【週俳2020年新年詠の一句】
誰ぞや笑ふは
西原天気
元日の笑つて聞こえないラヂオ 中矢温
俳句の意味内容を、散文的に確定させていく読み方は、けっして読みの中心ではないことは承知しつつ、ここで笑っているのが誰か? という話から。
もちろん結論は出ないけれど、ラジオって、テレビが家族で観るものから一人で観るものへパーソナル化する(いまはそうなんですよね)かなり以前に、一人で聴くもの化した。
茶の間にラジオが鎮座する景色は昭和を三分の二過ぎたあたりから消え、生活史・風俗史的にいえば、受験生が部屋で夜中に、プロ運転手がカーラジオで聴くのが、ラジオのもっぱらの景色となった。
そう考えると、この句で、ラジオを聴いているのは、一人。笑い声は、ラジオの中。そういうことになりそうです。
正月はとにかくめでたい、なにがなんでもめでたい、というのが我が国の習俗なので、テレビ番組はおおかたお祭り気分・馬鹿騒ぎに終始する。では、ラジオは? そういえば、元日にラジオは聴かなかった。クルマに乗らなかったせいだ。だから、この日のラジオのプログラムがどんなだったか、わからない。
でも、この人の聴いていたラジオ番組では、たびたび、あるいはその一瞬、笑い声で出演者が何を言っているのか聞こえなかったのだろう。
笑い声が在るから、めでたいのか? 否、そうでもないのか。この句からは、ある種の空虚感を感じた(つまり、めでたさを詠んではいない)のだが、どうだろう。空虚まで言わずとも、感興の希薄?
もちろん、まったく違う場面かもしれない。例えば、クルマの中で、同乗者が笑う。それでラジオが聞こえない。これだと、ちょっと温度の高い句になる。笑い声を身近にしているぶん、ね。ラジオという箱の中という、近いけど遠い現象よりも晴れやかな一瞬です。
≫2020年新年詠
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