金曜日の午後に
瀬戸正洋
岡村知昭と話した。たわいのない話である。共通の知り合いであるご老体のことを話した。褒めたりはしない。悪口を言った訳でもない。敬老の精神は持っているつもりだ。彼は、句集「然るべく」(人間社・草原詩社刊)を上梓した。「俳句世界のダークホース」だという。その中にも、ひよこの作品がある。
眉剃ってひよこめぐりのみんなかな 岡村知昭
面白かったのは略歴のポートレートである。ずいぶんとやんちゃに撮られている。彼の笑っているようにも見える視線が気になった。あとがきの中で、次のステージへ向かう自分を励ますひとことだとして「なせばなる、なるようになる、なんとかなる。」と書いている。ずいぶん生臭いことばだと思った。栞に「こんな乱暴で誠実な奴は他にはいない」(「句集によせて」佐孝石画)と書くひともいた。
ひよこやめなくてよろしい四畳半 岡村知昭
四畳半とは下宿のことなのだ。親の脛を齧っていたとしても、はじめて親元から離れて独立をした場所なのである。そこは、精神にとってもはじまりの場所であった。ひよことは、彼自身なのである。二十数年前、「ひよっこ」であった彼なのである。もちろん、今でも「ひよっこ」の自覚はある。だから「なせばなる、なるようになる、なんとかなる。」などと生臭いことばを吐いて自分を鼓舞しているのである。
金賞のひよこもみがらまみれなる 岡村知昭
金賞を付与したのは彼である。「ひよっこ」である自分自身に付与したのである。自分に対して、そうしてあげたいと思ったのだ。金賞のひよこは、もみがらにまみれていることこそ相応しい。自分で自分を褒めてあげたいと思うことは、どこかのマラソンランナーだけではなく誰にでもある。私など、毎夜、「自分に対するご褒美だ」などと嘯いて、薄汚れた暖簾を右手で掻き分け入っていく。
川ベりのひよこまんじゅうこそひよこ 岡村知昭
ひよこまんじゅうはひよこではない。だが、川べりのひよこまんじゅうは、本物のひよこだと言っている。何を言っているのかさっぱりわからない。要するに、彼は何も言いたくなかったのである。何も言わないことは、生臭さを薄めていく方法なのかも知れない。十七文字を書き連ね、その中に「ひよこ」という文字を入れることが唯一の手段なのかも知れない。確かに、乱暴で誠実なひとなのだと思う。
サウナ出るひよこに戻れなくなりぬ 岡村知昭
ひよこを捨てることを決心しなければサウナに入ることはできないなどと言っている。だが、これは嘘っぱちなのである。彼は嘘にまみれた人生を歩きたかったのである。捨てたあとどうなるかなどということはどうでもいいことなのである。だが、いちど捨てたものは帰ってこないということは真実なのである。人生には、そうしなければならないときがあるということも真実なのである。
立読みのあと冬鴎・不義・フーガ 中嶋憲武
街へ出るたびに書店へ寄る。書店へ寄るたびに立ち読みをする。俳人にとっては日常なのである。そして、冬鴎、不義と続けば密通。即ち、艶歌の世界となるのである。ところが、「フーガ」で終わっているので立ち止まる。「ひとつの主題を」「複数の声部が模倣しながら後続の旋律が次々に追いかけ」「絡み合いながら演奏する」などと「フーガ」の解説をひろってみたりする。文学において恋が成就するとは心中のことなのである。もちろん、空想科学女子の実生活においても恋の究極とは心中であるに決まっている。
空想科学小説おでん煮てくださる 中嶋憲武
おでんを煮てくれたのである。彼は空想科学小説を書いている。恋愛小説など全く興味がないと装っている。空想科学小説とは「宇宙や未来を題材にし、科学技術の進歩を描写し冒険、ロマン、恐怖などを描いたもの」であるならば、恋愛小説と全く同じだともいえる。鍋の中では、空想科学小説も恋愛小説もおでんも、ぐつぐつと煮えている。
てのひらを蒲団に隠しおほせる日 中嶋憲武
てのひらは善行も悪行もすべてを知っている。蒲団の中で眠るということは、てのひらにとっては、その日の疲れを取るためのものである。加えて、生まれたときから決まっている到着点である「死」に対しての疑似体験のためのものなのである。てのひらの経験は「死」を空想するうえでは欠かせない。その日、てのひらを隠し通せると思った。空想科学を駆使して隠さなければならないと思ったのである。
梨の木を焚けばりんごの匂ひせり 藤本る衣
梨の木を燃やしても梨の匂いなどしない。林檎の木を燃やしてもりんごの匂いなどしない。何故、梨の木を燃やしたときりんごの匂いがしたのか。それは偶然だったのである。必然だったのである。理由などあるはずもない。ただ、りんごの匂いがしたということが事実だ。もしかしたら、作者は不味いりんごの味を思い出していたのかも知れない。
冬麗の九階を飛ぶ洗濯ばさみ 藤本る衣
洗濯ものを取り込んでいるとき何らかの拍子で洗濯ばさみが弾けて跳んでいった。あたかも、洗濯ばさみの意思が働いているように。そう思った瞬間、ばったが跳びはねるようにベランダの物干しざおに止めてあったすべての洗濯ばさみが飛びはじめたのである。九階のベランダには風もなく冬の太陽がたっぷりと降り注いでいる。
列島はきのふ沈みてそんな雪 藤本る衣
雪が積もっている。日本列島のどこもかしこも、こんなふうに積もっているような気がしてきた。それにしても、昨日の雪の降り方は尋常ではなかった。日本列島も彼女自身も、この雪によって沈んでいってしまったのである。だが、彼女は気付いている。これは、得体の知れぬ何ものかの仕業であることを。
くゆらせるけむりの欲しき春の夢 藤本る衣
たばこが欲しいということではないようだ。たばこは不要だが、くゆらせるけむりが欲しいということなのだ。ホテルの最上階のシガーBARではうす汚れた男と女、得体の知れぬ男と男であふれ返っている。モノクロの映画のような騙し合い。もやもやとした精神、もやもやとした肉体。どこまでも続いていく春の夢。
薄氷やベンチしなびてゐてまだ木 坂入菜月
木造りのベンチがしなびてぼろぼろになっている。既に、ベンチのていは失われているのだ。だが、かろうじて、木造りであるおもかげはのこっている。昨夜はとても寒かった。寒さと時間は、かたちのなきものへ葬り去ろうとする張本人なのである。だが、そうは問屋が卸さないと木造りのベンチは踏ん張っているのである。
二月はやまことしやかに人類史 坂入菜月
人類の歴史などというものは嘘八百なのである。何も知らないひとが何も知らないひとに対していかにも本当らしく語る。時は全速力で過ぎ去り、ますます、訳の分からないものになっていく。人類史とは、過去を研究するものではない。とんでもない未来が待っているにしても、人類は滅亡することが決まっているにしても、わずかな希望を見出すためのものなのである。二月はまことしやかに人類史を語りかける。
文明や野焼を遠くキスをして 坂入菜月
野を焼くことは文明である。キスをすることも文明である。ましてや、野焼きを遠く眺めながらキスをすることが野蛮な行為である訳がない。好きなだけ野を焼けばいいのだ。好きなだけキスをすればいいのだ。燃えるものがなくなれば自然に消えていってしまう。もう嫌だと思うくらいキスをする。そして、あたらしい何かをはじめればいい。
朝寝してまぶしき部屋や睫毛が疎 坂入菜月
睫毛には当然のように精神がある。睫毛は、睫毛を疎んじているのである。朝寝をしたことは睫毛の問題であるので内圧である。まぶしき部屋とは外圧である。その日は、たまたま、晴れた朝だったのである。「たまたま」。これが人生の全てなのである。
春泥に蛹めきたる渋谷駅 坂入菜月
渋谷駅が蛹のように見えた。渋谷駅が蛹らしくなった。それは、春泥によってなのである。そして、その春泥とは記憶の中のものなのである。春泥、蛹ということばを置いたことにより、彼女にとって新しい何かがはじまりそうな予感がする。渋谷駅は蛹となり記憶の中でゆっくりと歩きはじめる。
雪解けのひかりへひらく眼の検査 田島健一
ひとは病むとこころを閉ざす。検査をとはひかりに向かってこころをひらくことなのである。眼を病むと太陽のひかりは堪える。雪原に反射した太陽のひかりはなおさらに堪える。雪解けの太陽のひかりだと、聞くだけで、少し和らいだ気分になる。少し和らぐということは治癒したも同然のことなのである。水の流れる音を聴くと、さらに、こころを癒してくれる。
蝶を追いつづける人工知能の眼 田島健一
ひとの眼と人工知能の眼は異なる。蝶を追いつづける眼だから同じではないのだ。追うことを続けることはひとにとっては苦手なことなのだ。神が、あるいは生物学的な「何か」により、はじめから備わっている眼と、ひとによって組み込まれた眼とは違う。人工知能の眼とは、好き嫌い、その日の体調、気分等々で濁ってしまうひとの眼より、はるかに公平なものだと思う。
妻が布ひろげる同じ部屋に蜂 田島健一
妻は布をひろげる。部屋の中を蜂が飛び回っている。妻が布をひろげたから蜂が入って来たのだと思った。これは心象風景であり、妻との関係に似ている。蜂は部屋から出ることはかなわず、そのまま死んでしまうのだろうと思う。
繰りかえし着る鳥の巣に似た私服 田島健一
プライベートのときは私服を着ているとは言わない。プライベートのとき制服を着ていることはあるのかも知れない。仕事中に私服を着ているのである。それも、鳥の巣に似た私服を繰り返し着ている。オーナーは営業社員に、長髪にしろ、茶髪にしろ、一度会ったら、絶対忘れることのできない着こなしを考えろと言う。そと見は一風変った営業社集団だが業績は伸びている。ひとと変わったことをするにはどうしたらいいのかを考えてみることは必要だと思う。
盲導犬が火の前バレンタインデー 田島健一
盲導犬は危険を察知してつぎの一歩を踏み出せないでいる。ご婦人からチョコレートを頂くことも危険なことなのである。もちろん、ご婦人に何かを差し上げることも危険なことなのである。彼にとっての盲導犬とはご婦人のことなのである。チョコレートが危険であるとはあたりまえのことなのである。ふたりは燃えさかる火の前に立っている。
なで肩でうららかおとこ抜刀せず 田島健一
なで肩でおっとりとしたさまのおとこは刀を抜かない。心にわだかまりがないから抜く必要などないのである。だが、誰かが、おとこの心にわだかまりを持たせようとしている。刀を抜かせようとしている。なで肩のおとこには剣の達人が多いことを誰も知らない。
立春の水が動かすホースかな 野住朋可
意思に反して思わぬ展開になってしまうことは多々ある。運を天に任せる。いきあたりばったりの人生。本来、人生とはその程度のものなのかも知れない。蛇口を開くと、まるでホースに意思があるかのように動き出す。立春のころの水はまだ冷たい。
春雪のやうにペンネームを使ふ 野住朋可
春の雪は淡くすぐに融けてしまう。ペンネームとはそのようなものなのである。書くとは自分を曝け出すことである。ふとわれに返ったとき、なにかとても恥ずかしい気持ちにおそわれることがある。ペンネームとは、その恥ずかしさを紛らわすもの、恥ずかしさから自分を守るためのものなのである。故に作品も自分自身も淡くはかないものであると思わなければ生きていくことなどできないのである。
うららかや寝間着の腰にゴム入れて 野住朋可
腰にゴムの入っていない寝間着は歩くとき手で押さえなければならない。眠れば脱げてしまう。寝間着にゴムは必要なのである。ゴムを入れる日はうららかな日でなければならない。おっとりとしたゴムは、なんのわだかまりもなく、寝間着に使われることを望んでいる。
すぐに済む話菜の花湯がきをり 野住朋可
前ぶれもなくやって来る。庭の畑から菜の花を摘み、さっと湯がいて鰹節に醤油を垂らす。あとは冷たいビールでも出せばいい。何のために来たのかよくわからないひとなのである。他愛もなく笑うひとなのである。いつものように、ゆうがた、山を下って帰っていく。
朧夜の棺のごとく風呂洗ふ 野住朋可
灯りの点いていない部屋に棺が置いてある。折しも窓からは月のひかりが差し込む。誰が亡くなったときなのか思い出すことができない。朧夜であったと記憶している。風呂の浴槽を洗うときはその中に入る。死ぬという自覚は誰にもある。ひとはせまい場所に入るたびに自分とともに焼かれる棺をイメージする。「死」への予行演習を何度も繰り返す。その繰り返しが「死」の恐怖を和らげていくのだ。
■坂入菜月 キスをして 10句 ≫読む
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