文字につかまったあなたとわたし
嵯峨根鈴子
「レモン捥ぐ」 森澤 程
真っ暗な鏡へ踊りより帰る 森澤 程
日常ではない「ハレの場」として「踊り」は提示されている。踊りの輪はどんなにライトアップされていようと、ど
んなに大勢の人が集まろうと、さほど明るいものではない。盆踊りに限らず踊りとはうら寂しいものである。踊りを終えて帰ってゆく場所とは日常生活の場いわゆる「ケの場」であり、そこが「真っ暗な鏡」だと作者は言うのである。鏡とは卑弥呼の時代から特別な霊力を持つものとされている。因みに鏡にの中に出入りするという発想は珍しくはないが、その多くは能舞台の鏡の間のように、異界あるいは変身への入り口とされている。であれば、鏡へと帰ってきたのは何者かの化身かも知れない。そうしてまた巡りくる「ハレの日」まで日々をやり過ごしてゆくのだろう。「くらきよりくらき道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」和泉式部の一首に思いを馳せた。
階段も雲もテンペラ小鳥来る 森澤 程
アッシジの聖フランチェスコ教会にあるジョットのフレスコ画「小鳥に説教する聖フランチェスコ」を思い浮かべた。と同時にふっと心を過ったのは田中裕明の一句「空へゆく階段のなし稲の花」である。心に浮かんだそれらの映像に導かれるように辿り着いたのは有元利夫の絵画の世界だった。なぜだか寂しくも幸せな感覚を味わった。
核の世の網棚に置く榠樝の実 森澤 程
網棚に置かれた榠樝の実の爽やかな香りが辺りに広がり幸せな気分なのに、榠樝の実の歪なことが気掛かりだ。しかも、網棚に置くなんて不安が募る。榠樝の実とは何かのメタファアーとして網棚に置かれてあるのだろう。その榠樝の実とは貴方かも知れないし、私かも知れない。この地球かも知れない。あるいは核そのものだと思われなくもない。かくのごとく核の時代が続いております。
「天象儀」 伊藤蕃果
薔薇園を遠くに眺めくるしまず 伊藤蕃果
手入れの行き届いた庭園に身を置いてしばらくすると、息苦しく感じることがある。塵一つない京都の庭園より、鎌倉の大雑把な感じの庭園の方に親しみを感じたりする。この感覚は多分、美しく掃き清めた後の、仕上げの散紅葉みたいなものとも少し違う気がする。計らいの無さとでも言えようか。薔薇園なら香りも色彩も豊かすぎて、息苦しくなることもあるだろう。遠くから眺めるぐらいが丁度いいと思う人もあるだろう。最近では「香害」という言葉も耳にする。マイノリティーの声として、微妙な感覚を云い留めている。「くるしまず」の表記がいたいたしい。
香水の文字の中まで入り込む 伊藤蕃果
「におい」とは無意識のうちに記憶を呼び覚ますきっかけになりやすいと思う。しかもとても個人的で多種多様なものだ。たとえば金木犀の香を嗅げば、幼い頃のある日の記憶がこと細かく頭に描けるし、泰山木の花の香は私の場合、何故か銭湯の足拭きマットに記憶が重なる。覚えのある香水を嗅げば、それを使っていた人物を思い出すのは自然なことだろう。この一句、意味を考えるのは無意味だと思ったけれども、どうしようもなく知りたくなってしまうのは、主語は誰かということだ。文字の中まで入り込んで出られなくなったのは、作
者も読者も同じなのかもしれない。味わい尽くせないほど豊饒なエロスの一句と捉えた。
感嘆の度に傾く舟遊び 伊藤蕃果
とびっきりのシャッターチャンスの一句でしょう。歓声と共に水の飛沫や光の粒まで見えてくる。傾く舟に踏ん張っている両足の重心移動までが伝わって来てリアルだ。
逃げるべき場所など無くて紙魚走る 伊藤蕃果
おたおた逃げ惑う紙魚を思うとおかしくて。実際に紙魚の姿を見たことはないが、調べると足があり、逃げ足も速そうだ。想像を巡らしているうちに、紙魚というのは人類の象徴かも知れないと思えてきた。人々の逃げ惑う映像は、近頃よく目にするが、テロ、洪水、津波の映像に一人一人の顔は見えづらい。まるで紙魚のようだ。現世には人類の逃げるべき場所などどこにも無いのかも知れない。人類に次のページがあるのならぜひ捲ってみたい。そこにはきっと一匹一匹の紙魚の貌があるに違いない。
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