ふたつめの旅
丸田洋渡
映画を見るとき、自分は主人公にならなくていい。主人公が存在し、はっきりと映像として主人公を外側から見れる。しかし、小説や詩歌句など、文字で表されたものは主人公が映像として見えない。自らの内側にその映像を描いていくしかない。自分が主人公に感情移入して、わざわざついていかなくてはならない。単に見るのが楽かどうかで考えると、映画のほうが格段に楽である。
楽ではないし感情を移入する必要はあるが、この仕組みは、俳句の中では面白いはたらきをする。
主人公(投影した自分)が何かを見れば、自分は脳の内側でその何かを見る。「柿食えば鐘が鳴るなり」と有れば、自分は主人公になっているため、脳内、心の中で柿を食べ、鐘が鳴る音を聞く。外側から何も見えないが、内側で物語を追体験していける、「内側の展開」がある。これを一番感じるのは、俳句のなかで「われ」などの自らを指す言葉が出てきたときである。自分の内側の主人公がさらにその中を考えるため、なんだかむず痒い気持ちになる。
内側で映像や経験、記憶を追体験していく。僕はどの俳句作品においても、一度その主人公(それが人でなくても)に成りきってから読む。すると、ただ風景を見るような淡白なものに終わらず、さまざまな形で景色が見えてくる。この感覚が非常に心地いい。
先日発表された、同期の友人である柳元佑太の連作「土佐夕焼」をさらりと一読して、見えてくる景色が、自分が実際に見るよりも綺麗なのではないかと思うほど素敵だった。彼のこの連作は、彼が実際に一人でヒッチハイクの旅に出た経験から作られているため、今回は彼を主人公としてまず鑑賞したい。(鑑賞は自由であるため、主人公が誰か特定はしないほうがいいと思ってはいるが、この連作ははっきりと彼の体験記でもあることを意識して読むのが作品のためだと考えた)
赤とんぼ荷造りはゆつくりがよし
この旅の始まり。赤とんぼの飛ぶゆるやかで長閑な自然の中、彼が荷造りをする。荷造りは、ただ旅に必要な物を用意するだけの作業ではなく、これからの旅でどんな嬉しいことが、どんなイベントが起こるだろうかと胸を膨らませる豊かな時間である。「赤とんぼ」の平仮名のバランスや、「ゆつくりがよし」という独り言のような優しさ、嬉しさが、読者に旅の遥かさを思わせる。荷造りをするとき、もう彼の、読者の旅は始まっている。
首都おのが光に照りぬ秋の雨
「おのが」の意味の取り方によって多少想起される景は変わるかもしれない。「おの」を彼であると考え、首都の中にいる彼が光に照っていてそして秋の雨が降ってくる、という読みが一つ。あるいは、「おの」を首都自身と考え、首都が自身の光に照っていて、秋の雨が降る、という読みも可能である。
テーマが土佐(高知県)への旅であることから、首都は土佐の原風景の対照物として置かれていると思われる。太陽の光に照らされること自体は首都東京でも高知でも変わりはない。そのため、この光は都会のビル群の出す光で、それぞれがガラスや地面に反射して、光を出しつつその光に照らされている、と僕は読んでいる。秋の雨によってその光が少し淡くなっていく、しかし多くの人は気にせずすたすたと傘に隠れるように歩いていく。彼は気づいて、どう感じたのだろう。そしてこれから旅をして、このことをどう把握するようになるのだろう(「おの」を彼だと取る可能性もあり、後述する)。都会の景色から徐々に自然の風景に移っていく、その始点になる句である。
天高し崩れずの城ながむれば
この城はおそらく高知城だろう。高知城は幸運の城であるらしく、1603年に完成してから、城下町の大火で城の多くを焼失したり、明治期の廃城の嵐、太平洋戦争など多くを経験したが、再建や修繕で危機を乗り越え、今も美しく残存している。
僕は城に詳しくなく、ついぼんやりと愛媛の松山城などを見ていた。しかし、彼は「崩れずの城」と城が見えている。そこにただ城があるのではなく、その城は崩れていないのだという発見。高知城が四百年以上も崩れないまま、創建当時の形をしていることの凄さ、圧倒的な時間の重さに気付く。
ただ空気が澄んでいて空を高く感じるだけでは無い、時間をもそこに感じ取るような、大きな広がりがそこにはあっただろう。この倒置が上手く効いている。体をするりと抜けていくような秋の風を読者として感じた。
さはやかに四万十までの頼みごと
特定するものではないとは思うが、おそらくこの頼みごとはヒッチハイクの、つまり「四万十まで連れて行ってくれませんか」というものだろう。もう今の時代は、以前に比べてかなり交通機関も発達している。ヒッチハイクをする人なんて今いるだろうか、と思っていたら普通にいたことにびっくりしていた。僕であれば人見知りで完全に不可能だが、彼はすいすいと渡り歩いていた。彼と別件で会ったとき、「凄いね、大変だったでしょ」と聞くと、「大変ではあったけど色んな人が優しくてなんとか着けた」と言っていた。ああ、爽やかだ、と思う。もちろん季語としての爽やかであるが、彼自身もまた、爽やかな人物である。
前の句「天高し」が、上に向かう視線の移動であるとするならば、この「さはやかに」の句は高知城の位置する高知市から西の四万十市へ向かう彼自身の横の移動を示している(実際「頼みごと」であるのでこの句だけでは四万十までは移動していない)。「頼みごと」という、あっさりした表現で止めた点が非常に涼しげで旅の雄大さを思わせる。
われの影われよりも美し土佐夕焼
連作の題の入った、この旅の中心的な句である。連作十句の中でも、真ん中の五句目に配置されている。季語は「夕焼」で夏ではあるが、この旅で彼が見た土佐の夕焼はきっと秋夕焼だろう。自分の影が美しく見えるほどの土佐の夕焼というだけで、眼前にオレンジと赤と影の黒が立ち現れて息をのむ。しかしそれだけでなく、この句の魅力は大きく中七にある。自らの影が「われよりも」美しいのである。この複雑さの無いすっすっと連なるような調べから、この光景がはっきりと想起される。
土佐の夕焼を眼前にした彼は、素直に、戸惑うことなく、自身の影が自分自身より美しいと感じた。それは、そう思わせるほど、土佐夕焼が壮大で美しく、心に迫ってくるようなものだったということだろう。
自然のあまりの大きさ、切実さに、人間一個人としてのちっぽけさを思わされたかもしれない。「われ」のリフレインが、その対比を描き出している。
ここまで読んで、二句目の「首都おのが」の「おのが光」に、この句の「われの影」が対応しているのではないかと考えられてくる。先の読みでは「おの」を首都と取った。しかし、この句との対比として、「おの」を「われ」即ち彼だと読むとどうなるか考えたい。二句目では、彼は首都の光に照らされていた。そしてその心象を表すかのように、寂しさを感じる秋の雨が降った。対して、土佐夕焼を眼前にした彼は、その夕焼の影を自分より美しいと思った。首都の光も光であることに間違いはなく、彼の下に影もできるだろう。しかしその時、自らの影に気にすることなどなかった。「光」だけを見ていた。「影」に気付き美しいと思えたのは、この旅のおかげなのかもしれない。旅による変化(成長)が感じられた。
こほろぎの草喰ふかほが目の前に
前の句とは一転、ユニークな光景を持つ句が続く。こおろぎの貌を目の前に見るのが、能動的にそうしたのか受動的にそうなっていたのかと一瞬考えたが、そのどちらもが面白く、どちらでもいいと思った。「目の前に」の終え方で、こおろぎの貌が迫ってくる気がする。「こほろぎ」「かほ」という平仮名の表記から、幼さも感じつつ、目の歪な円と草を頬張る口の動きが生々しく伝わってくるようで若干鳥肌が立った。
もしかして野宿なのでは、と思うが、もしかするのだろうか。今度彼から聞きたい。
秋雲や千切れて飛べる雲の中
「や」で切れているが、主語は秋雲と考えるのが自然だろう。秋の雲がちぎれて、空を流れるのではなく雲の中を飛んでいる。当たり前のことのようで、雲が雲の中を飛ぶことは意識しにくい。ぼんやり彼が雲を発見して、ようやく表現し得たのだろう。「や」の一文字でその雲がちぎれる様子、そしてそれを彼がじっくり見ていたことが伝わってくる。これが「の」ではなく「や」であることが、彼の旅の「ゆつくりがよし」に表される余裕なのだろう。
みづうながすみづの流れや澄みてをり
秋の季語「水澄む」を詠み込んだものだろう。水流を、水が水を促す流れだと捉えた、写生眼が光った句である。作りは前の「秋雲や」に似ている。自然の連続性を感じる。
天の河まなざしをして何釣らん
個人的に読みが難しかった句である。「釣」る動作の主体を天の河として読むと、彼含め多くの人が見上げたらある天の河は、それを見る人々のまなざしをもって、何を釣りあげようとしているのか、となる。主体を別の誰かに置くと、天の河の架かる澄明な夜に海を見つめて釣る人がいる、その人はそのまなざしで何の魚を釣ろうとしているのか、となる。天の河の一面に広がる星々をみな見上げるだろうと思い、前者の読みで考えている。天の河を見つめていたら、僕は天の河に釣られてしまうかもしれない。
ねむりびとまたひとり増え星流れ
この旅の最後の句である。彼はこの旅のあとすぐに自宅へ戻らず、別の件で違う場所にまた移動していたため、この場所は首都ではなく土佐(高知)であると推測する。
眠る人が増えていき、星が流れる。彼は起きていて、それを発見しただろう。そして彼が眠るころに、また星は流れていくのだろう。「ねむりびと」「ひとり」の表記から、空間を抱擁する優しさを感じた。静かな音も聞こえてくる。
荷造りを始めて、眠って星が流れていく。ゆったりした旅にはゆったりした終わりがあった。
彼はこの旅で多くのことを感じただろう。そして記憶や体験を凝縮させてこの十句になったのだと思う。この十句に丁寧に自分を投げ込んで、荷造りから始めるとき、読者である僕たちは城に時間を思って、夕焼での自身の影に「われ」を思って、こおろぎと目を合わせ、眠り人になっていく。彼が言語化し、俳句にしてくれたおかげで、第二の主人公である読者としての僕も、旅をしたような気になった。いや、もしかすると、僕も彼と旅をしていたのかもしれない。幸せな旅だった。
楽ではないし感情を移入する必要はあるが、この仕組みは、俳句の中では面白いはたらきをする。
主人公(投影した自分)が何かを見れば、自分は脳の内側でその何かを見る。「柿食えば鐘が鳴るなり」と有れば、自分は主人公になっているため、脳内、心の中で柿を食べ、鐘が鳴る音を聞く。外側から何も見えないが、内側で物語を追体験していける、「内側の展開」がある。これを一番感じるのは、俳句のなかで「われ」などの自らを指す言葉が出てきたときである。自分の内側の主人公がさらにその中を考えるため、なんだかむず痒い気持ちになる。
内側で映像や経験、記憶を追体験していく。僕はどの俳句作品においても、一度その主人公(それが人でなくても)に成りきってから読む。すると、ただ風景を見るような淡白なものに終わらず、さまざまな形で景色が見えてくる。この感覚が非常に心地いい。
先日発表された、同期の友人である柳元佑太の連作「土佐夕焼」をさらりと一読して、見えてくる景色が、自分が実際に見るよりも綺麗なのではないかと思うほど素敵だった。彼のこの連作は、彼が実際に一人でヒッチハイクの旅に出た経験から作られているため、今回は彼を主人公としてまず鑑賞したい。(鑑賞は自由であるため、主人公が誰か特定はしないほうがいいと思ってはいるが、この連作ははっきりと彼の体験記でもあることを意識して読むのが作品のためだと考えた)
赤とんぼ荷造りはゆつくりがよし
この旅の始まり。赤とんぼの飛ぶゆるやかで長閑な自然の中、彼が荷造りをする。荷造りは、ただ旅に必要な物を用意するだけの作業ではなく、これからの旅でどんな嬉しいことが、どんなイベントが起こるだろうかと胸を膨らませる豊かな時間である。「赤とんぼ」の平仮名のバランスや、「ゆつくりがよし」という独り言のような優しさ、嬉しさが、読者に旅の遥かさを思わせる。荷造りをするとき、もう彼の、読者の旅は始まっている。
首都おのが光に照りぬ秋の雨
「おのが」の意味の取り方によって多少想起される景は変わるかもしれない。「おの」を彼であると考え、首都の中にいる彼が光に照っていてそして秋の雨が降ってくる、という読みが一つ。あるいは、「おの」を首都自身と考え、首都が自身の光に照っていて、秋の雨が降る、という読みも可能である。
テーマが土佐(高知県)への旅であることから、首都は土佐の原風景の対照物として置かれていると思われる。太陽の光に照らされること自体は首都東京でも高知でも変わりはない。そのため、この光は都会のビル群の出す光で、それぞれがガラスや地面に反射して、光を出しつつその光に照らされている、と僕は読んでいる。秋の雨によってその光が少し淡くなっていく、しかし多くの人は気にせずすたすたと傘に隠れるように歩いていく。彼は気づいて、どう感じたのだろう。そしてこれから旅をして、このことをどう把握するようになるのだろう(「おの」を彼だと取る可能性もあり、後述する)。都会の景色から徐々に自然の風景に移っていく、その始点になる句である。
天高し崩れずの城ながむれば
この城はおそらく高知城だろう。高知城は幸運の城であるらしく、1603年に完成してから、城下町の大火で城の多くを焼失したり、明治期の廃城の嵐、太平洋戦争など多くを経験したが、再建や修繕で危機を乗り越え、今も美しく残存している。
僕は城に詳しくなく、ついぼんやりと愛媛の松山城などを見ていた。しかし、彼は「崩れずの城」と城が見えている。そこにただ城があるのではなく、その城は崩れていないのだという発見。高知城が四百年以上も崩れないまま、創建当時の形をしていることの凄さ、圧倒的な時間の重さに気付く。
ただ空気が澄んでいて空を高く感じるだけでは無い、時間をもそこに感じ取るような、大きな広がりがそこにはあっただろう。この倒置が上手く効いている。体をするりと抜けていくような秋の風を読者として感じた。
さはやかに四万十までの頼みごと
特定するものではないとは思うが、おそらくこの頼みごとはヒッチハイクの、つまり「四万十まで連れて行ってくれませんか」というものだろう。もう今の時代は、以前に比べてかなり交通機関も発達している。ヒッチハイクをする人なんて今いるだろうか、と思っていたら普通にいたことにびっくりしていた。僕であれば人見知りで完全に不可能だが、彼はすいすいと渡り歩いていた。彼と別件で会ったとき、「凄いね、大変だったでしょ」と聞くと、「大変ではあったけど色んな人が優しくてなんとか着けた」と言っていた。ああ、爽やかだ、と思う。もちろん季語としての爽やかであるが、彼自身もまた、爽やかな人物である。
前の句「天高し」が、上に向かう視線の移動であるとするならば、この「さはやかに」の句は高知城の位置する高知市から西の四万十市へ向かう彼自身の横の移動を示している(実際「頼みごと」であるのでこの句だけでは四万十までは移動していない)。「頼みごと」という、あっさりした表現で止めた点が非常に涼しげで旅の雄大さを思わせる。
われの影われよりも美し土佐夕焼
連作の題の入った、この旅の中心的な句である。連作十句の中でも、真ん中の五句目に配置されている。季語は「夕焼」で夏ではあるが、この旅で彼が見た土佐の夕焼はきっと秋夕焼だろう。自分の影が美しく見えるほどの土佐の夕焼というだけで、眼前にオレンジと赤と影の黒が立ち現れて息をのむ。しかしそれだけでなく、この句の魅力は大きく中七にある。自らの影が「われよりも」美しいのである。この複雑さの無いすっすっと連なるような調べから、この光景がはっきりと想起される。
土佐の夕焼を眼前にした彼は、素直に、戸惑うことなく、自身の影が自分自身より美しいと感じた。それは、そう思わせるほど、土佐夕焼が壮大で美しく、心に迫ってくるようなものだったということだろう。
自然のあまりの大きさ、切実さに、人間一個人としてのちっぽけさを思わされたかもしれない。「われ」のリフレインが、その対比を描き出している。
ここまで読んで、二句目の「首都おのが」の「おのが光」に、この句の「われの影」が対応しているのではないかと考えられてくる。先の読みでは「おの」を首都と取った。しかし、この句との対比として、「おの」を「われ」即ち彼だと読むとどうなるか考えたい。二句目では、彼は首都の光に照らされていた。そしてその心象を表すかのように、寂しさを感じる秋の雨が降った。対して、土佐夕焼を眼前にした彼は、その夕焼の影を自分より美しいと思った。首都の光も光であることに間違いはなく、彼の下に影もできるだろう。しかしその時、自らの影に気にすることなどなかった。「光」だけを見ていた。「影」に気付き美しいと思えたのは、この旅のおかげなのかもしれない。旅による変化(成長)が感じられた。
こほろぎの草喰ふかほが目の前に
前の句とは一転、ユニークな光景を持つ句が続く。こおろぎの貌を目の前に見るのが、能動的にそうしたのか受動的にそうなっていたのかと一瞬考えたが、そのどちらもが面白く、どちらでもいいと思った。「目の前に」の終え方で、こおろぎの貌が迫ってくる気がする。「こほろぎ」「かほ」という平仮名の表記から、幼さも感じつつ、目の歪な円と草を頬張る口の動きが生々しく伝わってくるようで若干鳥肌が立った。
もしかして野宿なのでは、と思うが、もしかするのだろうか。今度彼から聞きたい。
秋雲や千切れて飛べる雲の中
「や」で切れているが、主語は秋雲と考えるのが自然だろう。秋の雲がちぎれて、空を流れるのではなく雲の中を飛んでいる。当たり前のことのようで、雲が雲の中を飛ぶことは意識しにくい。ぼんやり彼が雲を発見して、ようやく表現し得たのだろう。「や」の一文字でその雲がちぎれる様子、そしてそれを彼がじっくり見ていたことが伝わってくる。これが「の」ではなく「や」であることが、彼の旅の「ゆつくりがよし」に表される余裕なのだろう。
みづうながすみづの流れや澄みてをり
秋の季語「水澄む」を詠み込んだものだろう。水流を、水が水を促す流れだと捉えた、写生眼が光った句である。作りは前の「秋雲や」に似ている。自然の連続性を感じる。
天の河まなざしをして何釣らん
個人的に読みが難しかった句である。「釣」る動作の主体を天の河として読むと、彼含め多くの人が見上げたらある天の河は、それを見る人々のまなざしをもって、何を釣りあげようとしているのか、となる。主体を別の誰かに置くと、天の河の架かる澄明な夜に海を見つめて釣る人がいる、その人はそのまなざしで何の魚を釣ろうとしているのか、となる。天の河の一面に広がる星々をみな見上げるだろうと思い、前者の読みで考えている。天の河を見つめていたら、僕は天の河に釣られてしまうかもしれない。
ねむりびとまたひとり増え星流れ
この旅の最後の句である。彼はこの旅のあとすぐに自宅へ戻らず、別の件で違う場所にまた移動していたため、この場所は首都ではなく土佐(高知)であると推測する。
眠る人が増えていき、星が流れる。彼は起きていて、それを発見しただろう。そして彼が眠るころに、また星は流れていくのだろう。「ねむりびと」「ひとり」の表記から、空間を抱擁する優しさを感じた。静かな音も聞こえてくる。
荷造りを始めて、眠って星が流れていく。ゆったりした旅にはゆったりした終わりがあった。
彼はこの旅で多くのことを感じただろう。そして記憶や体験を凝縮させてこの十句になったのだと思う。この十句に丁寧に自分を投げ込んで、荷造りから始めるとき、読者である僕たちは城に時間を思って、夕焼での自身の影に「われ」を思って、こおろぎと目を合わせ、眠り人になっていく。彼が言語化し、俳句にしてくれたおかげで、第二の主人公である読者としての僕も、旅をしたような気になった。いや、もしかすると、僕も彼と旅をしていたのかもしれない。幸せな旅だった。
0 件のコメント:
コメントを投稿