【週俳2020年新年詠の一句】
家もろとも
関悦史
輪飾のありぬ空家と思ひし家 林雅樹
人が住んでいるともいないともつかぬ、いや「空家と思ひし」というのだから、すでに住む人の去ったと見えた、荒涼の気をまとう家に、あろうことか輪飾が付けられている。家のなかで、まだ誰かが暮らし続けていたのである。空家といえば死物ながら生気の残存を感じさせる物件だが、残存ではなく、人の現物がひそんでいる。それもただ無為無気力に日々をつぶしているわけではない。新年を寿いで輪飾を出すなどという、世の習慣を律儀に守ってすらいるのである。
しかし家にはそのほかに顕著な変化はないらしく、相変わらず人の生きている気配は見えない。空家と思われたからには、庭の雑草、枯蔓、風に飛ばされたきたゴミの類もそのままにされていそうなものだし、鉢植えなどもおそらくない。およそ手入れの行き届かない家屋に、輪飾だけが、生存の証のごとく取り付けられている。狐狸妖怪の類が住みついたわけではない。世のつねの人の所業である。
空家の増加も近年問題化しているから、その点で社会的リアルへの通路が開けている句といえるが、句の主眼はそこにはない。強いていえば、恐怖と隣り合わせのユーモアに近い。
家もろともに木乃伊と化しつつ、息をひそめているかのように暮らす人、あるいは生けるトマソンとなりかかっているような人が、新年を寿ぎ、不意にその存在と意志を玄関先にまではみ出させた「輪飾」という物件の生々しさ。その生々しさとの遭遇という、事件と呼ぶほどでもない小さな出来事の、収まりのつかなさが、下六の字余りにまではみ出しているのである。
≫2020年新年詠
0 件のコメント:
コメントを投稿