【週俳12月の俳句を読む】
季語のよろしさ
中村 遥
十二月八日朝餉に味海苔が 松本てふこ
味付け海苔と焼き海苔。関西は味付け海苔が一般的で庶民的な感じを持つ。私も子供の頃は味付け海苔で育ちそれを好んだが、今は焼き海苔の方が好きだ。年齢に因るものだろうか。
掲句、いつもと変わらぬ味付け海苔のある朝食。何でもない景の中のひとつのモノの切り取り。それが季語太平洋戦争開戦の日〈十二月八日〉と関わって、平凡な日常の中では気づかぬ平和を改めて感じさせてくれる一句である。
〈が〉が気になった。単に〈十二月八日〉と〈朝食の味海苔〉のふたつを衝撃させても十七音には整うのだが、作者は〈が〉にこだわっているように感じた。この一語〈が〉に作者の表現したい思いがあるのだろう。
子供にも旅荷ありけり石蕗の花 同
最近の家族旅行の際は子供もそれぞれが自身の荷物を持つのが常識なのだろうか。子供がその旅で必要なものを荷作りさせるのもひとつの教育なのだろう。まだしっかりと歩けない子が小さなリュックを背負っているのを見たことがある。何が入っているのかと尋ねれば紙おしめだと言われた事を思い出す。
さて、この句の季語は石蕗の花。石蕗の花は寒い時期に咲く花。茎をしっかりとまっすぐに立てて咲く花。密やかに黄を尽くして咲く花。人に例えるならば、控えめでありながら自身の意思を貫き通す人生後半の女性、そんなイメージを私は持つ。 子供に似つかわしい冬の季語と言えば、冬たんぽぽとか冬菫などが思い浮かぶが、子供と石蕗の花の取り合わせに少なからず驚きがあった。
花の季語を取り合わせるのは難しいと私の属する結社ではよく言われる。何の花と取り合わせても一句としては成り立つのではないか、絶対にこの花の季語でないといけないのか、他の花の季語でも成立するのではないかと問われれば、その絶対は揺らぐからだろう。
私の場合、一元句は別として、花の季語との取り合わせの句が出来上がるのは、季語と季語以外のフレーズが一度に授かる時のみだけかもしれない。先にフレーズが出来上がってあれこれと季語に悩んでしまったら完成は遠い。つまり季語が動いてしまうと思うからだ。
スリッパのあまたぬがれて神の留守 浅沼 璞
季語の中にはその季語を使うことで一句の六割方が出来上がるという季語がある。神の留守という季語もそういう季語であると思う。佳句となすにはあとの四割に依るという事だ。
脱ぎ捨てられているスリッパの景が見えて来る。何故か乱雑さも覗われる。スリッパを履いて廊下から畳の間に上がった大勢の人々の何かの集まり。そんな景を思う。乱雑なスリッパのリアルな描写と神の留守の取り合わせ、なにかおかしみさえ感られる。
そして、ちょうどその頃、出雲へ集結されているであろう八百万の神々も、もしかしたら同じように等と思ってしまうから不思議である。
因みに陰暦十月、神々は出雲に集まるけれど留守番をする神様もいるそうで、それは恵比寿神だそうだ。「えべっさん」と呼ばれて関西では大変馴染の深い商売繁盛の神様。一月には宵戎、本戎、残り福と三日間も続く「えべっさん」と親しまれている神事がある。
信楽の狸を撫でて年忘れ 岡田由季
信楽の狸といえば、昭和天皇が信楽を行幸された際、人口の少ない土地柄、陶製の狸に日の丸を持たせ沿道に並ばせて歓迎されたことに、天皇が感激されその狸を歌に詠んだことから有名になったとか。そして今、NHKの朝ドラ「スカーレット」でも信楽が舞台である。
陶製のこの狸は蕎麦屋とかの店先に立っているのをよく見かける。なんとも愛嬌のある福を呼ぶ縁起物だ。それを撫でて年忘れ、ほっこりとした和やかさが滲む一句である。
0 件のコメント:
コメントを投稿