「寒雷」の側のなんらかの政治力が働いていたという事実はない。
それよりも、新興俳句運動が先細りになったのは、その運動の内実自体に原因があったと重信さんは考えなかったのか。
照敏さんの句会では、早稲田の学生の豊田秀明さん、国学院の大塚青爾さんと句座を交えた。
このメンバーに石川桂郎に師事していたやはり国学院の島谷征良さんを加え、関東学生俳句連盟が作られた記憶がある。この集会に一度出たがそれっきりになってしまった。当時の学生運動の熾烈さがあり、そこへの共感から、「学生」と名前のついた組織が、どういう形であれ運動に関わらないことのうしろめたさがあったからだ。
日大闘争では、日大の「釣り同好会」が勇名を馳せた。
釣り同好会の幟が機動隊とのゲバルトの最前線に張りついていたのだ。「関東学生俳句連盟」とて、何か有効なことをやるべきだというジレンマが僕の中にあった。
現在、島谷さんは「一葦」を主宰し、この年に寒雷巻頭を獲った大塚さんはその後消息不明、豊田さんは大橋巨泉さんの娘さんと結婚され、去年他界された。
照敏さんは、自宅句会のメンバーで「山繭」という同人誌を作っていた。小檜山さんや寒太さんも入っていて、豊田さんや大塚さんや僕もそれに加わった。
しかし、照敏さんの流麗、明快な論旨に比して、彼の作品ははっきり言って僕は好きになれなかった。
初期の句で自選にも入れておられる、
万緑や鴉の目玉もりあがる
雲雀落ち天に金粉残りけり
紅椿おくれて芽ぐむ木を信ず
生き作り鯉の目にらむまだにらむ
機智はある。それもあまり新鮮ではない機智が。
それより、何よりも現実から受けとる切実な実感がない。言葉の緊張感が感じられないのだ。俳句はこうあらねばという意識が即時的で素朴な実感をひん曲げている。
要するに言葉に対する運動神経のごときが不足。
寒雷会員は加藤楸邨というひとりの指導者に師事しているのであって、そういう意味では僕も照敏さんも同等の仲間であり、作風がお互いに違うのは当然のことと考えてよい。
ただ、なかなかそう建前どおりにはいかない。
照敏さんには、同人誌「山繭」を拡大発展させて主宰誌にしようとする意図があった。
それは近くにいる誰の目にも明白だった。
そしてその意図が見えること自体は決して不自然なことではなかった。
金子兜太、澤木欣一、森澄雄、和知喜八、古澤太穂、原子公平、久保田月鈴子、斎藤美規、熊谷愛子、小野蒙古風、原田喬等の俳誌主宰者は寒雷出身である。「寒雷」に投句経験があるというだけの自称弟子まで入れると正確な数がつかめないほどの主宰誌が「寒雷」から独立している。
力のある俳人が多かったことがその理由なのだろうが、同人や会員の集合離散にまったく楸邨が無関心だったせいでもある。寒雷では、何もかも、楸邨批判でさえ自由だった。だから破門などということも一件もなかった。
その前年、昭和四五年に森澄雄さんが創刊した「杉」もご他聞にもれず、十数年間も寒雷の編集長をやってきた森さんの人望もあり、むしろ楸邨の祝福を受けるかたちで出発したのだが、寒雷の主要同人や有力会員が根こそぎと言っていいほど数多く参加したため、同人の一部から反発があった。
寒雷誌上に古参の久保田月鈴子さん(現代俳句協会幹事長でもあった)が、「松だか杉だか知らないが」という「杉」の人集めに対する皮肉を書いて物議を醸したことがある。
楸邨もこれには困ったのだろう。句会で「森くんを応援してあげて欲しい。そして寒雷一本で頑張るという人も大いに頑張って欲しい」という異例の発言があったのを覚えている。
そんな中での現役編集長照敏さんの「山繭」だった。
照敏さんは、僕や早稲田俳句会の豊田秀明さんを可愛がってくれていた。
僕らを子飼いとして、来たるべき自分の主宰誌の中核に据えるつもりでいたに違いない。
そのことを僕らは感じ取っていた。しかし、それは、僕にとっては、むしろ迷惑な思惑だった。
同人誌「山繭」が照敏さん主宰誌に変わる前に自分の意志をはっきり告げなければならない。
そこで僕は照敏さんに手紙を書いた。
僕は山口誓子を最大に評価していて、その呪縛からの脱出口を探るために「寒雷」に来た。俳句性の核心は、イメージが鋭く断絶しところに散る火花にある。僕はそういう前提を置いて楸邨を学んでいるので、あなたの句柄の流麗な文体と機智は僕の志向するところではない。
そんな文面だった。もっと失礼なことも書いた気がする。
あなたには才能を感じないとも。
僕の方があるとまでは書いたかどうか。
怖いものは何もなかった。受験をはじめあらゆることがうまくいかなかった劣等感や焦燥感の裏返しが、俳句という一点に向ってのプライドを滑稽なまでに肥大化させていた。
文体の好みが違っても、一緒にやることはできます。
照敏さんから優しく論理的な返事がきたが、彼とはそれきりになった。
彼はその後一年で、公務多忙を理由に編集長を辞める。
「寒雷」の古参の人たちと相容れなかったという噂もあった。結局、彼は編集長ばかりか、寒雷同人も辞し、逃れるように退会して、「山繭」を改め「槙」を創刊することになる。編集長在任は三年であった。
そのこと以降二〇〇三年に照敏さんが亡くなられるまで、一切の交信はなかった。
照敏さんの、あの自信に満ちた、それでいて、純粋な子供のような笑顔を思い出すと、何か、ほろ苦い、申し訳ないような複雑な気持ちが湧いてくる。
(了)
平井照敏作品抄
金木犀の香の中の一昇天者
雲雀落ち天に金粉残りけり
万緑や鴉の目玉もりあがる
雲雀落ち天に金粉残りけり
紅椿おくれて芽ぐむ木を信ず
生き作り鯉の目にらむまだにらむ
ふと咲けば山茶花の散りはじめかな
死顔が満月になるまで歩く
いつの日も冬野の真中帰りくる
雪解けといふ愉しさを来りけり
秋風やきのふはしろきさるすべり
みな去れば冬大空のごときかな
木下闇抜け人間の闇の中
河鹿とはまろべる珠のごときもの
フリードリヒ・ニーチェのごとき雷雨かな
うりなすびきびとうがんと病みにけり
旅人に終の旅あり夏暁
「はる」といふことばの春がきてをりぬ
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