あくまでも詩の世界の
羽田野 令
卯の花くたし面会謝絶の兄へ羽音 竹岡一郎
竹岡一郎さんの「バチあたり兄さん」三十句の一句目である。「面会謝絶の兄」とあるから、病篤い状態で入院しているお兄さんであることがわかる。三十句中に「兄」の出て来る句は何句もあるが、お兄さんの具体的な状態は他に書かれてなく、あくまでも詩の世界の中の作者の捉えている兄である。
身内の誰かの入院という非日常の事柄により引き起こされる諸々。そのことによって自分の内に広がってゆく暗い海を見ているようであり、そこに浮かんでは消える形象を捉えて言葉を着せていった、そのように受け取る。魅力的な表現は多い。
タイトルの中で兄に冠されている「バチあたり」とは、肉親ゆえの親しさのこめられた表現であるが、この語にある悪意の感覚が、「兄」の出て来る「守宮搗く兄のまたたくまの違背」「蟹斬る兄こそ崖の見世物だ拍手」「青田よりあふぐ暗愚の兄の址」などの「違背」「崖の見世物」「暗愚の」といった言葉から浮かんでくる。また、「二百年生きた金魚は兄と化す」では金魚が兄になっているし、「蛸に似るまで坂ころげ迫る兄」では、「蛸に似るまで」と、グロテスクと迄いかなくても美と対局にあるような表現がなされ、坂を転げる兄であったりする。それぞれの景は具体的に鮮やかに描かれているが、今ひとつよくわからないのは、それが兄との関係性を作者側から表すものとしての句自体がメタファーだからなのであろう。
どれくらい年の離れている兄弟なのかはわからないが共に成長する兄弟だと、弟にとっての兄はアイデンティファイの対象ともなって、また様々な反発や葛藤を経るものであるが、それら負の面が絵巻の様に並んでいる。
蛇となる途中の廊下拭き磨く 竹岡一郎
長い物としての廊下と蛇。廊下が突如鱗を持ちうねり始めるというような妄想を、人はその思考の一端に持つ事はあるのかもしれない。「拭き磨く」ことをしながら、無機物である廊下に邪悪な生物のイメージを重ねるという。
澪照らし合うて鵜舟とうつほ舟 竹岡一郎
闇の中に篝火を焚いて動いてゆく鵜舟はそれだけで不思議な世界を現出するが、掲句ではもう一つ水面を照らす明りがある。異界から漂着する「うつほ舟」である。現実の世界の中に見知らぬ世を含む妖しさが生まれる。
「うつほ舟」とは、古事記で少名毘古那(すくなびこな)の乗ってきた羅摩(ががいも)の舟のことも言うし、神話で赤子を川に流す時に乗せると舟として記されていたりする。もうひとつ、江戸期の「はらどまり村」の記録にある舟は、それから澁澤龍彦が書き起した短編の「うつろ舟」があるが、光っているのでこの場合はこの舟の方が合うのだろう。
まらうどの晴の跫音のいづみ震(ふ)る 竹岡一郎
三十句目の句である。この少し前には、「橋は関なり」「征き」「終りちかづく」などの語のある句があり、土用波となっている兄、形代となっている兄がある。掲句の「晴の」は「儀式の」というように思い、儀式に訪れて来る人の足音がしていると読んだ。「跫音の」の後にちょっと切れがあり、「いづみ」が震えている。この「いづみ」はここならぬ泉と思えるのだが、そうではないのだろうか。連作として時間の推移を見るとするとそのように読めてしまうのだが、勝手な読み違いで作者には失礼なことなのかも知れない。
亀鳴けり刺子の驢馬がふえてゐる 高橋洋子
刺子で画像検索すると、紺地に白の糸で縫い取りのされたものが沢山出て来る。いろんな色の糸で刺繍する西洋の刺繍と違って、刺子とは元々そういう単色のものらしい。夜な夜な刺子で驢馬を刺している。ふと見るとその驢馬がどうしてか増えている。刺した覚えがないのにいつの間にか増えている。おかしい。しかし、亀が鳴いたのだからそれも有りなのだ。「亀鳴けり」がいい。刺子が勝手に増えるならば亀がもっと鳴いてほしいものだ。
第535号
0 件のコメント:
コメントを投稿