破綻はあるけれど
堀下翔
初出:「里」二〇一五年七月号(転載に当って加筆修正)
初出時タイトルは「破綻を無視する」
初出時タイトルは「破綻を無視する」
「鏡」二〇一五年七月号に掲載されている羽田野令「翳り」十四句が面白かったので今回はこれについて書いてみる。たとえば一連はこの句から始まる。
渡廊下は涅槃図を出てからのこと 羽田野令
涅槃図のなかにはいろんなのがいる。羅漢だとかの仏弟子をはじめ、心を持たない動物たちまでもが来て、釈迦の入滅を悲しみ、今生の縁を結ぼうとする。釈迦が涅槃に入ろうとすると空の色が変わるので、それで事態を察した世界中の者たちが押し寄せるのである。だから涅槃図というのを見るとだいたいものすごい混みようである。よく見ると象なんかがいてのたうちまわったりもしている。そしてみんながみんな号泣しているので涅槃というのはある種とんでもない騒ぎだったのだろうなと思うのである。
掲句はその涅槃図から誰かが抜け出てきたという。空想的なことを書いているようだが、文字通り受け取ってみる。渡廊下は涅槃図が掛けられている寺あたりのそれだろうか。涅槃図目当てに観光客が来ている寺でもいいが、やはり、寺らしい、粛然とした空間を想像したい。涅槃図の中の喧騒を想像するにつけ、この渡廊下のしいんとした感じは際立ってくる。
ところでこの句の形はちょっと変だ。「渡廊下」を主語にし、そこに区別の助詞「は」を使う。だからこの句が話題にしているのは「渡廊下」である。単に涅槃図から誰かが渡廊下に出てきたというだけではないニュアンスがある。涅槃図を出る前から、その先にあるのは渡廊下であるとこの人は知っていて、目指していた。あるいは、渡廊下を去った後、涅槃図から現在までのみちゆきで最も印象深かったのは渡廊下であると考えている。いまいち読み切れないうらみはあるが、「渡廊下は涅槃図を出てからのこと」という表現を見る限り、ともかくも主題化しているのはなぜか渡廊下であり、文脈が見えないことによる不可思議な読み心地が、この句の魅力になっているのだ。
「こと」というのもヘンだ。「渡廊下」は名詞なので、これを受けるとすればふつう「もの」になる。「こと」というのは、なかなか説明しづらい概念だが、たとえば、出来事を受ける言葉である。そうなるとこの渡廊下は、単なる場所ではなく、何かの出来事の換喩として、この人に認識されていることになる。「渡廊下(で起こる/起こったこと)は涅槃図を出てからのこと」だとか、「渡廊下(でわたしが行う/行ったこと)は涅槃図を出てからのこと」だとかの省略と説明すると分かりやすいか。
とはいえ、そこまで生真面目に言葉を補う必要はないだろう。何の断りもなく「こと」と書かれている以上、この人にとっての渡廊下は、「もの」ではなく、疑いなく「こと」だったのだ。この句にはそのような不思議な把握の仕方が内面化しており、それを追体験すべく、想像力を駆使することが、読者の愉楽なのだ。
さて、さらに言うと、「こと」のあと、述語に相当する部分が欠落しているのも掲句の特徴だ。掲句が読み切れなくなっている原因はここにある。「こと(だろう)」なのか「こと(だった)」なのか、あるいはほかの何かなのか、時制がはっきりしないがために、句意があいまいになっているのだ。このあいまいさは、この一句が空想の産物であることと、表裏一体をなしている、
「翳り」の句の多くは、このように、意味を伝達するには表現が破綻しており、具体的な像を結ばない。
蒲公英の葉をぎざぎざと遡行する 同
蒲公英の葉はぎざぎざで、だからあの葉を遡行するとなれば、たしかにその遡行の様子は、副詞でいえば「ぎざぎざと」になるだろう。「葉」を修飾する慣用的な表現が、さりげなくずらされ、「遡行する」を修飾する副詞になっている。
「遡行」とは何だろう。文字通り、遡ることだけれど、これは基本的には、水の流れに対して使う言葉である。川を遡行する、とか。SF小説で「時間遡行」などということもあるが、これもやはり、時間を水流に譬えているのである。だから「蒲公英の葉」を「遡行」するというのは、日常の言語感覚とはズレている。
掲句の主語は何だろう。というか、具体的にどういうことを言っているのだろう。考えるほどに頭がこんがらがってしまう。
小さな虫が葉をちょこまかと登っている、という読みがまずひとつありえる。虫を擬人化しているきらいがあって、少し幼いが、そういう自然詠として受け取ることができる。この場合、「虫が」という主語が省略されていることになる。
だが、日本語が省略する主語といったら、何を置いても、わたしだ。だからこの句はもうひとつ、人間が蒲公英の葉を指先でもてあそぶ景と読むことができる。葉先から茎の方へさわることか、あるいはその逆かを「遡行」と言っているのである。この場合は「遡行」という表現に破綻があるが、詩的な破綻のうちだろう。人間の指にはごく小さい蒲公英の葉に対して「遡行」という大げさな言葉を持ち出すことで、葉にさわっている時間の長さもわかる。
他、同句群中には「天頂の翳りへ蝶を追ひつめる」「おとうとにあぢさゐの息濃かりけり」といった句も見ることができる。日常の言語感覚の破綻を逆手に取ることで微妙な気分を再現する句群といえようか。
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