2019-08-11

エスペラントの夢 俳句の批評は役に立つのか ……上田信治

エスペラントの夢
俳句の批評は役に立つのか 

上田信治

「晶」no.09号(2014)より転載

俳句の批評は、役に立つのか。

役に立つもなにも、それは独立した言語作品であり、功利性をはなれ独立した価値をもって計られるべき、と考えることも可能だろう。しかし「実用」品であることを忘れた批評は、始原性という尻尾をなくしたトカゲのようにならないか。それは、そういうものとして、美しいのかもしれないけれど。

T・S・エリオットは、批評について「大体のところ芸術作品の説明と趣味の是正というような目的をいつも目ざしていなければいけない」(「批評の機能」)と書いた。

芸術作品の説明と趣味の是正……。俳人である皆さんは、それを他人から聞きたいと思うだろうか。どうも望み薄という気がする。



ところで、俳壇のパーティーで、スピーチを誰も聞いていないのは、よく見る光景だけれど、自分は、パーティーのスピーチを積極的に聞くほうだ。

パーティー会場のマイクの前は、人波が退いて、砂州のようなスペースが生まれていることが多い。自分は、そのスペースに一歩出て、話者を見て、傾聴の表情を作る。

何を言っているか聴き取れないことも多いけれど、時折うなづき、終わったと分かれば拍手をする。

他の人も、もう少し、聞くことに参加してくれれば、自分もそんなに熱心なふうにしなくてもよいのだが。理想を言うなら、スピーチは、会場の六、七割が普通に聞いていて、ときおりごく小声でしゃべる人がいて、小さなざわざわに包まれている、というような聞かれ方が、望ましい。そこに、そういう「ちょうどよく公的(パブリック)な感じ」が生まれていないのは残念なことだ。

だから自分は、大げさに言えば、抗議として、傾聴のポーズを取るのだけれど、すると、そのタイミングを狙ったように話しかけてくる人がいて、驚く。もちろん悪い人ではなく、むしろとても「いい人」なのだけれど、いい人は、いつも人間関係を第一に考えているから、いい人なのである。

まあパーティーのことはいいのだけれど、俳句の批評が役に立つとしたら、それは、俳句に「ちょうどよく公的(パブリック)なもの」を持ち込むことによって、ではないかと思う。



人は、群居性のサルの末裔として、同族集団へ帰属することを根本欲求とする。承認が、人にとって、生命と等しく重要なのは、そのためだ。

人の魂は、その人がどの集団への帰属を望むかによって、色かたちを異にする。彼が大衆の拍手喝采を浴びたいと思っているなら、その人は骨の髄まで大衆なのだし、彼女が同年輩の同性より1ミリでも優越することを望んで生きているなら、その人は未だに学級の一員なのだ。誰かがもし天使の類であれば、彼は、その同族が価値とする基準において生きることを、心から望むだろう。

そうやって、人は、自らの同族集団が欲望するものを、価値とする。

神も理念もお金も俳句も、人が自分の上位に置く概念は、皆、その人が属する同族集団の見る「夢」なのだと、考えれば分かりやすい。
 
結社は、ある俳人が夢見た俳句を「上位概念=理想」として、分け持つ集団である。

集団内の作品や作者の価値は、その「理想」に照らして、測られ決定される。つまり結社の「理想」は、兌換貨幣における金(きん)のようなもので、それは集団の内部においてもっとも上位の、公的な価値である。流通する貨幣にあたるのが、結社内の評価であり、その発行権を持つのが「主宰」だ。

しかし、集団の外ではどうか。

「よそ」の作品とそこに含まれる「理想」を、他集団の成員は、ためらうことなく自分たちの「理想」に照らして値付けするだろう。俳人どうしは俳句の話が出来ないという冗談があるくらい、われわれは、属する集団によって価値や「理想」を異にする。

俳句においては、長らく、ローカルな諸価値を包括する価値の水準が存在せず、作品が、私的に、多元的に(というと聞こえが良いが、ばらばらの判断の無原則な合成によって)測られている。

趣味判断はしょせん好き嫌いなのだから、私的で上等だと言う人は、人類史における芸術の実在を認めない立場なのだろうからおくとして、子規や虚子の夢見たものが、理想としても集団としても分裂を繰り返した結果、現在は「いい俳句」についての合意が存在しない時代になった。

ただでさえ人手不足のこのジャンルで、作家の試行がばらばらにグループ単位で行われ、それを受容する側も同様であることは、まちがいなく停滞へとつながる。一つのメソッドの寿命は、固定化してしまえば長くない。集団で作って集団で読むこの詩型は、近視眼的にやっていれば、蛸が自分の足を食うように、可能性を食いつぶしてしまう。

視線を、既にあるものからまだ実現していないものへ向けて、「遠く」保つことが必要なのだと思う。「先生」という先行者は、より遠くの先を見るという、まさに、そのために存在するのではないか。



自分が俳句について拙い文章を書き継いできたのは、「先生」というものについたことがないからかもしれない。

結社にいれば、俳句の「理想」は「先生」によって分配されるのが建前だ。作品や選句、あるいはふとしたひと言から「先生」がはるか遠くに視ているはずの「理想」を感じ、その後を追うのが、弟子の本分だろう。

集団外にいる人間には、特定の「先生」の視線を追うことができない。だから、それを作品の指し示す彼方として見ようとし、また、複数の先人の視線の交点を見出そうとする。

先人たちの視線の先にあるいくつかの「的(まと)」がさらに無限遠において重なるところ、考え得る限りもっとも遠い「的」。そういうものがあるものと信じて目を凝らす、つまり、考えるわけだ。

書くことは(人間のすべての行為と同様)言語以前の内的なもやもやした図式を具体化することであり、内的なもの私的なものを「外」の次元へと移行させることだ。

作品と批評の関係も、それに近しい。

批評には、技術批評、印象批評、テーマ批評、評伝、といったバリエーションがあるけれど、いずれも、作品において言語化されていないものを言語化し、一段階「外」へと移行させることを企図する。

それは、作家の個々の試行を、共通財にすることでもあって、そのとき、批評とは、対象の価値を「荷物として扱いやすいように紐と把手をつけること」であり「(地域通貨から)共通通貨へ両替すること」だ。

批評は、対象が価値とする理想を、いったん公的な次元に移行する。

しかしそれは、ローカルな「理想」を淘汰して、一般的価値を確立するというようなことではない。批評がすべきことは、価値をめぐる闘争ではなく(それは個々の作品により行われる)その受容をめぐる調整である。

書き手は、自分だけの「的(まと)」を持たなければならないのだから、その「理想」はどこまでも私的であっていい。しかし、その射程をより遠くへ向かわせるために、私的な「理想」や「価値」は、他の「理想」や「価値」に試される必要がある。

書き手の「的」が、先行者の「理想」との関係から生まれることは、これまでそうだったように、これからも変わらないだろう。

つまり、芸術行為には、私的な「価値」が試し合う一段階パブリックな場が必要であり、それこそが批評の形づくろうとするものだ。

一つの作品の「価値」が、常に、各集団内部の言葉と同時に「外」で通用する言葉でも語られるようになること。それは、同時代の俳句が受容の水準を共有することに等しい。

何らかの権威が価値判断を独占するのではなく、より遠くへ向けて語られるいくつもの声が複合し、落ち着く所へ落ち着くような「ちょうどよく公的な」空間。それは新しい書き手によって、すでに欲望されているはずのものだ。

書きながら、これはまるでエスペラント語の理想のようだと思ってしまった。

けれど、芸術はもともとエスペラントなものなのだから、批評がそれを夢想することは、必然である。

たぶんできるだろう。スピーチで誰もがするように、面白いことを言って笑わせたり、そんなに嫌な奴じゃないと思ってもらったりしながら、それらが、何らかの貢献になるような、歴史的偶然を待てばいい。

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